2014年8月

8/31・日
 一号室退出す。見たところ造作も相当古い。また内装屋さんを呼ばなくてはならない。其の後も色色と草取りす。草臥れたのか食欲も出ず。御酒も少ししか飲めなかった。今日で八月も御仕舞。戦後69回目の夏にあたりもう少し色色と考えたかった。


8/30・土
 今日も涼しい。此れで丸一週間涼しかったことになる。つまり天候不順が関東平野にも押し寄せたことになる。全国的な日照不足で野菜の生育にも支障が出ている。来年度の概算要求は101兆円だという。幾ら高齢化が進んでいるとはいえ、幾らなんでも使い過ぎである。此の国も、結局氷山に衝突するかしない限り正気に戻らないのだと思った。一日だらだらと草取りす。


8/29・金
 都内の最低賃金は888円になるという。二十年前は630円ぐらいだったから、一応上昇のカーブは描いていることになる。しかし当時、最低賃金で働く人など殆どいなかったと思う。吾人が学生の時分にアルバイトしていた時間給は確か900円であった。最低賃金は上がっても、民間給与はずるずる後退しているから、この間如何に最低賃金近くで働く人が多くなったかということを示している。ちなみに吾人が働いていたスーパーの現在の時給は1000円を少し出る程度である。
 宿酔の為か日中ふらふらす。人繰りも付かないうえに、本務校は千寿校からの送金が頼りだからという理由で、吾人の辞意は受け入れられず。結局千寿に出校す。滞在時間を最短にし、なるべく経営者とは顔を合わせ無いようにす。全く何事もなかったような感じだが、雑言を浴びせられたという記憶は消しようもない。万事不愉快なので、退社後は品川に回航し、佐渡屋、バーIと飲み歩く。帰りは大将のタクシヰに便乗させて貰った。三時頃帰着。


8/28・木
 今日も昨日とほぼ同じ天気。昏昏と寝たのちに出社。給料参萬円貰う。南海大学の情報通信学科に推薦入学が決まった生徒の宿題を片付ける。生憎吾人は文科系中の文科系にて佳い課題が何も思い付かない。やむを得ずブロードバンドの歴史ついて調べる。銅線のアナログ回線が、ISDNになり、ADSLになり、光ファイバーになるまで僅か十数年。この急発展は些か狂気じみていると感じた。月波君が来たので少し早めに退社す。バーIと佐渡屋に行って痛飲す。帰宅は一時半。今朝の高橋源一郎氏の批評文は実に佳かった。


8/27・水
 朝から小雨模様。気温は更に下がり、丸で十月の陽気。あるいは北海道にいる感じである(而も道東辺り)。一切の作業は無し。朝寝の後、昼食を取り、以後昏昏と午睡す。午後四時出社。ぼんやりしながら生徒から持ち込まれた読書感想文などを書き上げる。退社後は立ち飲みBと中華立ち飲みに行った。何だか一日中眠たかった。帰りも雨。結構濡れて帰える。
名古屋の会社は意地でもリニヤを作り始めるという。此の会社も一度火事を出さない限り正気に戻ることは無いのだろう。吾人も観念す。しかも潰れそうになったときに、面倒を見てくれるだけの国があるかどうかも、正直なところ自信がない。


8/26・火
 保育所が足りなくて仕様がないというのに、保育者の成り手が無いという。民間の保育所は、給料も安い上に親からの苦情も多くて、保育士がすぐに辞めて仕舞うのだという。保育というものも物凄く手間がかかるから、採算原理だけでは事業自体が成立しない。成り手が無くて一番困るのは、結局のところの親と子である。給料が増やせないのなら、せめて保護者は小煩いことは言わずに保育者には労いの言葉を掛け、偶には饅頭か何かの差し入れぐらいはすべきであろう。
別に保育に限らないことだが、労働という物は、どうにもこうにも取り繕ってみたところで、本質的には辛いことである。其の上、賃金も安く、ひとに感謝もされないのであれば、一体誰が働こうとするであろう。労働に釣り合う適切な対価を支払わなければ、何れ働く人が本当に居なくなるのではないのかという危惧を抱かずにはいられない。
 日中東風が入りぐんぐん涼しくなる。草刈りでもなく草取りでもなく、草むしりに取り組む。軍手を両手にはめ、雑草を鷲掴みにして、狂ったように根っこごと引き千切る。敷地が引っこ抜けるぐらいの気迫を以て取り組んだ。数度の出撃のたびに、登山でもしたような滝のような汗を流す。夜は家人の揚げたとんかつで脂質を補充す。
 夜は公共放送の「聖女」というテレビドラマを見る。第二回を見終えたところによると、女主人公の幼少期は貧困の極みにあり、そこから脱出したくて嘘で塗り固めた人生を歩み、最終的には事件に至ったようである。悪は既に方方に伝染しまくっている感じである。貧困という物はどんな時代のどんな社会にも存在するだろうから、こういう問題は今に始まったことではないだろう。となると問題は、その割合とそしてその感染規模である。


