拉致被害者家族に望むもの

 拉致は悲劇、というより国家犯罪であろう。かの国を憎むことは容易に推察できる。だが、素直に怒りと悲しみを、そして制裁を訴えることが、実はより悲劇的な結果を招きつつあるとしたら?? その純粋な叫びの先にあるものへの想像力を持って欲しい。
 残念ながら、今日の経済制裁によって傷つくのは、かの国の指導者層では、ない。より負担を強いられるのは、名もなき市井の人々、当然そこには同じような家族があり、親子があるだろう。制裁強化の結果、食糧援助まで止めてしまったらどうなるか? それらの人々がますます苦しみ、ますます家族の仲が引き裂かれるとしたら? そして、被害者家族としての切実な願いが、かの国への「先制攻撃」をも主張し始めた、この国の指導者層、そのなかでも最悪の連中に利用されているのだとしたら?
「よく人は、Aという国家とBという国家とが戦争をしたという。じつはAという国家が、B国の市民を殺し、Bという国家がA国の市民を殺す。これがほとんどの戦争の実態だという。かりにAが侵略国であり、Bが被侵略国であったとしよう。最大の被害者はB国の民衆である。次の被害者はA国の民衆である。同じ国のなかで、国家と民衆とのあいだに緊張あるいは対立関係があるのだ。次にB国の国家指導者も被害者になることがあるだろう。だが、A国の戦争指導者を戦争の被害者であるとは言えない」(日高六郎『私の平和論』)
 拉致問題に関して言えば、Aがかの国である。最大の被害者は拉致被害者だが、その被害者や家族が、制裁を主張すれば、結局傷つくのはAの民衆である。Aの民衆にも、私たち同様に母がいて、子がいて、家族があるはずだ。(そしてこの図式は数十年前には反転する)
 拉致被害者家族には、A国の民衆への配慮をもちつつ、その国家指導者や政策を批判し、なおかつその批判がB国の指導者層に回収されまいとする、倫理的により高い態度が必要である。
 いや、もっと率直に言おう
 母としての立場で闘おうとするなら、あなたには、万国の母になってほしい。万国・万民の子を救う存在となってほしい。かの国の指導者たちを憎むのは当然だが、あなたが、その国の母や子にとっての、「敵」になってもらいたくはないのだ。