みなさん、共生に耐えるご覚悟を!!

新自由主義路線が破たんした今日、軸は再び、社会や絆や連帯を求める方向にシフトしてきたように思える。そこで「共生」という言葉が、左派・リベラルはもちろん、新政権・新与党といったところからもよく聞かれるようになった。
 共生の反対語は自立ということになるだろうが、実を言うと、自分ひとりの努力でなんとか生きてゆける「自立」より、他人と「共生」するほうがよっぽど厳しい。自立には離脱の自由があるが、共生にはそれがない。いわば、他者との強制にも等しい関わり合いが求められるのだから…。
 シベリアに抑留された石原吉郎は、飢えと厳寒の中、「一つの食器を二人でつつきあ」い、「二人で二枚の毛布を共有にし、一枚を床に敷き、一枚を上に掛けて、かたく背中を押しつけ合ってねむ」った。石原は、「一つの食器を二人でつつきあうのは、はたから見ればなんでもない風景」ではあるが、「這いまわるような飢え」の中にあっては、それが極めて「激しい神経の消耗」であったと振り返る。
自分は相手を厭う。だが、相手も全く同様に自分を厭い憎んでいる。そしてなによりも、食料も皿も匙も毛布も二人に一つしかない。憎みつつも、共生せざるを得ないのだ。そして石原は以下のように結論付ける。
「こうして私たちは、ただ自分ひとりの生命を維持するためには、相対するもう一つの生命の存在に「耐え」なければならないという認識に徐々に到達する。こうした認識を前提として成立する結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからずものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である。」「無傷なよろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない」(「ある共生の経験から」)
 この「共生」の苦しさと緊張感に比べれば、「自立」は、なんと我儘・気まま、いわば、強者のお気楽な特権であるといえるだろう。
今日、「自立」しえない弱者同士の連帯と共生が求められているのは間違いない。むろん、その背後には、老いであったり、貧困であったりという個人的もしくは社会的状況がある。さあ、隣にいる許せない者を許し、「人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわっていく」(同書)という「共生」に耐える覚悟を決めようではなかろうか!!