8/25・月
 漸く涼しくなったので滞っていた様様な業務に着手す。まず植木屋さんに電話をし、庭木に対して無条件降伏をする旨を伝え、秋の剪定を予約す。次に廃品屋さんを呼んで、年寄りが使っていたテレビに冷蔵庫など、種種類類の我楽多を処分す。家作人が遺棄していったような物も含め、ふとん類三、スピーカー二、扇風機、暖房器具、スーツケース、プリンター、ポット、小イス、凡そ十五年前に同級生の中村君に作って貰った容量2GBのパソコンなども全て捨て去った。全部で十七品目、軽トラックは満載近くとなる。締めて二万二千五百円。
午後本務校に出校。無責任社長に早く給料を支払うように言うと、僅か壱萬円が下賜される。人を馬鹿にするにも程があると思った。其の後ぐったりしていると、嘗て通っていた生徒がやって来て、進路を相談したいという。少し話せば、何のことは無い、大学入試要項の見方が分からないのである。ある大学で前期入試が三日間とあると、三日連続で試験を受けさせられると思っているから驚く。今更マンダリンではあるまい。まともに文章が読めないから、世の中は謎だらけといったところなのだろう。頭が悪いというのは誠に気の毒である。
こういう悪い頭を鍛え直すというところに、低層大学の存在意義があるとの見解もある。併しそもそもが勉強に向かない子だから、どれほどの教育効果があるのか疑わしい。それでは仕事をさせるという手もあるだろうが、雑用でもさせながら少しずつ社員を育てる余裕というものを日本企業が失って久しい。それに一生懸命育てたところで、誰もが高度な職業能力を持てるとは限らないし、世の中を支える上では幾多の職業が必要である。
そうなると賃金を引き上げ、概ね無能力な人でも真面目に働くのならば、最低限度以上の生活が送れるようにするしかないようである。むろん賃金を上げれば企業が海外に逃げて仕舞うという心配もあるだろう。だが心配御無用。製造業はもう粗方脱出して仕舞ったから、国内にはサアビス業ぐらいしか残っていない。第三次産業の上がった賃金は、即座に内需に回るだろうから、これこそ景気の好循環である。
退社後佐渡屋に寄って帰る。麦酒二、日本酒、平政の刺身に虹鱒の塩焼き、鰯の煮付け。締めて弐千円ちょうど。涼しくなって元気が出て来たのか、外猫が何度も上って来て安眠を妨害す。雨戸に接見禁止と書きつけておこうと思った。


8/24・日
 大手予備校の一つが大幅に業務を縮小する。全国模試は取りやめ、地方の校舎は概ね閉めてしまうというから、相当経営が悪化しているのだろう。吾人が受験生だった頃などは、前納された授業料の金利だけで職員の給料を支払えたなどという噂があったほどだから、正に隔世の感である(金利についても)。尤も全ての予備校が駄目という訳ではない。有名講師の授業を映像に収め、矢鱈に拵えた小さな部屋で生徒に見せるだけという予備校は繁盛しているそうである。大きな校舎の大きな教室で実際に授業を行うというスタイルが、時代に遅れたということなのだろう。
最近は大学でも映像配信型の講義する所があるという。交通不便な僻地に住んでいる者には有り難いだろうが、果たしてそういう形式で教育という物が成り立つのか少し不思議である。何時でも何処でも好きな授業が好きなだけ受けられるというのは便利だろう。だが矢張り、態態電車に乗って都心に出て、学門をくぐり、大小様様な教室で、色色な先生と学生の息遣いを感じながら勉強するというのは、学生時代という物の特権だったと思うのだが。まあしかし、学生生徒の頭と御行儀は加速度的に悪くなっているから、そういう講義自体がもはや不成立になりつつあることは想像に難くない。
日中三十二度程度。夕方に月波君と客間君が来たる。丁度地元の世田谷でイベントのようなものをやっていたので、歌や三味線を聞きながら屋外で飲んだ。一応暑気払いということだが、払っている傍から直ぐに暑くなる。結局何時もの中華屋に避難す。更に古い蕎麦屋と転進す。午後九時ごろ解散す。十時半就寝。


