2013年9月

9/30・月
 もう一度パスネットの話しがしたい。JRのイオカードに遅れること数年、関東の私鉄連盟が数多くの加盟社の意見を取り纏め、複雑な運賃経路を計算し尽くして漸く登場させたのが磁気式のパスネットと言うカードであった。パスネット加盟社は実に二十数社もあり、西は箱根湯本か西武秩父、東は京成の成田空港、北は東武鉄道の日光あたり、南は京浜急行の先端まで、関東一円をカード一枚で行き来き出来るようになった。
何時でも買える普通カードに加え、絢爛豪華な記念カードも続続と出した。而も発売駅限定と言う物もあり、冗談半分に蒐つめ始めた吾人も、仕舞には滔滔本気になって、今日は多摩動物公園だの明日は北総の矢切だといっては、気負いこんで買いに出掛けた物である。なにせ二十数社が競うように余りに沢山売り出すものだから、一時は在庫が数十万円分にも積み上がり、カード地獄とはこういうことかと妙に納得したものである。
一方JRは既に電子式の新カードの実用化に着手しており、私鉄連盟もそれに押される形で、スイカシステムを直輸入したパスモというカードに収斂して行くことになる。当然繰り返し使えることになれば、使い捨ての磁気カードの出て来る幕は無い。蒐集という楽しみも敢え無く終わりを迎えることとなった。またそれは、合理化においても、利潤追求においても、旧国鉄が民鉄を凌駕し始めた象徴的な出来事であったと思う。
パスネットの全盛期はほんの数年であった。だが関東の西に東に奔走したという記憶は、馬鹿馬鹿しくもあり、何だか懐かしくもあり、手元にあるカードを眺め直しては、一つの楽しい時代だったと思うのである。
 日中曇り勝ち。午前は切った枝を片付ける。二号室の見積もりを取る。折角直しても家賃が下がるのであれば、何だか張り合いがない。午後出社、二軒ほど立って帰った。


9/29・日
 概ね晴れ。一日作業す。三号室の入居者決まる。又二号室の退出に立ち会う。


9/28・土
 政府は法人税を下げてでもサアビスしますから、勤め人の賃金を上げろ上げろと言っているらしい。併し民間企業は二十年近くも給料の蛇口をしぼり続けて来たものだから、今更急に緩めよと言われた所で、最早蛇口の緩め方もすっかり忘れて仕舞ったといったところであろう。
給料を上げて国内需要を活性化させよ。これは賃金低下とデフレーションに慣れて仕舞った我我には、コロンブスの何とか並みの奇策である。それに一部の優良企業が給料を多少上げた所で、丸で大海に御金をばら撒く様な物だろうから、デフレーションの流れを逆転するには至らない。文字通り全業界の全社を挙げて蛇口を緩める必要があるが、それは正に水道の力で川を逆流させるような困難である。無論貯め込んだ御金がある所には有るらしいが、我が社には大量の内部留保がありますので、この際全部放出して仕舞いますなどと言う気前のいい経営者がいるのなら、そもそもこれほどまでのデフレーションに陥ることもなかった筈である。
 午前一杯作業ののち、午後臨時出社。無責任社長の姫君が結婚式を挙げるとのことで代理出社す。慶事には違いない。それにしても細君殿と姫君は大貧学院の現状を御存じなのであろうか。丸で知らなかったというのであれば、想像力の貧困があるのだと思う。退社後は元店長の店で静かに飲んで帰った。二千四百円。


9/27・金
 日中は何だかふらふらす。秋の花粉酷し。午後出社。退社後も浅く飲んで帰宅す。


9/26・木
 午前中は雨模様。停止した読書を再開するには新刊に限る。取り敢えず書評欄に載っていた「血盟団事件」と「東洋の魔女論」を新造投入し、秋の読書の開幕戦とした。午後出社。月波君来たる。伊那の反省会をしたが、結局何を反省したのか分からず仕舞い。


9/25・水
 一日小雨。再び台風が接近とのこと。こうなると屋外作業は無し。久久に読書を再開しようと思ったが、取り立てて読みたい本が手元に無い。夏が余りに暑く、本を読むという行為まで頭が回らなかった。午後出社。割と早く帰る。


