飲み屋の少数意見

 わたくし貧乏卿は、とても意地悪な性格の持ち主でもあるので、飲み屋でたまたま隣席して楽しそうに飲んでいる酔客に、あえてとんでもない議論を持ちかけて、相手を怒気と不愉快の極致に追い込むと言うことをたまにします。
 その代表が死刑制度の可否なのですが、当然のことながら、私は死刑制度には反対です。それを言うと、たいていの方が、以下のような反論をしてきます。
①家族を殺された悲しみが、あなたにはわからないのだろうか?
⇒遺族の方々には同情しますが、では遺族のいない、つまり天涯孤独で友人も知人も遺産相続人もいない人はどうするのか? 遺族や悲しみの有無によって裁判が左右されるべきではない。また遺族だからといって、故人の意思を勝手に代弁するという権利はないはず。遺族はけっして特権保有者ではない。
②更生の見込みのない人は、死刑にしてもいい!
⇒更生の可能性の有無は、重大犯罪においては考慮されるべきではない。殺人というとりかえしのつかない過ちを犯したのだから、更生や謝罪や賠償などはそもそも不可能である。謝罪や反省の有無によって、裁判官の印象が決まり、量刑が左右されるという裁判自体が、根本的に間違っている。犯罪者は、過去の自らの行為に対しての責任をとることが求められるのであり、そのような人物の将来の検討など意味を持たない。そして現実的には、おとなしく長期間刑務所にいることでしか、責任はとりようがない。
③とりかえしのつかない行為なら、命を持って償うべきでは?
⇒とりかえしのつかない行為の代償を、これまたとりかえしのつかない死をもって償うのであれば、結果として前者のもつとりかえしのなさを軽減してしまう結果になる。まして後者は、国家が制度的かつ組織的に清潔に行うのだから、そのとりかえしのなさ感が外見的にも軽減されているので、なお一層タチが悪いはず。
終身刑などの長期刑にしたら刑務所の経費がもったいない!
⇒人権の問題は、費用論には還元できないはず。また最近の刑務所は、身寄りのない高齢者の割合が増えているという。これは福祉政策の欠陥の結果であり、刑務所はけっして重大犯罪者で満杯になっているわけではない。
⑤本人が死刑になりたいと言っている。
⇒社会的な閉塞感の上昇に伴う形で、最近こういう自爆テロ型の犯罪が増えている。この事態を、死刑の存在が犯罪の抑止になるという死刑容認派は、どう考えるのだろうか。それはともかく、人権というものは普遍的であるので、たとえ当の本人がそれを望んだとしても、一個人の見解で左右されるべきではない。生き続けて責任をとること以外に、選択肢はない。
とまあ、いろいろとふっかけられる問いに、以上のように応対して相手を激怒させるのですが、最近特に私の旗色は良くないですね。
例の中国地方西部で起きたあの事件以後。「模範的な」二名の被害者と、その「模範的な」遺族の印象があまりに良すぎるからでしょうか。そして、当時18歳だった元被告が、友人への手紙で見せた「典型的な」露悪行為も…。ひとつ事件が、死刑制度についての冷静な議論を吹き飛ばしてしまったのであれば、残念でなりません。

そして今日、新たに創設された裁判員制度が、死刑についての議論を行う再びの契機となれば・・・と思う次第です。批判散々の制度ですが、望外の結果を生むかもしれないと。