15年6月

6/30・火
 万代伯母の見舞いに出掛けた老家人が、帰り掛け、而も拙宅の僅か三十メートル手前で動けなくなる。親切な通行人が電話で知らせてくれた。慌てて駆け付けると、泥酔者のように道端にへたりこみ、呂律が回っていない。すわ脳梗塞の再発かと思った。取り敢えず近所の施設から車椅子を貸して貰い、拙宅に緊急搬送す。水を飲ませ、風を当てて休ませたところ何とか回復す。暑さと空腹で腰が抜けて仕舞ったのだろう。
それにしても今朝は、一人で行くというから一人で出した。行きはタクシーに乗せたが、帰りは勿体ないからと勝手にバスを使い、下車後急に歩けなくなったのだという。老家人の体力が此れほど低下しているとは正直思わなかった。管理者としては少少迂闊であったし、本人もそれなりにショックだったと思う。つくづく年を取るというのも予測不能事態の連続である。また今日の今日は色色な人に助けて頂いた。此の御恩は他の年寄りに親切にすることで返したいと思う。
東海道新幹線車内で焼身自殺。巻き添え死も出た模様。電車やバスでこういうことをされると本当に適わない。また大涌谷は小噴火す。今年前半の晦日だが、家の内外ともに災難続きである。一部陽が差したが、基本的には涼しい一日であった。


6/29・月
 滔滔ギリシャ財政破綻す。人人は御金を引き出そうと、銀行に長蛇の列を作ったとのこと。こうならない為に、もう少し何か方法は無かったのだろうか。危機は突然起きた訳ではない。それにしても国の仕組みが一旦亡びると、結局国民が迷惑する。若年層の失業率は五割近くだという。働くことが出来なければ当然借金も返せまい。
午後出社。今月は嫌な月曜が五回もある。退社後はラーメン屋にさっと寄って、直ぐに帰った。ほぼ休肝


6/28・日
 午前中は胃痛。午後から少し草木を刈る。夕方から寒気が入ったらしく涼しくなる。月波君来たる。地元の世田谷で読書会の反省会。鳥屋と蕎麦屋に行った。しかし数日来の牛飲が祟り幾らも飲めず。這う這うの体で帰宅。


6/27・土
 断食月だというのに、フランス、チュニジアクウェートでテロが相次ぐ。返す返すも、此の破滅的事態を米国国民はどう考えているのだろう。
 午前中は小糠雨が残った。パン屋におやつを買いに行ったついでに、公園横の古本屋を覗く。此の店は週に三回程度しか開かない。『塩の道』『清沢冽』『内田百輭と私』を購入。九百円。
ところで、真ん中の本の著者は、件の首相談話の作成にも関わっている。談話作成に際して、一応首相好みの人選をした筈なのだが、出で来る談話案は首相好みでは無さそう。Aは腹を立てているらしく、今年の談話公開は見送りになりそうとのこと。こうして見ると、ほんの少しでも真面な知性がある人で、首相にそぐわしい人は皆無である。首相の周りに集うのは、結局作家Hに代表されるような脳足りんプラス凶悪で、謂わばごろつきのような人ばかりであると思った。


6/26・金
 午前中は寝たり起きたり。此の処、不眠だか過眠だかよくわからない。鬱状態ではあるが、直ぐに腹も立つ。それらの原因は、大貧学院だけでなく、最近の政治状況にも因るのだと思った。従って国会中継もやっていたが、Aの顔も見たくないので余り見なかった。
 午後から雨。久久のバス出社。中華立ち飲みに行ったが、大半の人とはすれ違う。最終バスで帰宅。環七のS屋でラーメンを食べ、雨が結構酷いので、再び最終バスを頼って帰った。


6/25・木
 日中蒸し暑い。午後千寿に出社。退社後は先週入れなかった饂飩屋に入った。やめろやめろというのに、新国立競技場は当初のデザインに決着す。竜骨を引っくり返したような、例のあれである。法外な見積もり書は2520億円。果たしてその金額で収まるかどうかも定かではない。


6/24・水
 午後出社。出社するなり無責任社長が指図して来たので、そういうことは給料を支払ってからにしろと怒鳴ってやった。以後すっかり機嫌が悪くなり、煩い生徒には大半の大人は悉く絶望しているから、余り怒らせないようにしろと説教す。実際、飲み屋街や駅構内などでも、肩が触れた触れないで罵り合っている人をよく見かける。絶望している大人が如何に多いか、想像に難くない。
退社後は中華立ち飲みへ。それでも腹が横にならないから、更に博多ラーメン屋に寄り、替え玉まで注文してから帰った。


6/23・火
 久久に予定無しの日。日記をしたため、色色と本を読み返す。今日は沖縄忌。知事には激励が、首相の演説には怒号が飛んでいた。またビールでも注文しなくてはならないと思った。寒気が入り、夜に一雨あった。今夏も天候不順な感じである。


6/22・月
 結局かなりの宿酔となり、午前中は完全運休。午後ぼんやりと出社。しかし何だか頭がくらくらして、基本的な方陣算が巧く説明が出来ない。吾人も、他人の頭の悪さをくどくどと指摘できないと思った。
退社後は急いで中華立ち飲みへ。併し鶴木さんや須々木さんといった常識人には、あっという間に先に帰られる。以後、一段と話の詰まらない井満さんと置き去りにされる。適当にお話しして吾人も退散した。
そう言えば井満さんは、体の方は癒えたものの勤労意欲を失い、五十前にしてとうとう福祉受給者である。一旦失職すると再起動が出来ない年齢であるし、まして単身者なら動く気力も湧かないのだろう。こうした労働からの撤退は少なくないと思われる。吾人も気を付けなければならないと思った。それにしても何だか人と話すのも疲れる。碑文谷の一番館に寄り、カレーを辛くしてから本当に帰った。此処数日、割と草臥れた。


