2014年6月

6/30・月
 近所の四階建ての集合住宅が解体中で、ここ数日微振動が止まらない。頑丈に造ってあるから、壊すのも一苦労である。物心付いたころには建っていたから、築四十年そこそこであろうか。鉄筋コンクリート造りでも寿命が数十年なのだから、此の国の建物ほど短命な物はないだろう。大体、自然物と区別された永続的な人工物を拵えるのだから、建築家の仕事は尊いのだと、アレントか誰かは言ったはずだが、その文言は日本には通用し無さそうである。個人の住宅はおろか、「歴史」的な建造物であっても、人の一生よりも短い。その度に、重機が動き、ダンプカーが騒音と振動をまき散らして走る。更に言えば、運の無い何人かが其れ等の下敷きになって死んで仕舞うことになる。いい加減、どうにかならないものだろうか。
 午後出社。退社後はまず中華屋へ。鶴木さんと会う。偶偶頼んだ回鍋肉が余りに不味いので、直ぐに佐渡屋へ避難。まともな刺身にありつく。鶴木さんと別れ、更に吾人はバーIへと三連戦。佐渡屋は禁煙だが、Iは煙くて適わない。喉を傷めて帰る。今晩は八雲署二号車の尋問を受ける。帰着は一時半。


6/29・日
 中国の出資で、ニカラグアパナマ運河を凌ぐ大運河を造る計画があるそうである。その額ざっと数兆円。そこで、バブル期に、日本の地価総額でアメリカが何十個も買えるなどという話しを思い出した。中国経済が収束に向かうのも時間の問題かもしれない。ただ中国経済の大崩壊は、日本経済にも大打撃を与えるだろう。何とか軟着陸して貰いたいものである。
 偶には変わったことをしなくてはならないと思い、自転車で徘徊す。色色迷ったが、結局昼食は環七沿いの付け麵屋「福森」に。通常と違う辛み付け麵880円を注文す。麵自体が辛みそで味が付いているうえに、通常の魚介系のつけ汁も付いている。其のまま食べても佳し、つけ汁を付けても佳し。中中旨く出来ていて感心す。
午後四時前後に激しい雷雨。外でミャアミャアと助けを求める声がしたので出て見ると、ミケが丁度中州に取り残された感じになっていた。拙宅の土地は斜めになっているので、横庭は時折谷川のようになる。大急ぎで「救出」す。余りに急な増水で困惑したのだろう。降雨は激しかったが、割と短時間=三十分ほどで静かになる。


6/28・土
 ベビーブーマーの第二世代は揃って四十になるから、そろそろ出産も御仕舞であろう。結婚は何歳になっても出来るだろうが、出産という物には限りがある。今後は若い人そのものが少なくなるのだから、出生数は更に下がることになる。
思えば、吾人を含めた第二世代というのもつくづく付いていない世代であった。小中学校は閉口するほど混雑していたし、高校・大学受験は大変で、其の上バブル経済の大崩壊で大卒者の就職は厳しかった。当然其の後の職業人生もずっと苦しい訳で、少ない正社員は長時間労働で疲弊し、非正規雇用者は生活自体が困窮す。吾人など、親子連結決算で何とか立っているようなものである。
もう少し景気が良い時代に巡り合っていたならば、民間企業でも気前よく給料や休暇が出せただろう。そうすればもう少し結婚や出生数も多かったことだと思う。別に人生の目的は結婚その他に限られるものではないが、使えるお金がもう少しあれば、もう少しだけ別の人生を送れたのではないかと、吾人ですらつくづく思うときもある。一般に、稼ぐお金が少ないことほど、人から自信を奪うものはない。
当然、若い世代の不幸は、日本社会にとっても大きな損失であった。死んだ人間が生き返らないのと同様に、生まれて来なかった命を取り戻すことも不可能である。日本の人口はいずれ減るに決まっているし、それ自体は混雑が解消して結構なことである。併しあまりに急激に減少して仕舞っては、諸諸の制度変更が間に合わない。此れは一種の災害の様なものである。
ほぼ一日雨。雷もなく、梅雨前線による極めて真っ当な降雨であった。ひねもす、憂鬱なことを考えながら、日誌を整理し、本を読んだ。


