没落の持つ明るさについて

 安部、福田に続く、麻生内閣の混迷・劣化ぶりには、驚くべきものがあり、世界的な不況の到来に、さらなる無能・無策ぶりをさらけ出しているのだが、不思議と怒り出す気が、すくなくとも私には起こらない。
 どうしたことだろうと、自分でも疑問に思っていたが、とある、これまた自民党の反麻生派の「重鎮」が、自党の党首の政治をさして「閉塞状況だ」と、批判しているのを聞き、合点がいった。
 なるほど、自民党内部の立場から見れば、麻生サイドの迷走は閉塞状況に映るわけだが、もともと反・自民の立場から見れば、現内閣の凋落ぶりは、早晩の自民政権の崩壊を意味することであり、嘲笑には値するが、憂慮すべきものではない。
「戦後経験の第一は国家(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事の発見であった」(藤田省三『精神史的考察』)というには程遠いが、私自身、与党の混乱と自滅を、ある種の希望をもって眺めている。ついに、自民党が終わるのだから。
・・・むろん最大野党の党首とて、かつてその与党の権力の中枢にいた人物であり、さしたる政策転換が期待できるわけでもないし、また政権交代したのちの、内紛や分裂なども、すでに相当程度予見されるが、まあとりあえずは、新政権の誕生に期待しようではないか。・・・
さらに飛躍を恐れずに言えば、敗戦・焼け跡・ヤミ市にみられるひとつの破局は「住ま居が焼き払われた惨状の中にどこかアッケラカンとした原始的ながらんどうの自由が感じられたように、すべての面で悲惨が或る前向きの広がりを含み、欠乏が却て空想のリアリティーを促進し、不安定な混沌が逆にコスモス(秩序)の想像力を内に含んでいた」(同)のだから、政治に限らず今日の「100年に一度」(?)の社会・経済の大変化が、逆に新社会建設への希望を持つと想定することも可能ではなかろうか。
 でも結局、それほどの大変化は、訪れないのかなぁ…。ならせめて従来の格差を拡大するだけに終わらないことを期待します。