8/23・土
 昨夜の人身事故は青山で車椅子ごと人が落ちたとのこと。幸い大事には至らなかったと新聞で見た。まあ不幸中のなんとやらである。漸く天気が正常化す。曇りがちで涼しい。残存部隊を集結させ、草取りに出動す。数波に渡って、草と蔦の大帝国に対して反撃を試みた。
今晩は多摩川の花火大会。区民の行いが善いから無事開催されたよう。黒糖焼酎を飲みながら地元の有線放送で鑑賞す。一方、テレビ東京では「トラック乗り継ぎ旅」というのをやっている。吾人が丸で自動車運転無能力者ということもあるだろうが、日本全国津津浦浦の生産と消費を支えているトラックとその運転手さんには何だか頭が下がる。こういう番組は教育テレビでやってもいいと思った。


8/22・金
 今日も三十五度はある。千寿に出校。以後12時半から7時までずっと授業。退社際、流石に経営者には色色と挨拶された。引き留め工作の一環だろうが、昨日までの悪口雑言を思い出すと気持ちは複雑である。
草臥れたので一昨日の蕎麦屋に入る。麦酒にカツ丼の上わ物=かつ煮と、たぬき蕎麦を食べる。もっと御酒が飲みたかったが、胃も腸も弱った感じだったので続きは家で飲むこととした。すると半蔵門線が人身事故の影響で中中動かず大部遅くなる。どうもあの蕎麦屋に入るとあまり良いことがないと思った。兎に角、此れで延べ四週にも及んだ方方の講習は全て終了す。途中一週間の休みはあったが、正直全軍潰走状態である。また広島の災害は相当な規模に及んだよう。明日からは少し草刈りをする予定である。


8/21・木
 思い起こせば吾人というものも、給料も払わぬような大貧学院に奉職し、おまけに実家の御金まで散散に吸い上げられ、挙句の果てにどういう訳だか千寿校に派遣させられ日日無理難題を課せられ其の上罵詈雑言を浴びせられている。此れでは余りに吾人が幾ら何でも本当に不幸であると思った。一番目と二番目の不幸は、ある程度は自らが招いた結果である。それでも三番目の不幸だけはどうにも辛抱がならない。此れでは余りにも吾人が可哀想である。だから自力で自己を救済することにした。
千寿校に出校するや否や退職させて欲しいと意思表明す。明鏡止水の心境ですなどと言って、静かに辞意を伝える積りだったが、女性経営者は再び激昂し、昨日と同じく指導方針を巡っての口論大会となる。併し誰が何と言おうとも吾人の辞意は固い。まなじりを決して何が何でも退職させて頂きますと締めくくった。
以後担当の授業は淡淡とこなした。教えるということには色色と苦労もあるが、残念ながらそれは吾人の選んだ生業である。だから嘆きたいことは多多あるものの、精精努力したいとは思うし、人を育てるというはそういう困難の連続であるということは分かっている積りである。だが事情も分からぬ理不尽な人に、吾人の指導を散散に指弾されることだけは、どうにもこうにも我慢がならなかった。
結局、突然辞めた前任者に代わり勤務し始めたものの、半年も持たなかったこととなる。月謝も安いし、それなりに佳い塾だとは思ったが、経営者と此処までそりが合わないとは思わなかった。千寿引いては安達区の子どもたちのために、少しは頑張ろうと思っていただけに、こんな短命に終わるということは無念でもある。千寿の生徒諸氏には申し訳ないと思うが、吾人が教えるのも滔滔明日で御仕舞ということになった。
五時半退社。炎天下の夏空だったがやけに清清しかった。こういう元旦のような空をもう少し見たいと思ったが、余りに暑すぎる。難しい顔をして其のまま地下鉄道に乗って帰った。広島の土石流被害は益益拡大す。また今日も関東だけは三十五度に達す。


