絶望について

 この時代に生きる私たちが日々回避できないものの一つが、絶望であるということは、おそらく疑問を挟む余地がないことのように思う。むろん、それは昨今の経済・社会情勢に対しての絶望を指しているのでは、ない。当然私自身の個人的な状況に対しても。
「僕は毎朝駅の売店で、その日のスポーツ新聞を買って電車に乗り、電車のドアが閉まるとそれを開く。そしてそれを開くやいなやたちまち絶望して、それを網棚にほうりあげるのだ。まったく世のなかに、スポーツ新聞ぐらい絶望的なものが、ほかにあるだろうか。それにしても、毎朝のその絶望をぬきにしては、やはり僕の生活は始まらないのである。」(石原吉郎
自分は絶望などしていないと思う者もいるかもしれない。だが、絶望にすら至らない絶望というものもある。
「だから絶望者が自分の状態が絶望であるということを自分で少しも知っていないとしても、それは問題ではない。彼は依然として絶望しているのである。―― 自分が絶望していることに気づいていない絶望者は、それに気づいている絶望者に比して、真理と救済から要するに否定ひとつ分だけ遠ざかっているのである。」(キルケゴール
しかし、真理や救済という概念自体もすでに失われて久しい。
では、絶望しながらも、人はどうやって生き続けられるのであろうか。
「ひとびとが〈価値喪失のニヒリズム〉についておしゃべりをし、もはや支えとなるものがなにひとつないといった無駄な議論をするとき、彼らが叫び求めているのは、ニヒリズムの〈克服〉なるものである。むしろ、なにひとつ支えにするものがないという状態こそ、ようやく人間にふさわしい状態なのではなかろうか、というものの見方があってもいいのに、そういう観点は消されてしまっている。」
「物心がつくようになって以来、わたしは「山と深い谷の間に」という歌が好きだった。のどかに草を食んでいた二匹の兎が猟師に撃たれた、ところがよく考えてみるとまだ生きていたので、走ってその場を逃げ出したという内容の歌だった。しかしわたしがそこに含まれた教訓を理解するようになったのはずっと後のことである。理性がこの世で耐えていくためには、絶望から有頂天にいたる振幅が必要であり、合理一本槍では外界の狂気に太刀討ちできない、という教訓を。わたしたちは二匹の兎に見習うべきであろう。」(アドルノ
 ふと夜更けに目を覚まし、自分の心臓の音を感じることがある。心臓は、まるで時計の秒針のように、まるで何事もなかったかのように正確に作動している。
「存在に理由なし。生存に発意なし。」(長谷川如是閑