学力低下論

 更新が遅れました。
わたくし貧乏卿の本業=塾講師の仕事が、冬期講習で忙しかったためです。
毎日、漢字の読み方を教えたり、連立方程式を教えたり…。人生はたいへんです。
 こんな時、支えになるのは、「僕が尊敬するのは、自分のやっていることがほとんど無意味であるか、あるいはまったく意味をもっていないことをちゃんと知っていて、それでいてその仕事をちゃんとやってのけるような男である。僕はそういう男を尊敬する。」(石原吉郎「棒をのんだ話」)という一節です。
一生懸命教えてますので、ご容赦ください。
以下が本文です。


 この仕事をしていると、子どもの学力についてよく聞かれます。正直に言うと、やはり子どもの学力は相当低下しているといえます。しかし、それがゆとり教育のせいなのかと問われると、これはなんとも言えません。
 確実に言えるのは、子どもの意欲の低下です。子どもに、あんまり学習しようという意気込みが感じられません。入試に際しても、偏差値が55の子が、60の学校を目指すのではなく、これ以上苦労したくないという理由で50の学校に進学してしまうといった感じです。そもそも少子化ですから、入試も簡単になっていますし、勉強するわけはないですよね。
 おそらくこれは、勉強して→いい学校行って→いい就職・・・といった社会的な圧力が無くなってきたからだと思います。親も学校も社会も、勉強、勉強と言わなくなっていますね。第二次ベビーブーマー団塊ジュニア)が受験を終えた段階から、こうした社会的圧力が、急速に低下したように思えます。
 勉強が出世や幸福につながるという考えが潰えた頃に現れたのが、「ゆとり教育」です。今までの詰め込みを反省し、総合的な学習で子どもの意欲を高めるという意図だったと思います。意欲が高まれば、学習内容が3割減ったとしても、理解度が増すので学力低下は起こさないし、考える力も増えるというのが、その目論見でした。しかし、子どもの学ぶ意欲を復活させることはできなかったようです。
今日、ゆとり教育は、学習量を低下させ学力低下を招いたとして、非難の対象になっています。ただ、どうもこの非難は日本社会の根本的な変化を見落としているように思えます。日本社会では、みんなが勉強して、みんなが豊かになるという途上国型の一斉教育は、すでに通用しなくなっていますから。
 したがって現在、ゆとり教育の反省として、詰め込み型の教育の復活が唱えられていますが、これは時代錯誤と言わざるを得ません。いまさら授業内容を増やしたところで、意欲の低下は補いようもないし、バラバラになった子どもたちが再び教室に戻るとも思えません。よって学力向上は期待できないと思います。ただ、授業内容と授業時間が増える(全体のパイが増える)ので、歩留まり率は同じでも、知識の絶対量としては多少向上するのではないかと予測しています。
 総じていえば、日本の公教育は、途上国型の、知識の量を重視した教育から、質を重視した教育への転換を図ろうとしてきました。それがうまく果たされていないことへのいらだちが、今日の学力低下論につながっているように思えます。転換には、まだまだ模索が続くと思います。性急に答えは出せそうにありません。
 むしろ緊急の問題は、学力の二極化だと思います。教育の質や量を問う以前に、学習から放逐されたような下位グループが増大しています。塾にも通えず、家庭も不備…。家庭や学校、そもそも社会から見放されたような階層が、確実に出来つつあります。そこを何とかするのが、公教育の使命ではないでしょうか。
 むろんこれは、教育の問題よりも、社会政策や福祉政策の問題でもあります。総合的な施策がないと、学力低下どころでは済まなくなると思います。教育の危機は、社会の危機でもあるのです。