9/24・火
 三号室の新しい家賃を不動産屋が提示してくる。あれだけしっかり直しても今までより五千円も下がるというから、家作業もデフレーションの真っ最中である。若い人に御金が廻って来ないから、こういう事になるのだろうと思った。思えば、滞納が急増したのは此の五年である。保証人共共払えないというから、日本中に貧乏が急拡大しているという事になるのだろう。最近は部屋を間仕切りした寝台車のような貸し部屋もあるという。一晩居るかいないかの寝台列車に一年中住むのだとすれば、此れを貧乏と言わずに何と云うべきか。一日曇り。時折小雨。日誌時時草刈り。


9/23・月
 昨日より涼しいと言うので、ほぼ一年振りに小平霊園に行く。前回同様、家人と老家人の三人でタクシヰを仕立てて環状七号線を北上し、野方で西武新宿線に接続させる。一時間ほどで到着す。渋谷と高田馬場を経由するより三十分は早い。併し電車で行くより片道三千円弱は掛かる。特急料金足すグリーン料金だと思う事にす。
小平駅と言うのも不思議な処で、駅の北西は隣の駅近くまで全て霊園である。北口には石屋があるだけで、大した飲食店もない。其処が少なくても年に二回は大変な人の出となり、露店も出ている。吾人が幼少の頃などはもっと凄い人の出で、駅前にキャンピングカーを置き、駅員総出で帰りの切符を売っていたと記憶している。パスネットと言う改札機に直接投入出来るカードが出来たのが十年ちょっと前。其れまでは帰りの切符を気にするという行為が常に存在していた筈だが、もう思い出せなくなっている。
 墓参ののち野方に戻って昼食を取り、午後一時には帰宅す。夕方に川崎の叔父さんが来る。久久に男の話し相手が現われたので、老家人も張り切っていた。


9/22・日
 気温三十度に達し、昨日ほど作業は捗らず。溜まった日誌を整理す。


9/21・土
 一日草木を刈る。今回から熊手と箕も作戦投入す。金物屋で二つ合わせて千五百円。夕方になって土曜会に誘われたが、疲労困憊し出席できず。


9/20・金
 二階の三号室ほぼ完成す。最後に瓦斯焜炉を買って来て取り付けた。午後出社。退社後はニクソンと言うステヰキ店に行く。飲み放題があるので月に一二度程度金曜会で使うが、此の店は余程待遇が悪いらしく、同じ店員に合ったことが無い。毎度毎度素人以下の不慣れな店員が客に我儘を云い付けられて可哀そうである。
其の上、冷房機も半壊れしたようで外より中の方が暑い。こういう場合は換気扇と玄関扉を全開にして外気を取り入れるべきだと店員に指南するも聞き入れられず。止むなく吾人が扉を強行開放す。すると事情を知らない別の店員が直ぐに閉めて仕舞う。吾人も負けじと開けに行く。それを何回か繰り返して退店す。吾人も我儘な客と映ったようである。設備と待遇を改善して、もっと店員の定着率を高めるべきであると思った。
二軒目は元の洋食堂が伊太利亜風立ち飲み屋に改装されたというので行って見た。此れで半径二十メートル内に、和洋中の立ち飲み屋が一通り揃った訳である。併し立席店を梯子するというのも草臥れる話である。是非座席指定制度を作って貰いたい。310円程度なら支払っても佳い。


9/19・木
 工事の序でに拙宅の三十年物の洗面台も交換することにしたが、作業に際し水道の元栓が完全に閉まらず難渋す。止むなく元栓より上流の仕切り弁を、文字通り草の根分けて探し出し漸く止水す。するとどういう訳だが隣棟まで断水し驚く。上水道の事など丸で何も知らなかったから参った。結局作業は午後まで掛かった。その後出社。朝から右往左往したので、立って飲む元気もない。其のまま帰宅す。


