フトモモを乾かしながら

 子どもの頃は、宇宙に興味があった。図鑑などを読み、自分が大人になるころは、人類は宇宙にもっと飛び出しているだろうと、思っていた。だが、いまだに、人類は宇宙に行けない。多額の予算を使っても、たかが数名を宇宙に滞在させるのが、関の山といったところである。 
 自転車通勤をしている。環境や健康のことを考えて…というわけではない。自宅から職場まで都内を数キロ移動する程度なのだが、そこを結ぶ交通機関がないのだ。雨が降れば、傘を差す。すると、フトモモだけが、ぐっしょりと濡れる。濡れたフトモモを見るたびに、人類の科学や、未来や、進歩など、たかがしれているな、と思う。
 私のような身でも、宇宙までとはいわないが安い航空券を得れば、日本や世界のあちこちにいくことが出来る。便利な世の中になったものだとも思う。
でも、数キロという範囲を移動する手段は、この自転車以上のものは今のところないし、これからもないだろう。そして、雨が降れば傘を差し、フトモモをぬらすことも変わらないだろう。大人になった私は、もう、宇宙や科学や未来に、なにかを望んではいない。人類には、この星で十分だと思う。
 だが、その星の重力の底は、今まで以上の危機に陥っている。なにも、「地球」的な環境問題を引き合いに出す必要はない。むしろ危機は、眼前にある。日本のようなところですら、再び貧困が広がりつつあるのだから…。この状況で、宇宙や、未来や、科学の進歩を持ち出すのは、社会的問題を隠蔽する結果になるだけであろう。いわば、宇宙(=上)をむいた反動というわけだ。
 自転車に乗り、雨が降れば傘をさし、そしてフトモモは必ず濡れる。濡れたフトモモは乾かさなくてはならない。濡れては、乾かす。そして、また濡れる。社会に何か問題があれば心配し、貧困が起これば、解決を図ろうと努力する。解決したとしても、いずれまた次の問題が起こるであろう。
 その繰り返しで十分ではないか。そしてその反復運動がある社会こそ、重力の「底」に住む私たちにとって、真っ当に進歩した社会と言えるのではなかろうか。