列車食堂の怒号

 その老人は入ってくるなり不機嫌であった。酔ってはいるのだろうが泥酔というほどではない。よくみると毛が一本もない蛸老人である。4人用のテーブルにつくなりメニューを見ると、ビーフシチューセットを注文した。するとセットメニューゆえ運ばれてきたスープやサラダに対して「余計なものはいらない」と拒絶したうえ、ビーフシチュー本体が「いつになったら持って来るのだ」とマネージャーらしき男性に怒り始めた。よほど老人は腹がすいているのか、それとも急いでいるのか? ならば老人は何を急いでいるのだろうか? ここにいる全員が明日の朝まで何一つすることはないというのに…。
 日本にほとんど唯一残った列車食堂つまり食堂車での出来事である。老人は何に対して不機嫌なのだろうか。街の食堂や居酒屋であってもここまで怒鳴り散らすような人物に合う確率はそれほど高くない。まるで食堂車という存在自体に対して怒っているかのようであった。
むろん食堂車というものに対しての世間の評価は必ずしも芳しいものではなかった。その代表例は値段が高いということにあるが、そもそも「食堂車で食事をするには各人一つずつの椅子を専用する。即ち別の車室の自分の座席以外に、更に座席を占める事になる。狭い列車内で一人の旅客に二重に座席をふさがせるにはその代償を求めるのが当然である」のであって、むしろ「世間並みだったらその方がおかしい」(内田百輭「列車食堂の為に弁ず」)と考えるべきであろう。
つぎに、料理がうまくないという批判に対しても「特に列車食堂の料理がうまいと云う唐変木はいないだろうからそちらの側へ気を配る必要はないとすれば、うまくないと云う側でも結構食っているのだから、うまくないと思わせるのも、そうして食ったお客に食後、〈食堂車はまずくて食えやしない〉という優越感を与えるのも、これ亦サアビスの一つである」(同)と反論できる。
それらを踏まえた上であの老人は「まずくて、高い」と怒鳴るわけにはいかないから、せめて「遅い」と腹を立てていたのだろうか?? しかしもちろん当夜の対応が特に遅かったわけではない。
一方そんな「何でもない事に腹を立てている」蛸老人を横目でみながら私は「おとなしく、お行儀よく、しかしいつ迄も飲み続けて、長尻をした」(『第二阿房列車』)結果、例によって翌朝は気分が悪くなり二度目の食堂車とはならなかった。だがちらっとのぞいたところ、あの蛸老人らしき人物はいた。今度は何に腹を立てていたのだろう?