6/27・金
 結局かなりの割合で宿酔になり、日中朦朧とす。夕方千寿に出校。退社後、千寿の経営者に無責任社長も交え、三者で初めての懇親会。千寿の居酒屋に行く。と言っても開始が十持過ぎだから、正味一時間と少しで退散となる。千寿ではのんびりお酒も飲めない。而も千代田線のダイヤが滅茶苦茶で、田園都市線も可笑しかった。乗った電車は登記上は終電の三本前だが、正規ダイヤの終電近くで帰宅す。田園都市線は昼間の電車を大部増やしたようだが、総じて東急の終電は早過ぎると思った。


6/26・木
 比較的涼しいので朝から草取り。午睡ののち出社。最近、生徒を褒めて褒めてやる気にさせたら京王大学に受かったという本が話題になったそうで、吾人も早速真似をする。中学一年生相手に、矢鱈褒めることにした。差し当たって褒めることがないので、やれ遅刻をしなかったとか、字が丁寧だとか、髪型がかっこいいなどと立て続けに述べたら、気味が悪いと言われた。そういえば、褒め殺しなどという言葉があることを思い出した。
 退社後は立ち飲みB、中華立ち飲み、佐渡屋と転進す。佐渡屋では、咲子さんと出合った。二日続けて機嫌よく帰宅す。


6/25・水
 早朝に対コロンビア戦。結局一つも勝てずにブラジル大会は敗退す。渋谷の交差点も機動隊で埋め尽くしたそうだが、消沈して騒ぐ若者も少なかったという。四年に一度の祭典も漸く静かになる。それにしても世界の壁はまだまだ厚いと思った。其の上、日本は少子化と人口減少だから、サッカーばかりに人と御金が集まるとは限らない。実際国内チームのかなりは赤字経営だという。裾野が縮めば佳い選手は生まれないし、繁華街辺りで騒ぐ若者も少なくなる一方だろう。騒騒しいぐらいが丁度いいのだろうと思った。
 午後時折雷雨。一応出社。此方の生徒も試験前である。退社後、中華屋で立って飲んでいると、セブ島に語学留学していた咲子さんと出会う。一年近くの勉強の後は、日本国内で求職活動するという。居る筈の人が居なくなることはあっても、居なくなった人が返って来たというのは珍しいことである。色色とお話しして帰った。寒気が入り朝晩は連日涼しい。


6/24・火
 鼻の奥にへばり付いた鼻水は中中取れず。午前中から溜まった草取り。御昼過ぎから雷雨となるも世田谷東部は大して降らず。三鷹や調布の一角では雹が降り積もったという。そういえば雹というものは、齢四十になるというのに見たことがない。環境が可笑しくなって益益天候不順になれば、見たく無くても見る機会も増えるだろう。


6/23・月
 午前中には何とか回復す。マスク掛けと酷い鼻声で午後出社。退社後も誰にも合わずに帰宅す。沖縄忌。それにしても最近は基地反対運動に反対し、あべこべに基地に感謝するという動きがあるという。こちらも正しく隔世の感である。


6/22・日
 鼻水とくしゃみが大量に出る。花粉症の時より酷い。夕方から本格的に発熱の模様。但し、冬場の風邪と違って、体温が高いのか部屋が暑いのか、今一つ判別付かず。長袖長ズボンに市販薬と処方箋薬の残りを適当に飲む。飲み合わせが悪くないことを祈りながら。一日絶対安静。ポンタールは効いたよう。無酒。


6/21・土
 どうにも調子が良くない。喉の痛みと倦怠感。つまり風邪を引いたよう。そういえば昨日の具合の悪さは、宿酔だけでは説明がつかないと今更思った。夏風邪というものは悪化も遅いが治るのも遅い。一日安静にす。


