ネット<居酒屋

 むろん人は一人では生きてはいけないし、誰かに認めてもらいたいという欲求は、誰もが持っているのではなかろうか。しかし、血縁(家族)・地縁(地域社会)・会社縁(長期安定のムラ社会)、その多くが崩壊し、社会学の教科書の冒頭ではないが、「いまや資本主義の発達にともなって、社会のすべての階級が動き始めた。経済的秩序のなかには、もはや自然の、疑う余地がないと考えられるような、固定した場所は存在しなくなった。個人は独りぼっちにされた。すべてはみずからの努力にかかっており、伝統的な地位の安定にかかっているのではない。」(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』)といった状況が現出している今日において、誰かに承認され自分の存在価値を認めてもらうという機会は、ますます少なくなっている。
 そこで、一種のアジール(避難場所)としてのネットが登場するのだが、この世界は、匿名で即自的であるがゆえに、日常的な人格とはかけ離れた、あり得ない言説・主張・虚偽が行き交うとんでもない世界となってしまった。
 これも、おそらくは会社・家庭といった「リアル世界」における承認のなさ感が、より「ネット世界」での承認願望を呼び、ついつい過激な意見を登場させるのだと思う。昼の世界の真面目な勤め人が、夜中ネットにおいて、より過激でより差別的でより破壊的な書き込みをするというわけである。
 昼の承認されない「リアル世界」と、ほとんど架空の「ネット世界」以外に、もう一つの世界を作ることはできないだろうか。つまり、両者の緩衝地帯というわけである。
 居酒屋などは、その典型なのだが、むろん居酒屋での「語り」というのも、相当多くの虚偽・装飾がまじっているものである。
馴染みの居酒屋で、上客を気取るというのも、昼のリアル世界で傷ついた自尊心をある程度回復させる契機となりえる。だが、ネット世界ほどのウソは通らない。いわば半リアル世界である。「社長」「金持ち」「モテモテ」などというメッキは、同じ店に数回も通えば落ちるからだ。
 そんな居酒屋で虚勢を張るのは、常連のおっさんに任せるとして、リアル世界に傷ついた若い「君」は、もしもおっさんに話しかけられたら、なるべく正直に心情を吐露する方がいい。多くのおっさんは、わりと真面目に話を聞いてくれるはずだ。大半のおっさんは、君の話のことはすぐに忘れてしまうだろうが、何人かの生真面目で面倒見の良いおっさんが、君のことを心配してくれるかもしれない。
勘違いしたおっさんにあれこれ指南されるのは、正直かなわないが、わりと的確な会話がもてる例も少なくない。また話を聞けば、そのおっさん連中もそれなりに苦しんでいるということも想像できるであろう。ひょっとしたらその中から、人生のよい転機を提供してくれるおっさんが現れるかもしれない。
 むろん、その可能性は相当低いだろうが、ネット世界で悪態をついて引っ込みがつかなくなり、ついにリアル世界に復讐するなどというとんでもない行動に至るより、まだ希望がある。その可能性に賭けてはみないだろうか?