2013年12月

12/31・火
 箒で掃き、出て来た埃を掃除機に吸わせることを繰り返す。掃いても掃いても部屋の隅という隅、家具家電の角という角からどんどん出てくる。こんなに埃がたまるようになったのは、柳田国男に言わせると木綿以後の事らしい。江戸期に麻が木綿に置き換わって以来、「怖ろしく塵が我々を攻め出した」とのことである。塵を吸い込む方の掃除機は次次と新型機が出ているようだが、肝心の吐き出す方の木綿はどうなのだろうか。繊維業の技術革新に期待して、埃が出ない綿糸というものを是非作って欲しいと思った。
夜は公共放送で久久に歌合戦を見た。内容は依然としてどうにもならないが、途中に被災地、就中原子力事故から町ごと避難して来た中学生の集団を紹介していた。歳末の中継は、アメヤ横丁と神田の蕎麦店に限らないという点だけで、依然として公共放送の価値はあるのだろうと思った。但し最後までは見られず。十時半就寝。


12/30・月
 朝から家の片づけと掃除。近所のスーパーで鱈場蟹を買う。ロシア産。小さいもので1250円もす。確かソビエト連邦が崩壊した直後は、随分安かった記憶があるが、何せ吾人も高校生の時分にて、記憶違いがあるのかもしれない。午後は日誌の整理。


12/29・日
 昨夜は割と飲まずに帰って来た筈だが、連日連夜のアルコールが全身に充満した感じで,結局日中ふらふらす。午後出社。八時退社。漸くこれで年内の授業は終了す。久久に古い方の立ち飲み屋に行き挨拶して帰った。


12/28・土
 午後出社。五時に退社し都心に向かう。恒例の芥田ゼミナールの忘年会である。併し肝心の芥田先生は腸の検査のために不参加。元学生だけの集いとなった。老夫婦の店に長居し、更にもう一軒スタンディングバーのような所にも行く。
 もたもたしている内に、すんでの所で有楽町線の最終に乗り遅れる。大急ぎでJRに飛び移った。順調に渋谷には辿り着いたが、田園都市線の最終列車には追いつけなかった。JRが遅れれば東急は待ってくれるはずだが、歳末の割に珍しく万事ダイヤ通りに動いていたからである。となるとバスだけが頼りだが、土曜日ということもあって深夜バスは上町行きの一系統しかない。数少ないバスに御客が集中した結果、超満員に詰め込んでも、積み残しが出る有り様であった。


12/27・金
 知事を丸め込め、愈愈調子に乗った首相は安国神社を訪問す。戦争を煽り立てた安国神社で今後の平和を誓いますなどと頓珍漢なことを述べていた。相変わらず頭の中身の方が心配である。何とかの一つ覚えと同じで、一度行けば満足するのだろうか。
 御昼前に出社。八時過ぎ退社。久久に金曜会に最初から出る。安い安いという焼肉の店に行く。ハイボールを濃い目にするように言ったところ、泡も立たないほど濃いものが出て来た。ついうっかり飲み過ぎて、ふらふらになって帰宅す。


12/26・木
 普天間基地の移設先に困り果てた沖縄県知事は、よぼよぼの車椅子姿になって、政府提案を受け入れたようである。米軍基地をアメリカ本土に押し返すには、全国民の怒り具合が足りないのだと思う。本土の住民の一端としても、誠に相済まないと思う次第である。それにしても、知事は満額回答を得たというような言い方をしていたが、少しサアビスのし過ぎだと思った。余程体調が思わしくないのだろう。
 今日から講習。御午前に出社。八時退社。鶴木さんを探し出して久久に飲んで帰った。


12/25・水
 一日晴れ。本日は休講日にて授業はない。御昼前に出社し、諸諸の片づけと明日からの講習の準備を行う。夕方までには帰宅す。
 経済指標などを見ると、景気拡大と云う割には、設備投資は相変わらずの低調だという。態態投資しても回収出来るとは思えないから、そういうことにもなるだろうと思った。だから儲かっている会社ならば、出入り業者からの請求書にケチをつけるようなことはせず気前良く支払えばよいし、従業員にも特別賞与を出してやればよい。呉呉も内部に貯めることの無いようにしていただければ、それで十分である。


12/24・火
 意を決し、一心不乱に年賀状を出す。吾人の年賀状は、近況報告を交えた本文は印刷するが、宛名だけは手で書くようにしている。数十枚に名前と住所を書くだけでも大変な手間であった。
年賀状の発行枚数はずっと漸減であるという。此のままのペースだとあと十年もすれば年賀状という習慣も消えて仕舞うかもしれない。それでは困ると、郵便事業会社は局員に無理やり年賀状を捌かせているようで、割と最近問題になった。怪しからんとする向きもあったが、年賀状の配達がないと郵便事業は赤字に転落して仕舞うという。勤務先に倒産されたら困るから、局員も渋渋自腹を切っているとのこと。今年は大貧学院の方も宣伝用として千枚も買ったが、此処だけの話、その内の何割かは配達員が持ってくれた。日本全国不景気な話ばかりである。即ち有効需要が足りないのである。


