進化する企業と疲弊する社会

 「非正規労働者を安く使い、散々内部留保をため込み、情勢が悪くなったら、さっさクビにする理不尽な経営者たちよ、恥を知れ!!」などという、至極まっとうな批判が挙がっているが、私から見れば、この批判は、経営というものの本質を見誤っているように思える。そもそも経営者にモラルを求めるといった主張は、泥棒にモラルを求めるといった類の不可能な命題だからだ。
 不況でも生き残る、競争に勝ち抜く、敗者は滅びよ・・・、経営の論理というものは、間違いなく適者生存のサバイバルゲームである。企業は少しでも業績を上げようとするのは、いわば当然であり、そこに業績向上以外の目標を掲げていたとしたら、それは偽善であろう(その偽善のカケラすらない企業も多いが)。
 これはいわば、進化であり、進化とは、環境変化に対する無限の適応現象のことを言い、生き残ることが唯一最大の目的である。
 そのためには、手段を選ばないのであり、利益を最大化するために、経費を最小化し、不要な物は切り捨て、有用な物のみが成長してゆくのである。会社というものは、その気になれば、社員をタダで働かせ、たとえ死してもかまわないのである。多くの企業がそうしないのは、別に社員の幸福を考えているからではなく、次々に社員に死なれると、社員がいなくなって会社が余計に困るからにすぎない。企業経営の論理というものに、善悪の価値基準となるべきものは、そもそもないのだ。
 だから、法や政治による規制が必要なのである。
 政治とは、保守であろうと革新であろうと、まずはじめに、ひとつの理想社会を設定する。そしてその理想を実現するため、環境に適応するのではなく、逆に環境に働きかけていく行為を指す。保守は理想とするモデルが過去もしくは現在にあるので、働きかけは少なくて済むが、革新はそれを未来に求めるので、より積極的な働きが必要となる。これを特に進歩という。
 進化と進歩は、日本語では類義的であるので、かなり誤用されているが、そもそも全く別の概念である。
 グローバル化という激しい環境変化に適応するため、企業は一層進化した。常勤社員を少なくし、スリムでより筋肉質になった。
 だがそれは、社会の実相をより一層悪くした。ならばその進化にストップをかけ、グローバル化の是非を問うのが、政治の仕事である。