外部化をやめよ

 外部化、今風の言葉でいえば、アウトソーシングである。
 ただここでは、本来個人もしくは家庭が受け持っていた仕事を、市場原理に基づいた論理にゆだねること、という意味で使っている。
 家事・子育て・介護…、それらは従来家庭の内部において営まれてきた。それを外部化し、企業の仕事に任せてきたのが、最近の流れである。
 むろんそれは、都市生活の必然であり、古くは江戸時代の儒学者によって、「金にて諸事の物を買い調えねば一日も暮されぬ事ゆえ、商人なくては武家はたたぬ也。諸事の物は皆商人の手にあるを、それを金に出して申請けて用を弁ずる事なる故、ねだんの押引はあれども押買いはならず。畢竟ねだんは商人の申し次第也。これ武家みな旅宿の境界なる故、商人の利倍を得る事、この百年以来ほど盛んなる事は、天地開闢より異国にも日本にもこれなし」(荻生徂徠『政談』)と、批判されている。いわば、近世・近代の必然的な流れでもある。
 私とて、便利な都市生活は否定しないし、徂徠のように中世的な農村生活に戻れというわけでは毛頭ないが、近年の外部化は、あきらかに度が過ぎているように思える。
 私たちは、食事はもちろん、家の掃除から、子どもの保育、親の介護まで、次々と発注するようになった。むろんそれには、女性の社会進出といった事情があるわけだが、ではそうした産業の担い手は誰かといえば、これまた大量の非正規労働者である。可処分所得の高い、高収入の家庭の家事労働を外部に委ね、一方でそれを受け入れているのは、パートやアルバイトに出ざる得ない低所得者層である。まず、ここに階層的な矛盾がある。
 むろん私も、家事・育児・介護等々が、すべて家庭内部で運営されるべきとは思っていない。夫と妻、しかも専業主婦といった男性正社員を中心とした良妻賢母の家庭など、もはや存在し得ないし、また存在すべきではない。
 しかし、だからといって、個人もしくは家庭の機能がことごとく外部化され、その大半が企業の論理にゆだねられ「サービス業」という枠でくくられるのは、経済指標を大きくするという点では効果があるだろうが、人間の生き方としては、一体どうなのだろうか?
生活の隅々までもが、企業によって需要を喚起され、消費機会を提供され、また雇用機会を提供されている。しかし激しい競争の末、儲からなくなったら、すぐ撤退である。消費者も労働者も置き去りにされる。このような論理に、生活をゆだねるのは危険だし不幸なことである。
 私が提案するのは、もっと小さな外部化である。なるべく近所の小さな店でメシを食い、地元の商店で買い物をし、地域経済を維持する。ただこれだと、単なる回顧趣味=最近はやりの昭和30年代ノスタルジアになってしまう。
 したがって、介護や子育てといった当時なかった分野については、小規模な事業所に任せてみようではなかろうか。