6/20・金
 日中悉く宿酔に至る。夕方千寿に出校す。生徒相手にしゃべっている内に漸く回復す。今日は世間話が少し出来た。即ち時間の余裕が多少はあったということである。無駄話ということなかれ。こういう雑談を通して、生徒の精神状態を把握し、又成長の跡を見たりするのだから、授業に雑談は不可欠である。雑談をする余裕がないというのは、学習塾としては失敗であると言えるし、教える側としても全く詰まらないのである。
割と早目に終了したので、品川に回航す。但し胃の不快は取れず。麦酒だけを慎重に飲む内に、結局バスも電車も無くなる。しっかり一時間かけて徒歩で帰宅す。


6/19・木
 政府与党が集団的自衛権の容認を急いでいるには、頭の悪い首相の一存だけではなく、米側から相当の圧力があるそうである。この点に関しては過日の特定秘密保護法やTPP交渉も同じである。特に後者などでは、ユーの支持率は大変高いのだから、早く決断して牛豚の関税をうんと下げてくれと、銀座の御寿司屋で散散迫られたという。
従来、といっても三十年以上前までは、社会党が反対しているのでそういうことはできないと、米側に反対出来たそうである。55年体制というものは一種の傑作で、自社が共謀して米国の要求をかわすことが出来、吉田茂は本気で社会党を育てたという。(中井久夫の文章による)
だとすれば、社会党が無くなり、公明党が唯唯諾諾になって一番困っているのは、案外当の首相かもしれないと一瞬思った。ただ首相の馬鹿ずらを見ると、流石にそういうことはないであろうと直ぐに思い直した。それにそもそも祖父の代から吉田とは仲が悪かったし、集団的自衛権も祖父の頃からの宿願であった。
午後出社。給料の一部として金伍萬円受け取る。退社後、例によって月波君現れる。居酒屋Aに行く。今夜の月波君は、肝臓の他に頭も動かして欲しいと、高田馬場難関大学の入試問題を持参す。見ると、藤田さんの「精神の非常時」という小論を題材にしてある。藤田省三さんの講義を最後の最後に受け、長年の藤田ファンを自認する者としては、釈迦に説法、孔子論語、河童に水練とばかり、即問即答し、忽ち全問正解す。月波君は恐れ入りましたと恐縮する一方、吾人はすっかり機嫌を良くし、結局の大量飲酒に至る。二時過ぎ頃帰宅す。


6/18・水
 偶には新書を読もうと思い、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』を読む。経済社会がゼロ成長の定常状態になった以上、1000兆円の国家債務は返せない。返せないのだから、せめてこれ以上借金が増えないよう、財政均衡策を取るべきだという主張が目を引く。国債は日本社会に住む上での一種の会員権のようなものなので、日本国内で低利で借り換えが出来ていれば、それで十分とのことである。読後は何だか少しは気が楽になった。それにしても均衡状態を維持するだけでも、大変な増税が必要である。都心の大ビルと大資本家から、もっと税金を取り立てるべきだと思った。
 午後出社。事務仕事多し。退社後は佐渡屋へ。一人で飲んで帰る。


6/17・火
 午前中は老家人と銀行へ行き、納税と諸諸の手続き。昼食は一丁目に出来た「相模屋」といううどん屋へ。刻み肉うどん750円。店主自らうどんを打って、茹でて、接客もしている。立派な起業人であると思った。肝心のうどんはというと、稲庭風の細目でおとなしい感じ。出汁も関西風で、宿酔明けにはいいかもしれない。ところで、此の処の一丁目は再開発著しく、近くには大きなドラッグストアーも出来ていた。入って見ると、広い店内を持て余してか、食料品まで売っている。併し化粧品と洗剤の臭いが充満した店内で、肉やパンを買うお客がいるのだろうか。異業種の御客を取り込もうという魂胆なのだろうが、こういう物の道理を弁えない店が多くて立腹す。夜は肉屋の豚肉と行商人の鰹刺し。
 尼崎に続いて福岡の筑後でも同様の事件が起こる。所謂、他人の弱みに付け込み、監禁し、御金を搾り取り、死亡させるという事件である。格差社会とは、世界システム論でいうところの「周辺」が、直ぐ隣に存在する社会のことを言うのだろうと思った。