 
8/20・水
 広島で大変な土石流が起こる。地図を見ると可部線の沿線である。芸備線には乗ったことがあるが、可部線は川の対岸を走っている。線路の向こうの新興住宅地の直ぐ裏は山である。随分危険なところに大勢住んでいると思った。本来人家が密集するような所では無かったのだろう。日本の人口がもっともっと減少すれば、もっと平坦で安全な所に、もっと安く住めるようになるだろうと思った。
 一方関東は大変な暑さとなる。千寿校では夏期講習が続いているので、十一時のメトロに乗り千寿に向かう。千寿校近くの「日の出」という古い蕎麦屋で、何だか生温い大盛り蕎麦(600円)を食べたのち出校す。晒し水の温い蕎麦のせいかは知らないが、出社早早、此処の経営者に授業進度が遅すぎると散散になじられる。生徒の悪い頭を少しずつ直しているのだから時間が掛かるのは仕方がないと吾人が言うと、経営者は益益激昂し、どんどん進めなければ頭は良くならないと宣う。仮にどんどん進めても、初歩の方程式が出来なければ、数学などは分かる筈も無い。結局、吾人の湯沸かし器にも滔滔久久に火が入り、進め進まぬの言い合いとなる。挙句の果てには、「吾人の授業には一銭も価値も無い」だとか、「何年も講師をやっているのに、何でそんな為体なのだ?」とか、「やる気がないにも程がある」などと一方的に言われ続ける。
全く以て理不尽なことを言う人だと思った。以後吾人は一切の不機嫌になり指導をするどころの心境ではなかった。処で、世の中の理不尽に総量があるとすれば、本日の吾人は其の相当数を担当した筈である。広島辺りが洪水に見舞われる筈は無いのだがと、暫し思った。その後本務校に回航。取り敢えず中三には二次関数を機嫌よく教えた。
退社後は佐渡屋で飲んだ。努めて平静を装ったが、立った腹は横にはならず。幾ら飲んでも酔う程でも無し。結局12時を回ったのでタクシヰで帰宅。1730円。全く以て無駄な出費であると思った。



8/19・火
 破れ被れでカジノを造る計画があるそうである。賭け事は良くないから、外国人観光客専用にして日本人の入店は不許可にする案もあるという。だが駅前という駅前、街道筋という街道筋に、カジノのようなものがある国も珍しい。こちらも既に大量の賭け事依存症と多重債務者を生み出している筈である。
ところで吾人も、大貧学院の生徒からは「先生はパチンコとかしないのですか?」などという下らぬ質問をよくされる。大人とは悉くそういう店に行くものだと思っているようで、周りにロクな大人がいない証拠である。こういう問いには、煩い店内で玉を弾くより、お家で静かに御本を読んでいる方が、余程楽しいし、御金も掛からないと答えることにしている。尤も吾人の読書は、読んだら読んだなりに考えたり調べたり腹を立てたりしなければならないので、趣味というのには程遠いが。一日猛暑。


8/18・月
 ガザは何とか落ち着いたようだが、イラク北部では戦闘と虐殺が続く。そもそもどうしてここまで宗教が過激化するのか。専門家による説明は色色とあるようだが、納得にするには程遠い。欧州辺りからも志願兵が出ているというから驚く。ある程度豊かで、まあそこそこ自由な社会を捨ててまで偏狭な世界に入るというのは、四半世紀前のオウム真理教を思い起こさせる。また辺野古の埋め立て工事が始まる。基地を移転させるのに新たな基地を拵えるというのも、分からないこともないが、もう少し波風の立たない場所と方法は無かったのだろうかと、暫し此の問題の根源を思い起こす。
 午後本務校に出社。退社後はバーIに。店主が腰痛から復帰し二週ぶりの営業再開となった。御祝儀代わりに飲み過ぎて帰る。


8/17・日
 関東に涼をもたらした前線が、関西では大雨を降らせる。今年は矢張り天候不順である。午後は新書の「日本辺境論」。ここのところ内田、といっても百鬼園先生ではなく、樹先生の方をよく読む。丸山理論や司馬遼太郎の議論を踏まえつつ、日本は辺境の後発国であるが故に、日露戦争後に国家モデルを見失う。その結果、只管大陸を侵略するという一つ前のモデルに固執し、益益可笑しくなったという分析が興味深かった。合間合間に刈った低木を裁断して袋に詰める。結局結構蒸し暑い。明日は本務校勤務である。


8/16・土
午前中は大変蒸し暑かったが、徐徐に寒気が南下し夕方に一雨。以後、湿度は高いものの伊那や軽井沢に居るような感じとなる。断続的に草取りと低木刈り。序に近所のごみも片づけた。


8/15・金
 4−6月期の国内総生産大幅減。また西アフリカでは出血熱が流行し、死者は千人を超えたという。どちらも恐ろしい兆候である。尤もアフリカでは、その数十倍の人人が飢えや初歩的な感染症で日日落命している筈である。新手の伝染病というと対岸の火事とはいかないから、此の大騒動なのであろう。
 すっかり真夏の空気に戻り、日中三十四度に達す。草取り不能。伊那では野菜中心の食生活だったので、バランスを取ろうと糖質と脂質を中心とした晩食にした。