12/23・月
 今上天皇は誕生日にあたりコメントを発表したが、その内容を読むと、自民党改憲派を相当気にしている様子である。当の首相などはどう読むのだろうか。
 夕方月波君が来たる。序に昔のゼミ生の轍田さんも来た。今や三人の母親であるという。十何年も経てばそれぐらいの変化があってしかるべきだと思った。つい奮発して世田谷で一番高いレストランに行く。高いと言っても高度の話で、此処は公共レストランである。夜景が綺麗な上に、歌唄いが歌まで歌ってサアビスしてくれたが、店内は閑古鳥が鳴いていた。結局安いワインを飲み過ぎる。先週節約した飲食費を全て消尽す。


12/22・日
 一日晴れ。一日無為。


12/21・土
一日冬型の晴れ。「マーガレットサッチャー・鉄の女」を有線放送で見る。政治家が主人公の映画というより、認知症が主題のような感じ。それならば、その辺をふらふら歩いている老婆を主役にしても十分立派な映画が作れるだろう。誰にでも若い時があり、若いならばそれなりの決断と出来事というものがあっただろうから、態態鉄の女首相を持ち出すこともないと思った。


12/20・金
 午前中一瞬だけ晴れたが、強力な寒気が入り午後は雨。一部では霰も降ったそう。思えば二か月前は台風が相次いで来て、暑い暑いと言っていた筈。最短期間で真冬になった。
 「風邪の効用」という本によると、「風邪は自然の整体法」なのであり「風邪の後、蛇が皮をぬいだようにサッパリし、新鮮な顔つきになる」と書いてあるが、ちっともそうならない。少しの出社でグッタリす。麦酒の味もまだまだ戻らず。立ち飲み屋で麦酒一杯だけ飲んでバスで帰った。就寝直後に地震あり。憲兵に機関銃で撃たれるという夢を見た。


12/19・木
 一日雨。漸く午後出社。何だか此の三日というもの朦朧としていたので、すっかり月曜のつもりだが、実はもう木曜である。受け持ちの授業はテスト演習にして、溜まった事務作業を行う。頭の作動状況が今二つで、何だか捗らず。バスを乗り継いで帰宅。一日咳が取れなかったが、焼酎の御湯割りに葡萄酢を垂らして飲んだら直ぐに治った。
 病院王が振る舞ったお金に躓いて都知事が辞任。お金に対しての免疫が無かったと見える。京都の餃子王は凶弾に倒れる。


12/18・水
 夕方から冷たい雨。漸く槍が小骨になったよう。一日朦朧とす。一日安静。


12/17・火
 漸く家人が調達してきた市販薬を飲む。一日絶対安静。


12/16・月
 益益喉が痛くなる。槍が刺さったよう。発熱は38度程度。結局、鼻・喉・熱のフルコースとなった。医院や薬局に行く足も出ない。一日安静にす。本日欠勤。


12/15・日
 どうも朝から風邪を引いたよう。それでも一応世田谷ボロ市に行く。但し日曜、晴れということもあって午前中から大変な人の出で、時速五百メートルといったところ。あまりに酷い混雑なので恒例の白菜漬けだけ買って帰宅す。午後はずっと休養す。
 TPPの年内妥結は亜米利加のゴリ押しが酷くて無理になった模様。大体売るものがなくなって恒常的な貿易大赤字に陥った亜米利加が、やけになって大売り出しを始めたのがTPPというものの正体である。併し幸運にも地面の下から何とかガスが出て来たのだから、恫喝がらみのゴム紐売りの様なことはやめて、真面目にガススタンドで働いて貰いたいものである。実業に専念してもらえれば、日本の電気代も下がって大変結構である。


12/14・土
 暖房費が払えず余りに寒くて腹を立てたのか、北の皇帝は側近を次次に血祭りにしたという。こういう国が近くにあると、まだ日本の政治の方がまともに見えて来る。御本人の意図とは関係なく、結局自民党を応援しているようなものである。
 朝から落ち葉を掃き、昼は隣の町でつけ麺を食べた。八百円。海老名の有名店の支店ということらしいが、最近流行りの魚介と肉系の濃厚合わせ出汁である。近年のラーメン類の味の進化は凄まじいものがあるが、どうも味を重ね過ぎて諄く感じた。夕食後何だか寒気がする。早く寝た。