6/16・月
 未明早朝と地震多し。イラクパキスタンの情勢悪化。サッカー休戦というものはない模様。ところで月波君によると、伝声管で有名な飯田橋の「まつや」も先月で閉店したという。年末に行ったのが最後だった。何しろ店主夫妻が高齢で此の処休業状態であったから、覚悟はしてあった。此れで鳳生大学近辺でお酒を飲む必要もなくなった感がある。
 一日晴れ。午後出社。ワールドカップに便乗して、小学生に行って見たい国は何処かと尋ねると、行きたい国は無し、行きたくない国は中国と韓国だという。室温は相当上昇していると感じた。その内、ボーシヨーチョーなどと口走らないか心配す。退社後は中華立ち飲みと佐渡屋で軽く飲んで御仕舞。早目に帰宅した分、此の処合わなかった地域課員の尋問を受けた。


6/15・日
 外がやけに静かだと思ったら、今日はサッカーの試合がある日であった。今回はブラジル大会だから、どの試合も朝方にある。午前十時開始。一応テレビ桟敷で観戦す。家人公認のモーニングビールが利いてうとうとしている内に、逆転負けを喫す。
サッカーのワールドカップと聞くと、吾人にも思い出がある。今から思えば全くの勘違いであったが、家人は、吾人をスポーツマンにしたかったらしく、小学生の頃はサッカークラブに入らされていた。厭厭練習していたが、ごく偶には座学の時間があった。当時普及し始めたビデオに録ったざらざらとした映像を、視聴覚室の小さなテレビで見た記憶がある。恐らく82年のスペイン大会であろうか。Jリーグが出来る十年も前のことである。日本が本大会に出場するには、更に数年の月日が必要であった。今こうして世界中で日本人選手が活躍し、街が静まり返るほどサッカー中継に集中するとは、正に隔世の感がある。
午後は草取り。併し朝酒が祟ったのか、急に胃がざらざらし、少し嘔吐す。生憎今晩は月波君を呼び出して、今後の予定について話す約束をしてあった。五時前に、這う這うの体で、地元の世田谷に出仕す。チェーン居酒屋で麦酒を一杯だけ飲む。大部調子が良くなって来たので別の商店街まで歩き、大正末期創業の「布袋」という古い蕎麦屋に行く。盛りが550円という昔ながらの店だが、後継者もきちんといて繁盛している。世田谷の奇跡のような店である。盛り蕎麦と麦酒を一本。何とか飲み干すことが出来た。九時前には解散す。
みすず6月号を受け取る。原日記は昨年二か月の欠載があった分、連載が延長されていて四月分が掲載されている。ということは、研究休暇終了後の授業風景も描かれることとなる。学生の頭が悪い、おまけに態度も悪いと散散に書いてあって、読む方もはらはらす。私立大学も学習塾もその原資は学生生徒の授業料である。


6/14・土
 集団的自衛権には、平和ほど尊いものはありませんと謳う平和の党だったはずの公明党が反対するだろうという楽観もある。しかし今のところ何の造反者も出て来ないところを見ると、どうにも期待薄である。民主党のように年がら年中内輪揉めをされても困るから、全ての造反に理があるとも思わないが、一糸乱れぬ党組織というのも、どうにも面白みがない。この点に関しては共産党も同じである。一日安定した晴れ。特に無為。外猫の毛が抜けるのか、くしゃみ鼻水連日酷し。


6/13・金
 一週間以上ぶりに晴れたが、蒸発した分は雷によって払い戻される。昨夜が楽しかった分、足取り重く、午後遅く、千寿に出校。中学生のテストは終了し、経営者も少しは落ち着いたよう。而も此の学習塾はテスト休みを認めているらしく、大半の生徒が欠席す。本務校では、雑事、雑件、雑用、雑役が蜷局を巻いているが、此方では授業以外することがない。余りに暇なので、前任者が置いていった本を検分す。吾人の読書対象とは少し違うが、興味がないわけではない。ところどころに、几帳面なアンダーラインが引いてあった。これらの本も近近に実家に送り返すそうである。
 退社も早かったので、品川に回航す。金曜会は散会した後だったが、泥酔中の大将と合流す。大将は三鷹に住んでいる。同一方向なのでタクシーに便乗させて頂いた。連夜の大量飲酒で三時帰宅。


