3月9日・金曜

伊万里から唐津へ行き、唐津の御城を見た。特に400円も支払って階段を上る。御城は大抵高い所にあるが、無駄に天守閣が建て増しされていて、余計な階段を何段も登らなくてはならない。見晴らしを良くしようと何処かの誰かが態態お金を掛けて工事したのだろうが、随分と迷惑な事をしたものだと腹が立ってくる。
大体こうして旅行をしていて面白い事は何もない。重い荷物を肩からぶら下げ、分からない道を歩き、坂と階段を這う這うの体で上って下って、普段なら見向きもしない事物に、どんどんお金を支払わなくてはならない。只苦しいだけである。苦しさの代償に得るのものと云えば、朝から店に入り腹いせのお酒をがぶがぶ飲むことだけである。お酒ならば東京に居る時も十分飲んでいるし、そもそも家でも飲める。家ならば酒屋の小売りの値段で手に入るから、更に二分を足して十二分に飲める。
旅行をして本当に楽しいのは、あれやこれやと計画を立てている時と、帰った後で色色と思い出す時である。お金も掛からないし、懐や足腰が此れ以上痛くなる事も無い。そういう訳で好い加減に帰る事にした。旅の前半は航空力学に関して散散と勉強させられたので、もう勉強と心配はしたくない。だから列車で帰る事にした。
 博多から新幹線に乗った。私は元来汽車好きな質で、列車ならば幾ら乗っていても心配する事も疲れる事も無い。だが新幹線は好きではない。列車食堂は無いし、第一速や過ぎる。乗るならせめてこだま号の方がいいと思う。遅い分は構わない。然し後から来た列車に偉そうに轟轟と追い越されるのは嫌である。その点で寝台特急があれば丁度良いが、あさかぜ号もはやぶさ号もいつの間にかみんな無くなって仕舞った。結局のぞみ号に乗るより仕様が無かった。新型の車らしいが、余り乗らない内に何だか窓まですっかり小さくなったようである。外から見ると障子に小指で開けたぐらいの穴しか開いていない。最近は工場から生まれて来る車両が片端から気に食わないので、もう汽車の形式も顔も覚えるのを止めてしまった。だから何型かは知らないがこの護送車の様な窓は尚さら頂けない。
 でも折角乗るのだから丸い小窓からでも景色を良く見たい。明るい内の15時発の列車に乗った。列車は音も無く走りだした。窓外を細大漏らさないように見入り、隧道に入ったら麦酒を飲む。出たらまた景色を眺める。眺めながら飲むと云う器用な事はしない。第一、赤ら顔の男にいつの間にか眺められているとは露ぞ知らない窓外の人に失礼である。山陽区間は隧道が多いから、アルコホルを沢山取り入れたい飲み始めには丁度いい割合であった。小倉を過ぎて関門海峡を潜って渡り、その次は徳山に止まった。徳山駅の近くは工場街で煙突が気味が悪いほど沢山立っている。あんなに沢山の煙突を見たのは生涯初めてである。丸で煙突のコンクールであると思った。而も煙突には絡まった蔦の様な管までうじゃうじゃ巻きついていて、火まで吹いているものもある。何だか見ているだけ恐ろしくなったので、この時ばかりは目を逸らした。谷間に小さく見える瀬戸内海を見つけて、少し目をさっぱりさせた。
此方の気持ちとは別に、相変わらず新幹線は怒り狂った様に走っている。しかも谷底に転がり落ちて行く様な感じがする程の勢いである。東京に向って上っている筈だか、下っている感じがする。逆に博多に向って下って行っても下っている感じがするであろう。つまり、どっちに向っても下っている。国全体が下り坂なのだ、上っても下ってもそういう感じがするのは仕方があるまい。
せめて車上の私は機嫌よく御行儀よく飲もうと思う。幸い麦酒なら幾らでも飲める自信がある。だから問題は入口より出口の方で、私の体はやや特殊に出来ている様で、麦酒を飲むとある段階から、飲んだ傍から出さないといけないようになっている。生憎列車は東京へ近付けば近付くほど込んでくる。岡山辺りで既にぐっと空席は少なくなって来ている。列車がどんどん空くのはいいがその逆は困る。出す為には一一隣の人に断りを入れて一旦退いて貰わなくてはならない。何度も何度も退かせたくないので麦酒は二リットルでやめにしてお酒を飲むことにした。
新大阪の二分停車で大量に降りたと思ったら、また大勢乗って来た。米原辺りで日が滔滔暮れた。名古屋でまた乗って来たが、座席を探して方方をうろついた新乗客が漸く落ち着き先を見つけて静かになったのを見計らって酒飲みを再開した。以後益益飲むしかない。矢鱈小顔な女の販売員を捉まえて、漸く三合程飲んだらもう品川に着いた。明らかに飲み足りなかった。お酒が足りないのではない。時間が足りない。つまり汽車が速や過ぎるのである。
飲み足りなかった分、頭はまだ動く。三泊しかしなかったので遠くへ行った割に予算内に収まってよかったと思う。信用貸しから取り立てが来る頃には少しはお金も出来ているだろう。又走っている内に雨雲を追い越してしまったらしく、関東は雨降りの上に酷く寒かった。目黒からバスに乗り、停留所から速足で家まで帰った。