「防災」維持法

 「体感治安」という言葉があるそうだが、これは統計などの数値に基づいた「指数治安」の対義語で、人々が実際に感じている治安のことを言うらしい。そしてこの体感治安は、指数治安とは異なり、相当悪化しているという。
 マスコミなどによって、凶悪事件が報道されるたびに、それは悪化する傾向があるようだが、やはり決定的な転機となったのは、95年のオウム事件あたりであったろうか。
 これは、地縁・血縁に続いて、会社(正社員)縁、公的支援…あらゆる社会の紐帯が緩くなる時期と一致する。会社帰りの孤独な個人が、誰にも気づかれずに犯罪の被害に遭うというのは、確かに永遠の悪夢ではありえるが・・・。
かくして、人々のもやもやとした不安感に対処するために、世の中は、警官と警備員と防犯カメラだらけになってしまったというわけである。
 一方、「治安」とならんで、「防災上の観点から…」という文言も、よく耳にする。下北沢の古い街並みは、地震が起きたら危ないからという理由で、再開発=大規模道路の計画があるし、某大学の学生会館は防火基準を満たしていないという理由で、あえなく取り壊されてしまった。
 「国益」とか「国家権力」という言葉には、ある程度の拒絶反応を示すような人でも、「安全」とか「安心」とか「防災」とかいう大義名分を打ち立てられると、急におとなしくなってしまうらしい。つまり「警視庁」は嫌だが、「東京消防庁」の言うことなら仕方がない…、というわけである。
誰もが「安全か? それとも(地震で倒壊するような)危険か?」と問われれば、前者な街に住みたいと言うに違いない。この極端な二者択一が、実は人々の選択を狭めているのだとしたら、これはあの阪神大震災(95年)がもたらした、負の側面の一つであろう。
 反証不能な二者択一ではなく、第三の選択肢を考えるのが、自由を守るという点では重要である。