6/12・木
 週刊誌の見出しなどを見ると、今にも日中間で、大海戦か大空戦が起こりそうな気配である。たかが週刊誌と言うことなかれ。戦争というものは、「両国の国民感情が非常に尖っている時に、何か大きな事件」が起こると避けられなくなる。「たとえば米西戦争はハバァナ港で、米国軍艦メーン号が爆破したのを動機に起こった」。爆発の「原因は全く不明であった」ものの「米国の感情は新聞の煽動によって熟しておったが故にここに開戦の宣告」に至ったのである。(清沢冽の文章から)
如何に下らない週刊誌と言えども、何遍何遍も書き立てることで、ほんの少しずつであるが世の中の温度を上昇させている。発火点まではまだ遠いだろうが、そろそろ少し冷静になるべきであろう。週刊誌の担当者は、いえいえ私ども売文業者は、皆様が喜びそうな雑文を提供しているだけですとなどと弁解するだろうが、彼らは自分たちの影響力を過小評価すべきではない。世論を煽りすぎて、本当に火が点いてからでは、もう取り返しがつかないのである。
朝方は大雨、御昼まで霧雨が残った。午後出社。夏期講習の案内を作成す。講習の案内は自動的に授業料の請求書にもなる。請求書だけを送るのではあんまりなので、毎回学習状況に関しての所見を付けることにしている。一人当たり二百字程度の作文を次次と作成す。しかし、お宅のお子さんは頭も悪いし、性格も不真面目なので、どんなに勉強させても、人並み以下にしかなりませんなどとは書けない。つい当たり障りのない婉曲的な表現に終始す。本当のことが言えないから、言論不自由である。退社後は、中華立ち飲みと居酒屋バーIへ。Iではお客の若い女性と話しが盛り上がる。つい長居して帰宅は三時となる。


6/11・水
 雨の降る前に出社。退社後立ち飲みBに居るとみるみる雨が止む。好機を逃すなと急いで帰路に就く。十時半に異例の帰宅をする。御金も肝臓も使わずに済んだ。給料の一部として金弐萬円受け取る。此れでは子どものお小遣いである。


6/10・火
 無二の心をもって一日草木を刈る。合間に家人の御金を下ろしに行ったところ、暗証番号を何度も間違える。そもそも家人に伝えられた番号が間違っていた。三回間違えるとカードは敢え無く失効となり、一円も下ろせなくなる。余計な面倒を増やして仕舞い反省す。


6/9・月
 朝から何度も通り雨。午前中は須見伯母が来、もっともっと木を切るべきだと指南される。午後出社。少しだけ飲もうと中華立ち飲みに行くも、飲んでいる内に大変な豪雨となる。仕方なく飲みながら待つことにす。二千五百円も飲んだ頃に、漸く小降りとなる。家に着いたら一時半であった。


6/8・日
 午前中は降ったり止んだりを繰り返し、漸く夕方には止んだ。此の数日で平年一か月分の降雨があったという。夕方に雑木を刈る以外は無為。こういう日はお酒を飲めればいい。両家人と平穏に晩酌す。万代伯母が施設に入り、入れ代わるように外猫が来て丁度四年。両家人の入院から二年。あと何回こういう晩が迎えられるのか。正しく神のみぞ知ることである。
 欧州中央銀行は愈愈金利をマイナスにするという。御金を借りてくれる人がいなくて困っているのは、日本ばかりではない。デフレは世界の現象となりつつある。世界中の経済学者を総動員しても解決策は見つからず。


6/7・土
 そういえば、維新の会も西と東、というか右と左、いや維新の会にそもそも左は居ないから、極右とそうでない方に分党するという。賢明な判断だと思う。現憲法の一方的な破棄を狙うあの老人には流石に付き合い切れないのだろう。
 明けない夜と、降り止まない雨と、終わらない不景気は無いというが、日本のデフレーション経済のように終わりがないものもある。一昨日からずっと雨。一日無為。外猫も暇そう。