12/13・金
 日中は大風が吹く。夕方になっても頭がぼんやりす。別に不快感はないが、何だか動きが遅くて、頭が悪くなった感じである。退社後に麦酒を二杯ほど飲んだら逆にすっきりして来た。こういう感じが続くとアルコール中毒になるのだと思う。仕事の後に御酒を飲むのは平常だが、仕事の前に飲むようになると、それを即ち依存症という。今日はきちんと帰った。


12/12・木
 リニヤモーターカー新新幹線が出来れば名古屋が東京の郊外になるなどと馬鹿なことを言っている人の記事が新聞に載っていて、朝から腹が立った。幾ら時間が四十分になっても、運賃は一万円である。往復二万の運賃を誰が気前よく出せるのか。それにそもそもリニヤの運賃は現行の「のぞみ」より少し高くなる程度だと名古屋の会社は言っているようだが、この一万円というのも怪しい価格設定である。大体あの種の前代未聞の特大工事が見積もり通りの金額で終わった例など殆ど無い筈である。
 機嫌は悪いが天気は良い。久久に朝からよく晴れた。退社後は四軒も梯子す。尤も一軒で千円札を一枚ずつという配分であった。


12/11・水
 大体曇り。午後出社。同じ商店街のパン屋の主人が来て、何とかミクスでも売り上げがちっとも良くならないと嘆く。このままでは消費増税後が益益心配だとも言っていた。恐ろしいことだが、来年の四月一日以降、益益安い物しか売れなくなるだろう。安い物とは、自動化された工場で生産される、一斤百円の食パンであり、一丁五十円の豆腐であり、十個百円の卵のことである。中華立ち飲みに行き、一時までには飲んで帰った。


12/10・火
 午前中は前線通過のため結構雨が降った。午後は概ね曇り。漸く正気に戻ったので、日誌を整理す。見直してみると先月のものは普段以上に誤字脱字、打ち間違いが多い。ペタッとしたキーボードのせいだと思った。


12/9・月
 一日曇り。大変寒い。夕方になっても何だかふらふらす。丁度図形の授業があったが、角のABDだのEFCだのを沢山言い間違えて仕舞って恥ずかしかった。其のまま帰宅す。今月の電気使用量は前年比3%減の284キロワット。寒い割には健闘した。


12/8・日
 鷺乃間君が結婚式を挙げるというので品川に出動す。結婚式には詳しくないが、参加者の前で結婚を誓い合うという人前式という形式で、彼らしいと思った。その後披露宴となる。而し会費制ではないので年長者としては金参萬円包む。吾人四週間分の一般会計予算に匹敵す。
会場のレストランはサントリーの経営だが、出て来た物は和食である。折角だから看板の高級ウヰスキーをざぶざぶ飲みたかったが、刺身や椀物には合わない。仕方なく出自不明の日本酒を注文す。サントリーも日本酒に挑戦したらどうだろう。得意のイメージ戦略で、日本酒業界の底上げにもつながる筈である。大体、農業の再生などと言っているが、日本の田んぼから出来た米で日本酒を作るのが一番手っ取り早い。地酒造りというものは既に一次産業×二次産業までは行っている。更に旅館か食堂を建て増して×三をしてもいい。此れで六次産業化達成である。
ところで鷺乃間君は財団法人勤務で、順調に出世している。勤続十年の成長を感じさせる、中中堂に入った式と挨拶であった。その後、月波君、坪上君、鶴岡君と飲み直す。既に二人は妻帯者である。結局、吾人と月波君が極めて順当に売れ残っている。更に吾人の職業人生は無責任社長と大貧学院で漂流状態である。状況悉く不利であると思った。
 三軒目の店を出てぼんやりしていると、仲田大将から目黒にいるから飲みに来るようにとの連絡がある。柳夫妻も来ていて、結局十一時近くまで飲んで帰った。正に十二時間飲酒である。バスが無くなったので渋谷経由でよろよろ帰宅。日野百草丸を四十錠服用す。

 
12/7・土
 午前中に電気屋さんが入り二号室の電気配線を引き直す。序に古い分電盤も交換した。
 前夜ぼやぼやしているうちに、特定秘密保護法という法律が成立す。吾人不勉強にて、生憎余り詳しく知らない。それにしても、そもそもが秘密なことを、改めて特定し、更に態態保護するというから、いかに出鱈目な法律であるかどうか想像に難くない。


