現代社会が生産と消費を基調としたある種の全体主義に近いということに、議論の余地はなさそうである。人びとは、労働イコール生産というシステムに組み込まれ、そして消費させられている。
全体主義と聞くと、軍事国家が想起されるかもしれないが、「ここにおいて実現された福祉国家は、実のところ、戦争国家と等記号によって繋がって」いて、そして「ニューディール型の民主主義体制においても、社会のあらゆる分野は巨大化した組織へと編成されたのであり、批判的対抗運動(労働運動など)もシステムの存続を脅かすものではもはやなくなってしまった。その意味において、そこにもある種の全体主義と呼んでよい兆候が現れたのである。」(山之内靖『システム社会の現代的位相』)
だが、そのシステムも最近ほころびが出てきたように思われる。非正規雇用の増大である。彼らは生産システム内に置かれながらも最も低い立場に置かれ、生産の最前線に送り込まれている。そして時に、失業や生活破たんという社会的な「戦死」扱いにされるのである。
むろん、再び正規雇用を基調とした「生産軍」の一級「兵士」に復帰させることも可能だろうが、せっかく「戦死」したのだからこの生産システムからいったん降りるということも可能ではなかろうか。いわば「負け取った自由」である。
それは広い意味で「貧乏」になることには違いないが、自助と共助で生活を工夫すれば、松下竜一的な明るい貧乏、すなわち「ビンボー」も可能となろう。