9/18・水
 午後出社。鶴木さんと伊那の反省会。併し既に相当酩酊していたので、悟性が働いているようには見えず。酒飲みはこうして同じことを繰り返すのだと思った。


9/17・火
 中央線は通勤電車が相模湖で無意味に脱線し、以後特急は全面運休となったとのこと。帰京を一日ずらしたとしても、丸で同じような混乱ぶりである。こういう場合は小回りの効く高速バスの方が頼りになると思った。北の空気が入り一日快晴。すっかり秋となる。早速雑木刈りを再開したが、直ぐに草臥れて仕舞い昏昏と午睡す。


9/16・月
 朝方に台風18号は豊橋に上陸し、静岡から関東北部に抜けて行った。午前中は相当な風雨となるも、御午過ぎには綺麗に止んだ。今回の台風は、進路の左側の方が被害が酷いようで、京都の辺りが大変なことになったようである。
 午餐をしようと近所のビュッフェレストランに出掛けた。何分に安い店なので、出て来たものは大したことは無いが、見晴らしが大変佳い。伊那谷を一望できる。谷の反対側の南アルプスに次次と雲が掛かっては出て行く。関東平野では全く見られない荘厳な光景である。年長者は結局何も見ずに帰って仕舞ったから勿体無い。
 今日は大事を取って最終の特急で帰ることにしてある。其れでも何だか心配なので、三本前の列車で岡谷に出ようと思い大部早目に山荘を出た。伯母の自動車を返し、伊那北の駅に行って見ると、案の定というか予想外というか、列車が動いていない。困ったことになったものである。何処が壊れたのかは分からないが、運転再開の見込みもないという。駅員に聞こうにも伊那北駅無人で、隣駅から時折放送が入るだけである。
 世の中、何もかも平常で、綺麗な虹も出ているというのに、飯田線だけが動いていない。都内では鉄道が少し止まっただけで一つの小災害が起きるものだが、地方線区の利用客はそもそもが少ないから、丸で我我だけが雷に当たった様な不幸の極致に陥った感じである。
理不尽だと思ったが、直ぐに対策を考えなくてはならない。当然高速バスは満席である。止むなく、今度は別の貸し自動車屋で軽るい自動車を仕立て、諏訪の方まで出ることにした。燃料代を含めて凡そ五千円。痛い出費だがタクシヰで行くよりかは安い。
一時間ほど山道を移動し漸く茅野の駅前に出た。飯田線の車中から飲み出そうと思っていた筈の月波君にとっては、とんだ延長運転となり流石に疲れたようである。労いがてら駅ビルの居酒屋で一献傾けた。こういう時の御酒は尚のこと旨い筈だが、三日も飲み続けたものだから幾らも飲めず。
 本線のダイヤグラムもまだまだ混乱しているようで、最終特急は茅野に十五分ほど遅れて来た。車販員も乗っていなかった。特急はのろのろ走ってはどんどん遅れ、結局新宿には四十五分遅れで着く。月波君らとはホームで別れた。飲み過ぎて胃がざらざらと変である。時時酸っぱい物が上がって来る。その度に、顔をくしゃくしゃにして、右手には飲み残しの缶麦酒、左手には山荘のごみを満載した紙袋という変な出で立ちで直ぐに帰った。


