学歴の再生産

 というタイトルにすると、親の収入の格差が子の教育の格差を生む…という、いつもの話し(これも否定しがたい深刻な事実です)になりそうですが、今日はあえて、その反対のケースを指摘したいと思います。
 つまり、ふんだんにもしくは人並みに教育費をかけることが可能な家庭であっても、子どもにどのような教育を施すのか、親としてわからない。わからないゆえに、悩まれたり、また子どもの伸びる要素を逃してしまうというケースも結構あるのです。
別に受験競争をあおるつもりはありませんが、小・中・高とすすむにつれ、どの程度の勉強をさせ、どの程度の塾・予備校費用を使うのか、世の中には「相場」というものがあります。
子どもの素質がわかる親というのは、大学合格から逆算して、子どもの教育を描くことができます。これぐらいの大学に入るなら、これぐらいの高校に、あるいは中高一貫校にという風に、ある程度のプランを立てます。そしてそれぞれの入試には、どれくらいの学力が必要で、時には塾や予備校に通わせ、どれくらいの時間とお金がかかるのか目安を付けることができます。
 でも、親自身に受験や進学の経験がないと、なかなかこの算段がつけられません。周囲が中学受験に流れるのを見て、お金をかけて塾に通わせさえすれば有名中学に受かると勘違いしたり、あるいは逆に子どもの教育に全く関心を示さなかったりします。(特に受験産業は前者のような親を「いいお客さん」とする傾向があります。)
 学歴の「再生産」には、親の収入だけでなく、親の人生経験もしくは家庭の雰囲気という要素もかなり関わっていると言えます。
 子どもが自然と学習にむかうような家庭が作れるといいですね。それを形作るのは、立派な勉強部屋よりも、親自身が持つ何気ない知的なムードだったりします。受験産業にお金を使えさえすればいいというものでは全くありません。
子どものやる気と能力に任せるというのもひとつの方法ですが、高校入学前後まではある程度、親が道筋をつけてやることが必要でしょう。全ての子どもが有名大学に入れるわけではありませんが、子どもの素質を見極め伸ばしてあげるのは、親の務めでもあり楽しみでもあります。(もちろん、子は親の所有物ではないので、親の思い通りになるわけでもないし、またすべきでもありません。あらかじめ、ここは強調しておきます。)
 親自身の経験のなさは、想像力でカバーできます。すこしの想像力を持って、幅の広い道を歩ませてやりたいものです。