8/14・木
 東日本は全般的に雨模様。午前中は木曽の神社に参拝す。序に国道沿いの店で昨日消耗した燃料を補充す。ガソリン1リットル179円。伊那以外では自家用車には乗らないからよく分からないが、月波君に言わせると随分と高いのだという。高い高いと言いつつも、それでも此れだけ乗用車が走っているのだから、随分と贅沢な話しであると思った。あるいは、自動車の便利さには敵わないのだろう。其の後伯母を交え、伊那市街の「小藪」という蕎麦屋で食事。伯母とは此処でお別れ。
御金が勿体ないので各駅停車で帰ろうと思った。時計を見ると一時半過ぎである。早速時刻表を広げて検討す。而し二時の飯田線に乗っても、岡谷で接続する佳い中央線がない。結局三時の列車と同じである。そこでバスターミナルに行くと、二時半のバスに丁度空席がある。それで帰りも高速バスに乗ることにした。伊那バス二号車は、観光タイプの車両で、シャンデリアとカラオケセットは付いているがトイレは無し。その分女性ガイドが乗っている。尤も観光案内はしないから、車掌というべきであろう。観光バスという物にはもう何年も乗ってないが、ガイドというものは声が良くなくてはならない。此のガイドさんは、落ち着いた良い声をしていて気持ちも安らぐ。出来ればもっと喋って欲しかったが、生憎高速バスだと降車案内ぐらいしか喋ることがない。至極残念であった。
 高速道路に乗っかって、さあ走るぞといった感じになったが、快調だったのはほんの三十分程度で、双葉サービスエリアを過ぎ甲府盆地に入った辺りで全く動かなくなる。丸で都内を走る低速路線バスである。案の定というか予想以上というべきか。此れは長い旅になると観念し、バスの最後尾の席に移動す。丁度空いていたし足元も広い。トイレが無いので麦酒は諦め、お酒を飲むこととす。ワンカップを三つ飲み、本を少し読み、寝て起きても、まだ上野原である。
何もすることがないので、隣席でごおごおと寝ている月波君を叩き起こして、尻取りをしようと思った。こういう時は願掛けの積りで、高速道路→ロケット→特別急行→ウナ電→電子式卓上計算機→機動部隊→一番星→始発→つばめ、式に速いもの尻取りをするのが最適である。併し同じく睡眠中の他の御客の頭まで起こして仕舞えば、相当な迷惑になるだろう。だから止めにした。
どうにも仕様がないので隣の車線の自家用車を見下ろす。すると漫画を読みながら運転している。随分器用な運転手だと思った。他は御行儀の悪い恰好でゲームをしていたり、足を出してテレビを見ていたりと、渋滞中の自動車の中ほどだらしの無いものはなかった。トイレ無しのバスは談合坂に臨時停車。結局小仏トンネルを抜けるまで二時間も掛かった。
一方都内に入ると、憑き物が取れたような韋駄天走りとなる。あれだけ道路を埋め尽くしていた自動車は何処に行って仕舞ったのか。渋滞というものは不思議の塊である。八時半新宿着。二時間半も余計に遅かった。結局のところ、二時の列車も二時半のバスも、三時の列車も皆同じ八時半到着である。何はともあれ漸く着いた。こうなるとちょっとした感動ものである。ただ座っているだけでも大変だったから、運転手と車掌はもっと大変であろう。渋滞残業お疲れ様ですと乗務員を励まして下車す。月波君と少しだけ飲んで仕上げて帰宅す。


8/13・水
 月波君の運転で岡谷方面に行き、昔の中山道を辿りながら、旧和田トンネルを越える。峠付近で力餅が食べたかったが、此処の茶屋も廃業してしまったよう。仕方なく霧ケ峰あたりに行って見た。ここら辺は元元は火山帯であったそうで、本州とは思えないような景色が広がっている。また流石にクーラーの名前になるだけのことはあって大変涼しい場所である。但し人の出も大変なもので、車を止める所を見つけるだけでも苦労する。
和田峠の向こう側にある黒曜石の博物館に避難す。こういう所に行くと、決まって暇を持て余した学芸員の好餌になるが、今回ばかりは何の説明も受けなかった。至極残念である。其の後、620円の新和田トンネルを潜って岡谷に戻る。
何処の食堂も観光客で大混雑なので辰野まで戻り、県道脇の「ラーメン大学」に入る。ラーメン大学とは長野県に多いラーメンチェーンで、恐らく昭和四十年代の札幌ラーメンブームの頃に生まれたのだと思う。就中此の店は、飯田線の車窓から良く見えるので、何時かは行って見たいと思っていた。念願の初入店、いや初入学である。
午後二時前の入店だったので他の御客はゼロ。広い店内は丸で昭和末期で時が止まったようで、良く言えば侘び寂びの感覚、悪く言えば廃屋寸前である(掃除はしてあったが)。620円の味噌ラーメンはいたって普通。何杯食べれば卒業するかまではわからないが、漸く此れで私もラー大には入れた。取り敢えず一回生といったところだろう。三時半には伊那に戻る。晩食は例によって伯母の野菜天麩羅。酔いが回り九時就寝。毎回毎回就寝時間が早くなっている。