9/15・日
 未明の内は結構な雨。午前中には止む。以後晴れた。従兄夫妻はもう帰京す。年長者三名が麻雀をしたいというので、後輩の客間君を差し出す。客間君も麻雀は知らないというが、彼は政治家の出身地や出身母体を悉く暗記しているぐらいだから、牌の配列も直ぐに覚えてくれるだろう。謂わば人身御供の客間君を置き去りにして、月波君と蕎麦を食べに出掛けた。
 駅前通りは寂れているが、国道を走るとありとあらゆる店が出ている。衣料品に日用品に飲食店、どれもナショナルチェーンストアーである。店名で尻取りが出来るぐらいである。何処に其れほどの御客かいるのかは知らないが、世田谷よりよっぽど充実した出店ぶりだと思った。最近は地方でも都会と同じように品物が手に入るので、態態都会に出て行く若者が減って来たという。一極集中が緩和されるのは結構なことだが、田舎も都会と同じになって仕舞っては面白くない。尤も海や山までは無くならないから、仕事と収入があれば田舎の方が住みやすいだろう。結局駅前通りの古そうな店で手打ち蕎麦を食べた。
 予想に反し台風がぐんぐん成長してきたというので、年長者は早目に帰ることにした。19時13分の飯田線に乗っけて、最終のあずさに接続させる。結局年長組みは伊那には二十四時間と少しぐらいしか滞在しなかった。暗い内に来て、暗くなってから帰ったから、周りの景色も分からない。散策はおろか散歩すら出なかった。飲んで食べて寝て麻雀しかすることが無かったから、伊那がどういう処で何があるのか、全く知らないまま帰って仕舞った。
そもそも伊那と言っても大抵の関東人には分からない。多くの場合、埼玉の伊奈だと思っている。奈の字を訂正するだけでも大変な労力である。其の上場所を説明しようにも、毎晩毎晩酔っているものだから、諏訪湖の少し南の天竜川沿いの街だと何度言っても、結局の所、今一つ分からなかったようである。又伊那に行きたいと云い出されても、日本地図と時刻表を引っ張り出して再び一から説明を始めなくてはならないのかと思うとうんざりす。
 急に静かになった山荘で、越後屋の馬刺しをつまみながら、年少の三人で割と大人しく飲んだ。丁度銀行員が主役のテレビドラマをやっていたが、学芸会の様な過剰な演技に一同げんなりす。銀行とはそもそも信用が第一だから、野心的な人ほど銀行員にはならない筈であると思うが。其れに銀行員が野心的で投機的になった結果と言う物は、二十年ほど前に誰もが知る所になっているのだし。


9/14・土
 再び伊那に行くことにしたが、今回は月波君に加え、客間君や、仲田大将、鶴木さん、柳さんまで同行することになった。大勢だと決定も行動も万事遅いものだが、増して会うときは何時も酔っているから、直前まで予定が確定しなかった。前日までに漸く取りまとめをして、13時の特急で行くことにす。当然自由席である。一時間前からホームで御酒を飲みながら待つ。以後車内宴会となる。
 其れにしても、あずさの様な観光路線の列車でも大勢で御酒を飲んでいる御客は稀である。小声に努めたが、随分と迷惑を掛けたのかもしれない。岡谷で飯田線に乗り換え、伊那には17時少し前に到着す。早速ローメン屋に案内す。更に一軒、傾いた古い店に行って飲んだ後、山荘に移る。乗用車一台に乗り切らないので二回も往き来す。
山荘には年の離れた従兄夫妻も来ており、何だか異業種懇談会の様になる。殊に従兄の奥さんは男勝りの実業家だから、呉呉も無礼の無いよう予め同行者には訓示しておいた。何だか集団面接の様でもあり、飲みながらも緊張感は取れなかった。


9/13・金
 日中三十二度程度。南風が吹き込み、蒸し暑い。台風が接近とのこと。午後出社。明日から伊那だから、早目に帰った。


9/12・木
 久久にかなり暑かった。日中三十二度程度。午後出社。政府は漸く増税を決めたようだが、支持率低下を恐れ、増税分の殆どを景気対策に費やすという。此れを国家的詐欺と云わずに何と云うべきか。


9/11・水
 一日曇り。今日で二年半が経った。仮設住宅の入居率は今もって九割を超えているという。家作業なら優秀な数字だが、そもそもの住宅の質は劣悪である。一刻でも早く佳い家を建てるべきである。午後出社。


9/10・火
 日中曇り勝ち。眩暈を起こした家人の代理として、南鎌倉の伯母さんと伯父さんの通院の付き添いをす。御茶の水の大学病院まで出掛けた。運悪く一時間以上も待たされて閉口す。