12/6・金
 物価の優等生には色色あるようだが、代表格は卵のことらしい。卵は此の五十年間、値上がり無しだそうだ。どうしてそんなことが可能なのかというと、結局大規模な採卵工場のようなところに養鶏業が集約された結果だという。
 立松和平に「卵洗い」という自伝作品がある。母が営む食料品店では卵がよく売れた。その卵を近郊の農家に仕入れに行くのは父の役目で、籾殻を敷き詰めたりんご箱を自転車に括り付け、がたがた道を慎重に運んだ。卵の中には糞や血で汚れたものがあって、母がひとつひとつ丁寧に洗うと、卵は内側から光を放つように美しかったという。舞台は昭和三十年になる少し前の宇都宮の近く、まだ労働というものが人の手の延長線上にあった頃の話しである。この五十年の間でそうした小さな養鶏場は悉く廃業に追い込まれた筈である。そして小さな食料品店も。それはTPP後の世界を先取りしたかのようである。
退社後は金曜会で伊太利亜食堂。その後元店長の店で女下士官に掴まり、帰宅は四時前となって仕舞った。


12/5・木
 一日晴れ。ノート型パソコンの手ごたえの無さに滔滔嫌気が差す。そこで卓上型の文字盤を引っ張り出して接続させることにした。併し文字盤と画面が遠い。午後出社。


12/4・水
 面談期間も終わったが、例の如くちっとも勉強が出来るようにならないという苦情の小山である。そもそもが勉強が好きでもない子どもを相手にしているのだから、指導は困難を極める。成績というものは現状維持で精一杯、下がらなければ本来は喜ぶべき類のもので、つくづく親も含めて、状況認識が足りないと思った。尤もそこを何とかするのが学習塾の仕事だろうと言われれば、御期待に添えずしてすいませんと首を垂れるしかない。
だがこうも学習塾という産業が発達した社会というのも、諸外国を例にとっても中中無いと思った。そもそも勉強が好きで大学にまで進みたい子というのは、精精二割いるかいないかといったところである。その他の五割は、あまり学業とは縁のない生活を送るのが、本人にも親にとっても幸せな状態だと思う。
併し戦後の日本社会は、なまじ貿易で儲かり出してすっかり豊かになったものだから、誰もが普通高校に進学して、その半分以上が大学に入るような特異な社会となった。教育の機会均等という点では、人類史に例のないほど意味のある社会であろうが、逆の面から言えば、勉強にはそもそもがむかない子までが、勉強勉強と駆り立てられることになる。其の過程で、学力も意欲も本質的に足りない子の面倒を見るという学習塾も方方に出来、吾人も僅かだが其のご相伴に預かって来たのである。
ただ、国民の間の格差が益益拡大して、今一度戦前のような社会に戻るのだとすれば、国民総普通教育という訳にもいかなくなるだろう。その裾野の一端を担ってきた学習塾も、愈愈皆様にサヨナラを言って退場しなければならない時が来るのだろうとも思った。


12/3・火
 朝から東急バスと都営バスを乗り継ぎ、三田の慶應大学本陣に乗り込む。別に今更大学に入り直す訳ではない。実を言うと老家人の名前には太郎が付くが、次男である。従って三つ違いの兄がいた。吾人から見て義雄伯父さんである。但し享年二十一。慶應予科から本科に入ったあたりで兵隊に取られ、船舶工兵として作業をしているうちに還らぬ人となった。昭和二十年八月十日のことであったという。本土での作業だったので、遺骨や遺品の類は割と多く返送されて来た。その中には軍服などもあった。古い家は万事が其のままだから、此の度、慶應大学が学徒出陣七十年を機に企画展をするというので、軍服や学生服を提供したのである。
老家人の手を引き、会場の図書館に入り見学す。軍服が学生服と共に展示してあった。老家人の目には、若かりし頃の兄が映るのだろう。何だか嬉しそうにしていた。あの滅茶苦茶な戦争で慶應だけで二千名以上が落命したという。それにしても、大概の国家というものは出鱈目なことをするものだが、戦前の日本という国は、出鱈目の中の出鱈目、謂わば出鱈目の極致であると思った。
何だか色色と腹が立ってきたので、せめて空腹だけでも宥めようと目黒で蕎麦を食べた。老家人は九百円の鴨南蛮、吾人は千三百円の天せいろを注文す。併し量が足りず大して横にならず。夜は鉄鍋に二度目の登場を願った。


12/2・月
 午後出社。ここのところ新入生が多い。割と緊張して授業す。退社後は鶴木さんと会い、元店長の店に行き、天屋先生と飲んで帰った。


12/1・日
 今日から師走である。月波君がどうしても紅葉を見たいというので、北区の飛鳥山公園まで出かけた。客間君も同席す。その後、板橋の大山まで歩き通し、行きつけの立ち飲み屋の支店を表敬訪問す。品川の何処よりもでかい支店で吃驚す。それにしても大変な銀行借入金があるのだと思う。幸い繁盛しているようだが、デフレーション下で経済成長させるのは並大抵の苦労ではあるまい。古くからの従業員を激励す。七時には帰宅。
二号室の入居者からコンセントの一つが通電していないとの連絡あり。最後に増設したあれである。困ったことになったと思った。