8/12・火
 一日曇り勝ち。朝寝に午睡と昏昏と昏睡す。昨日出掛けに買った「街場の憂国論」(内田樹)は既にバスの中で読んで仕舞った。読む物が無くなって手持無沙汰となる。やむを得ず積んであった地方紙の束を引っ掻き回し、一週間前まで読み通した。其の後ラジオを聞きたいと思った。而し信州にはAMの民間局が一つしかない上に、山なので調整に悉く苦労す。他は近所の日帰り温泉に行ったぐらい。往路は伯母に送って貰ったが、帰りはたっぷり三十分歩いた。なまけるにも体力が必要である。夜遅くなって月波君が合流す。伯母を交えて少し飲んだ。


8/11・月
 今日からみたび伊那に行くことにした。お盆期間は「あずさ回数券」が使えないので、高速バスで移動す。12時半の伊那バス二号車で出立。首都高速の事故渋滞に巻き込まれ、都内を抜けるのに一時間半は掛かった。以後は割と順調に走った。伊那には40分の延着。インターチェンジ傍のスーパーマーケットで伯母と合流。伯母は齢八十だが一生懸命自動車を運転している。一方齢四十の吾人は、免状はあるが全く運転出来ず。何ともお役に立てず、情けない限りである。
 伊那の山際では「ペテロの葬列」という連続テレビドラマを見る。家人が熱心に見ているので、吾人も巻き込まれた。数十年前の詐欺事件がきっかけで、次次と事件が起きるという内容である。特に「悪が(ねずみ講式に)伝染する」という、本ドラマのテーマが気に掛かる。今日の社会情勢を見るに、例えば親や教師、ひいては社会から見放されたような子どもや若者たちが、将来どのような大人になるのか。彼らの一部は受けた悪意を増幅させ、ある種の報復めいた行動を始めるかもしれない。そういう不気味な予言めいたものを、此のドラマには感じる。


8/10・日
 台風11号は四国に上陸す。西日本は再びの大雨。帰省の足も羽も混乱す。大雨で何処かのローカル線が切られないか心配す。ここの所、被災即ち廃線というケースが多い。高千穂線も岩泉線只見線(一部)もそうして無くなって仕舞った。
関東も台風の外郭の雲が掛かり朝から断続的に大雨。南風が入り蒸し暑い。日が暮れる頃には漸く落ち着いた。台風に関してのリポートを聞いていても、周南市だとか南国市だとか、平成の大合併で生まれた街名は何処にあるのかさっぱりわからない。いっそ市の中心駅の名前を読んで欲しかった。終日在宅。一応先月の日記をアップする。一旦アップした以上、多少の間違いがあっても一切の訂正をしない方針であるが、七月の日記は読めば読むほど可笑しなところがあり何度か訂正す。講習で忙しく推敲時間が足りなかったせいだと思った。 


8/9・土
 暫らく仕事に行かなくて佳いというだけで朝から頗る機嫌がいい。つい朝から牛丼を食べる。午前中は草刈り。台風接近とのことで昼から小雨模様となる。渦巻の関係上、東風が入り比較的涼しい。


8/8・金
 漸く少し雲が出てくる。直射日光は遮られたが、その分蒸し暑い。今日も千寿に出校。途中、蘭蘭という店で軽食休憩。此処には330円のラーメンとカレーがある。中学生がキャンプ場で作ったような素朴な味だが、小腹を満たすには十分である。こういう店は城南地区にはすっかり無くなって仕舞ったから有難いと思った。以後七時まで勤務し、本務校に回航。給料(と言っても一部)を受け取り、今後の授業予定を検討す。千寿校の講習はまだあるが、概ね此れで三週間にも及んだ懲役苦役は終了す。
思えば悲惨な日日であった。普段の倍も授業をし、其の上気象条件は最悪である。暑さによる疲労係数を1.5とすると、普段の三倍は草臥れた計算である。だが此れで暫らくは働かずに済む。金曜会に久久に参加す。殊に大将や轍田さんとは伊那以来の再会となる。佐渡屋にも寄り、つい贅沢してタクシヰで帰宅。1730円。一時半到着。