9/9・月
 すっかり涼しくなる。日中三十度に届かず。午後出社。月波君と鷺乃間君来たる。鷺乃間君が結婚の報告をしたいというから、高級居酒屋に入店す。つい調子に乗って、鷺乃間君相手に、結婚とは結婚相手へのサアビス業であり、そのサアビスに喜びを感じなければ結婚生活は長続きはしないなどと忠言す。無論吾人は結婚をして見た事は無いが、この程度の事なら未婚者でも分かる。一方大概の既婚者は其れすら分からない。離婚が増える道理である。奮発した結果すっかり御金が無くなる。


9/8・日
 どういう訳だか七年後の五輪が東京に決定す。投入した資金の数倍の経済効果があるといっても、恩恵を受けるのは広告業と建設業ぐらいなものであろう。其れにしても七年後か。格差と貧困は益益拡大し、おまけに国の金庫もすっからかんだから、最早手当ての仕様がないという事になっているかもしれない。消費税は少なくとも15パーセントといったところであろうか。国が落ち目だから、未来図も地獄絵図である。
それに開催は真夏だから、地獄は地獄でも炎熱地獄である。あれだけ暑ければ運動どころの話しではない。選手も観客も即病院送りである。五輪五輪と、はしゃいでいるが、七輪の真上の様な今年の夏の暑さの方は、皆もう綺麗に忘れて仕舞ったようである。
 グレが発熱したというので獣医の所に搬送す。しかし改めて検温した所、特に異状は見られず。家人の勘違いの様である。折角なので一番安い注射を打って貰った。1050円。夕方から大雨。更に涼しくなる。


9/7・土
 曇り勝ちで日中二十七度。剪定と午睡を繰り返す。


9/6・金
 吾人の願いが通じたのか、日中東風が入りぐんぐん漸く涼しくなる。涼しい事をいい事に、午前中からつい調子に乗って枝を切り過ぎた所、普段以上に草臥れてふらふらとなる。午睡ののち出社。退社後も割と早く帰った。
 二階の三号室に続いて二号室の退出も決まる。今年二つ目の引っ越しとなった。此処の所、年一部屋と言うペースだったので珍しい。どちらも転居先は不明だが、もっと高い部屋に引っ越すのならば、景気が良くなったのだと思う。一方もっと安い部屋に越したのだとすれば、デフレーションは続いて行くという事になるだろう。
 帰宅すると珍しく橙隠学園から手紙が来ていた。創立五十周年記念事業と銘打って居るが、要は寄付金の請求である。調子に乗って建て増した校舎の修繕費が、実は相当足りないのだと思う。凡そ五万人の卒業生から二十五億円を集める計画だというが、当方は納め過ぎた授業料の還付を望む身である。先月の電気使用量は前年並みの289キロワット。8250円。


9/5・木
 未明から益益天気が荒れ今度は雷様まで流されて来て、激しい雷雨となる。一方午後には晴れて猛烈に蒸して来る。思えば、此んな煮えくり立った茹で釜に列島ごと叩き込まれて二箇月も経った。以来家内家外のあらゆる作業は滞り、庭は草だらけ、室内は埃だらけ、日用品食料品は不足し、七月のカレンダーが未だに貼ってある。いい加減早く涼しくなって欲しいと願う。午後出社。


9/4・水
 前線に向かって南風が吹き荒れ、序でに雨雲も流されて来るので、晴れたと思ったら降ってきたり、降って来たと思ったら止んでいたりと不安定なお天気となる。其れにしても非常に蒸し暑く閉口す。午後出社。立ち飲み屋の貧弱な冷房力では如何にもならず、汗ぐっしょりになったので早目に退散す。


9/3・火
 日中三十三度程度。九月になったので剪定をしなくてはならない。日蔭を選んで蔦と草を刈り、滔滔枯れて仕舞った枝垂れ桃を切る。三度出動し三度とも汗みどろになる。このままのペースなら十二月まで掛かりそうである。


9/2・月
 日中三十四度に達す。午後出社。古代ローマ史を調べたり、英語で作文したりと、高校生の宿題を片端から片付ける。退社後は二軒ほど立って帰った。越谷で竜巻禍。つくづく今年は天候不順である。


9/1・日
 朝から異様に暑く日中三十六度。午後から関東各地は雷雨となり、都内は降らなかったが多少は涼風を感じた。一日無為。