6/6・金
 先月の電気使用量156キロワット。前年比7%減。減少と言えば、老家人の年金も、加入している厚生年金基金の解散を受け、近近大部減るそうである。従って三階部分は無くなり二階家になることになる。それにしても二階分も勤務先が建て増ししてくれていたのだから、厚生年金とは有難いものである。最近の若い人は、まともな会社にも入れず、平屋の掛け金も払えないというから、将来は地べたにテントを張る人が激増しそうである。
 まだ梅雨に入り立ての筈だが、時折末期の様な大雨が降る。午後千寿校に出校。来る筈の生徒が来なかったり、又来る筈の無い生徒が来たりと、相変わらず時間割は錯綜す。草臥れた処で、授業の成果が出ていないと、経営者にぶりぶり怒られる。週一回の非常勤勤務だから、至らぬ点が多いのも仕方もあるまいと思うが、経営者は頗る御不満のようである。其の上、休日出勤してまで教え足りない分を教えろと宣う。何よりも貴重な休日を、名前と顔も一致しない生徒の教鞭に費やすなど冗談ではない。人生最大の悲劇である。
そもそもそういう悲劇を強いることの無いよう、時間割を組み、カリキュラムを作り、人員を適切に配置するのが、管理者たるものの仕事であろう。前任者が逃散して困っているというので態態手伝いに来ている吾人に、随分と理不尽なことを言うと思った。色色言いたいこともあったが、道理を知らぬ人に腹を立てても仕様がないので、其のまま黙って帰った。ずっと酷い雨である。


6/5・木
 朝から小雨。漸く涼しくなる。午前中は昏昏と眠る。もう秋になったと思いたかったが、夏はこれからである。関東まで入梅。ところで六月は日曜以外、カレンダーに赤い所がない。新たな休日を拵える計画もあったが、山の日はどういう訳だか八月の十一日になって仕舞った。此れは政策ミスである。
 過眠は良くないと思い直して歩いて出社。一時間も歩くと何だか頭がぼんやりす。お腹が空いたのかと思い、ついうっかりして不二蕎麦で大盛り天麩羅そば四百円を食べる。すると今度は胃腸が驚いたのか、お腹が痛くなる。慣れないことをしたら散散な結果であった。夕方から本降り。珍しく空いていた立ち飲み屋Bに一人で寄り、早目にバスで帰った。


6/4・水
 天安門事件から二十五年。あの出来事を忘れるがごとく、猛烈に経済発展に突き進んできた感のある中国である。しかし民主的な手続きを踏むということが出来ないということは、肝心の経済にも影響す。即ち汚職の蔓延と格差の異常な拡大という、非常に歪んだ形で社会経済が発展して仕舞った。こういう資本主義を修正するのは容易なことではなかろう。
 今日も非常に暑い。午後出社。中学生は運動会の練習でぐったりの不機嫌気味。比較的まともな感覚を持った者にとって、ああいう団体行動ほど草臥れるものは無かろう。世の中色色変わったとはいえ、小中学校というものは何時の時代も大して変わらない。前へ倣えの集団行動に行進の練習である。其れが嫌なら、小6の時にうんと勉強して、自由を尊ぶ私学に行くべきだったと諭しておいた。退社後は中華立ち飲みと居酒屋バーIへ。機嫌よく十二時半帰宅す。


6/3・火
 午前中は草取りと、隣の隣の飲食ビルから飛来した構造物の撤去。ペントハウスのようなものの一部が、空き家の物置きの屋根に落ちていた。大風で吹き飛ばされたのだろうが、何時からそこにあったのかは不明。結構大きくて難渋す。落ちてくるのは天女の羽衣だけで十分である。日が陰ってからも草取り。


6/2・月
 更に暑くなる。かんかん照りなので雨傘を差しながら午後出社。九時半まで授業。やる気の無い中三と高三の生徒には、此の二十年で雇用環境は一変したので、きちんと勉強しないとまともな雇用には有り付けないと話す。尤もきちんと勉強しても、ブラック企業が蔓延し、又中小零細は給料も払えない悲惨な状況下だから、最早勉強する動機が無いのかもしれない。ならばせめて愛想よくしなさいと言っておいた。尚鶴木さんは痛風悪化により早めの退散。吾人もお付き合いして一緒に帰った。


6/1・日
 ここのところ異様に暑く、とうとう30度を超える。初扇風機、初冷やし中華。一日外出せず。