8/7・木
 中学生辺りの方程式の応用問題には、旅行の前半は遅く行き、後半から速く行くなどという問題がある。つまり、峠を登るときは時速2キロで降りるときは4キロだとか、のんびり歩いていたら遅刻しそうになったので、分速60メートルを90メートルに増速して間に合ったなどというのが、それらの模範解答である。
こういう問題を解いてみせると当然苦情が出る。急にお腹が痛くなったらどうなるのかとか、信号に掴まったらどうなるのかとか、行き倒れの人や交通事故現場に遭遇してもそのまま放っておいて良いのかなど・・・。無論、屁理屈の類には違いない。
その都度吾人は、数学というものは、そういう想定外のことは考えない。世の中は、極めて単純に出来ているという前提の上に成り立つ学問なのだと説明することにしている。方程式の上では、道路は一直線で、急な落石や謎の落とし穴もなく、旅行者の体調も御天気も頗る良く、何の障害物も出て来ないと。だが、現実にはそういうことはあり得ないと、生徒は口口にす。屁理屈を言う生徒たちは、そういう単純化に対して=問題意識を持っているのかはどうかとして=何とは無しに文句を言っているのだと思う。
数学、そして数式というものは、世の中に起こる筈であろう多種多様な出来事や差異を割り切ることでしか成立しない学問である。起きている現象を単一化し単純化する。あるいは、世の中や自然を貫いているであろう法則を見抜く。これは世界を単一の価値観に照らし出す作業である。
むろん、私たちは数学に感謝すべきである。ある種の数式や統計がなければ、まともな徴税率を決めたり社会保障制度なども作ることも出来ないだろう。制度化には数式が必要である。だが、時として其れ等は危険な発想に至ることもある。自国民を同一化する。そして相手の国民を単純化する。そうすることで、多種多様な生命と生活は統計上の記号と成り果てる。その発想法の行き着く果ては、双方の生命を数量で比較するという計算式である。例えば、数万人の犠牲でその百倍の人命が救われたなどと措定するのも、そうした単純化された数式の御蔭である。その点で数学というものは、恐ろしい学問になる可能性があると言ってもいい。
 「世界をできるだけ単純な公式に還元しようする宇宙論や哲学やあるいは数学と、キノコにはまだ未知の種類が数千種類もあるという、世界の多様性に喜びを見出す博物学と、学問には両極があることを知ったのは学生時代であった。」(中井久夫の文章による)
爆弾を落とす標的、砲弾を撃ちこむ対象物が、単純化された記号ではなく、数百数千数万もの多様性を持つ人間だと思い至るならば、人は引き金や、投下のレバーを引くことが出来るであろうか。あるいは、地震津波もない広い土地で開発された原子炉を、風光明媚だが時として多くの天変地異に見舞われる狭い国土に、平然と建てていられるだろうか。もしそれらを少しでも思い留まらせることが出来れば、博物学的視点というものは、世界の破局を少しだけ遅らすことが出来ると思った。
 メトロに延延と乗って千寿に出校。午後0時半から7時までずっと授業。退社後は、月波君を千寿に呼び出して、串カツ立ち飲み、居酒屋「永見」、東口の福心と飲み歩いた。みすず8月号受け取る。原日記が継続されているので驚く。此の日記も本格的に二年目に突入した。このまま大日記を目指すようである。参考にしているという竹内好の日記も長かったようだから、当然といえば当然である。またあれだけ酷い酷いと書かれてあった学生の授業態度が急に改善されたというので二度驚く。何だか不自然な記述である。
その後二人で東武線から半蔵門線へと乗って帰る。すると月波君が、電車の天井をしみじみ見ながら、今時に扇風機の付いている車両は珍しいと宣う。乗っていたのは東急の8500系という車両で、今では古参の部類に入るであろう。
路面電車玉電を地下化した部分は、新玉川線と言われ、昔は田園都市線とは区別されていた(列車運行は一体化されていたが)。玉川線が新しくなったから新・玉川線である。ぐるぐる回る扇風機を見ながら、地下区間では冷房が使えず、扇風機が頼りだった時代のことを思い出した。例えば田園都市線の上りの列車に乗ったとする。冷房は新玉川線に入る二子玉川を境に切られることとなる。但し冷房を切るタイミングというのも車掌によりまちまちで、気が利かない車掌は、二子玉川園駅辺りで早速切り、またその逆は多摩川の崖線に開いた新玉川線のトンネル口に飛び込む寸前まで冷房を作動させてくれたものである。尤も次の用賀までには車内は悉く暖まり、乗客はこぞって窓を開け始めることとなる。冷房の作動時間による車内温度の差は僅かであったことと思うが、そんな車掌のさじ加減を観察するというのも、電車に乗る楽しみの一つであった。地下区間でも冷房が使えるようになったのは、ほんの二十年前である。昼は暑かったが夜は涼風を感じる。冷房無しで就寝。確か今日は立秋である。


