運動再建団体

 これだけ多くの労働者が職を失おうとしているのに、たいした運動も抵抗も起こらないというのは、どういうことだろうか。
明治39年1月25日のことだった。凶作のため労働の道をうしなった宮城県玉造郡一栗村の農民遠藤久治(53歳)の一家4人は、毎日絶食をつづけていたが、その夜、近所の者が久治の家のまえを通りかかると、「腹がへつて死ぬやうだ」と呻く声がきこえた。すぐに餅をもっていって与えだが、久治はのみくだすこともできず、翌朝死んだ。妻のまつ(56歳)も、その次の日に死んだ。・・・まことに痛烈である。私は、次のような疑問を感じた。ここまで追いつめられても人民はなぜ忍従し、黙って死んでゆくのか。なぜ、おもいきり破壊せず、抗議の叫びもあげず、援助も求めず、ただ耐え忍び、餓死してゆくのか。かれら自身の体の内部に自分で自分をかたく内縛してしまうような精神的ななにかがあったからではないのか。」(色川大吉『明治の文化』一部中略あり)
 もしかして今の日本人は、いつの間にか、この明治末期の民衆の様に、飼いならされ、馴化されてしまったのだろうか??
座したまま餓死するのを待つのも民衆の一つの姿なら、そのほんの20年前の民衆が「自由民権のさけびに湧きかえっていた」(同)というのも、一つの姿である。
戦後日本の労働運動も戦歴がないわけではない。1960年、炭鉱労働者の首切りに反対して行われた三井三池闘争、それに70年代の国鉄闘争。
 しかし、最近の日本人は妙に物分かりがよくなってしまい「この業績なら派遣社員を切るのは仕方がない」「わが社にも余剰人員が相当いる」「反対しても仕方ない」とばかりに、抵抗も反対もなく、受け入れてしまっているように思える。
 その原因は何か? 答えの一つとしてあげられるのは、かの国鉄闘争が、徹底的に弾圧されてしまったということである。日本における労働運動がひとつの終わりを迎えてから、もう30年近くもたってしまった。
30年といえば、当時20代の若者であっても、今は定年を迎えるころであろう。つまり、日本の現役世代は、もはや闘争を経験した者がほとんどいなくなってしまっているのだ。日本社会において労働運動は、いわば、失われた伝統の一つである。
 あるひとつの思想と行動がいったん根絶やしにされてしまってから、その思想が再び芽を出し、行動に結び付くまでには、長いながい過程が必要である。
誰も、組合を知らないし、運動を知らない。
「組合ってなに?」「ストってなに?」「そんなことして何になるの?」という質問に一つ一つ答えていきながら、労働運動を再建してゆくしかないのだ。むろん答える側とて、未経験なのだから、それは同様である。
 今日の私たちは、そのような死に絶えた荒野から再出発しなければならない。