8/6・水
 今日も都内は三十六度程度。又珍しく広島は雨であった。午前出社。メトロを乗り継いで千寿に向かう。古い蕎麦屋で盛り蕎麦を食べてから千寿校に入る。今日から三日はこちらの講習である。中学生に理科と数学を教えた後、本務校に回航。ここでも数学を教えた。九時半退社。草臥れ果てて其のまま佐渡屋に。一時間ほど飲んでバスで帰宅す。今日も本当に暑かった。


8/5・火
 昨日以上の南風が吹き荒れ、朝からかんかんに晴れる。丸でアフリカのサバンナに居るよう。日中三十六度に達す。火曜不出社。何処にも外出できず。
 朝日新聞に二十年前の記事の訂正記事が出る。細かい訂正だが、そもそも従軍慰安婦の存在自体を修正するほどのものでも無し。枝葉末節を突かれて、滔滔訂正に追い込まれたというべきであろう。思えば二十年くらい前というのも、自国の誤りを直視しようとしたのだから、割と余裕があった時代であった。而し大体十五年ぐらい前から、社会経済とも段段余裕がなくなり、偏狭な考え方の人が増え始める。建艦論などが出てくるのも此の頃である。そうなると、90年代前半というのは、戦後精神が最後の最後に少しだけ拡張した時代であったというべきであろうか。またそういう時期に学生生活を送ることが出来たのは、吾人にとっても、望外の幸運でもあったと思う。それにしてもあの時代のあの出来事について書かれた文章を少しでも読めば、深く恐れ入らずにはいられない。吾人もいっそ女で生まれればよかったと思った程である。
 STAP細胞論文の共同執筆者だった理化学研究所の副センター長が亡くなる。此の人は、論文作りの名人だったそうで、何でも少し手を加えるだけで論文の説得力が何倍にもなったという。いっそ文科系に転身して仕舞えば、こういう悲劇は起こらなかっただろうと思った。


8/4・月
 ガザでの暴力の応酬止まらず。尤も一方が圧倒的な暴力を有しているから、応酬とは不適格な表現であろう。傷の手当に使われるガーゼの語源は、此のガザのことだという。ガザで作られた綿製品だから「ガーゼ」になったのだと、どこかの新聞で読んだ。つくづくもうガーゼが消費されない世界を望む。
 遠くの台風から南風が吹き付けられ、四国は大雨、関東は猛暑。今日から通常授業。午後出社。退社後は佐渡屋に。店長は文字通り佐渡に帰省中で、咲子さん母子が店番をしていた。


8/3・日
 数日来の大変な暑さとなる。朝のうちに一番近くの和菓子屋に水羊羹を買いに行く以外の外出は無し。


8/2・土
 件の佐世保の事件であるが、掛かりつけの精神科医は、このままでは大変な事件を起こすと両親に警告を出していたという。将来を見通すことが出来たのだから、藪ではなく目利きのお医者さんというべきであろう。而し折角の専門家の意見も、聞き入れるべき耳が詰まっていたら役に立たない。あと少し打つ手が早ければ防げたかもしれない。誠に残念である。
 土曜不出社。同じ世田谷の坪上君の家で勉強会をするというので、暑い最中自転車で出かける。他には月波君と鷺乃間君。結局先日の丸山特集を皆で見直すこととす。当然麦酒を大量に飲みながら。その後、御爺さん三人でやっている「吉田家」という近くの古い中華屋に行き、又部屋に戻って麦酒を飲んだ。こうも暑いと、麦酒を何リットル飲んでも、酔うという水準まで達しないから不思議である。十時前帰宅。十一時就寝。


8/1・金
 御昼に一旦出社。小六に国語を教えたのち千寿に回航す。再び品川に戻ったが、顔馴染みの御客は悉く掴まらず。立ち飲みBと中華に寄り、割と早目に自転車で帰宅す。本日で本務校の講習も終了す。今日も流石に暑かった。