6/21・日
 一日雨が降ったり止んだり。夕方、市ヶ谷に向かう。恒例の読書会である。参加者は月波君と坪上君に轍田さん。其れに今回は芥田先生も来られた。以後、二週前に行った居酒屋の個室に陣取り、月波君が持ってきた昔の通信教育部の教科書『政治学概論』の「戦後世相解説」を読む。先生によると此れは早世した溝口潔氏による文章とのこと。最近の政治学者にはない講談的名文調で、非常に面白いと喜んでいられた。
其の後は、『丸山真男集別集第二巻』の「戦争責任をめぐって」を読む。此方は58年の文章で、丁度丸山先生がスランプに陥っていた時とのこと。スランプの原因は二つあり、一つは大衆天皇制に見られるように、天皇制の持つ呪術的な側面が後退して来たこと、また方法論としてのマルクス主義が急速に衰えて来たことを挙げられていた。謂わば此の二つの敵失により戦う相手を失ってしまったから、スランプになったとのことである。其の後、丸山先生は、神話の世界にまで分け入って古層論に至る。
 その他にも、㊀丸山先生は田舎に住んだことが無いから、農村共同体がわからないこと、㊁松圭先生は大衆化した都市と昔ながらの農村の狭間に育ったから、シビルミニマムの思想に行き着いたこと、㊂政治学の論文は未定の未来ことを扱うのだから、法律学歴史学のような詰まらない文章では宜しくない等等のまとめに至った。
また吾人の問題提起としては、㊀渡辺京二氏の「基層民論」は、「天皇制国家の支配原理」を、農村共同体という日本社会の底辺から見ていること、㊁高度成長反対という藤田省三流ペシミズムは、経済が本当にゼロ成長の定常状態になって仕舞うと、何だかリアリティーを失って仕舞ったことの二点を挙げた。
三時間ほど飲んだのち、偶偶開いていた洋風居酒屋に移り、更に本格的な「駄弁り」に移る。先生もますますお元気で、まるで現役時代に戻ったような気がした。何はともあれ、始終頭の悪い人人の大洋の中で一人漂流している吾人としては佳い刺激になった。先生も山陰の大学の方も辞められたので、此れからはこういう機会も増えるとよいと思った。終電の二本前で帰宅す。


6/20・土
 今日も概ね涼しい。無責任社長が帰省したため、土曜臨時出社。といっても担当授業は無く、定期試験前の中学生の質問に適当に答えるのみ。女子中学生に日本の近代史を色色と語り聞かせた。それにしても明治期以後の此の国は如何に戦争だらけだったか、説明しているだけで腹が立って来る。そしてそれを良しと宣う人人が未だにいることに対しても。退社後は立ち飲みBとバーIに少しずつ顔を出して早く帰った。


6/19・金
 TPPは当のアメリカ国内でも評判が悪いようである。自動車を色色と輸出されても、結局国内の雇用が奪われるとの抗議がある。一方アメリカが狙っているのは、日本の医療市場らしい。しかし超巨大製薬企業と生命保険会社に苦しめられているのも当のアメリカ国民である。こうなると両国民との間で何かしら連帯の機運が生まれても、可笑しなことではないと思った。
 東風が入り大変涼しい。所謂梅雨寒である。午後出社。退社後は中華立ち飲みで、ミニ金曜会。其の後バーIに顔を出したが、酔客の輪には入れず早目の帰宅。


6/18・木
 誰が何の目的でそうしたのか分からないが、公職選挙法が改正されて、選挙権が18歳に引き下げられた。大学生すら政治的関心の欠片すら抱かないというのに、高校三年生まで投票可能にしたところで、大した意味がある訳でもなし。折りしも、国立大学は税金を使っているのだから、国旗と国歌を敬うようにとの通達が文部省から出されたという。つまり投票権をやるから、国に感謝しろと言うことなのだろう。本末転倒も甚だしい。其の内、国道を歩くときは、国歌を斉唱せよとでも言い出すかもしれない。余り恩着せがましいことを言うと、国民はうんざりして、愈愈逃散して仕舞うと思った。
 午後から所によって雨。千寿に出社。こちらの中学生も試験前である。平方根を無理やり叩き込んでも、簡単な通分が出来ないから、結局大した点が取れない。中三から塾に来られても既に手遅れである。十時近くまで指導したので、入りたかった饂飩屋は閉店時刻。五百円の鰻丼を食べて帰った。


6/17・水
 昨夜から寒気が入り不安定なお天気。午後出社。授業に関しての苦情が次次と寄せられる。第一に元元の頭が悪いし、第二に生活態度も良くないとなれば、成績など上がるわけがない。せめてどちらか一つにして欲しいと思った。それにしても、余りに理不尽なことを言われては、学校の先生も塾の先生も可哀想である。待遇も悪いから、いずれ篤志家以外成り手が居なくなるだろうと思った。
退社後は佐渡屋に入る。雨だから久久にすいていた。むしゃくしゃしていたので、鶴木さんのウイスキーを牛飲して帰る。


6/16・火
 浅間山が小噴火。そういえば天明の大飢饉の遠因は浅間山の大噴火である。特に過度に稲作に傾注した津軽藩の被害は大変なものであったという。一昨日購入した本にも、凄まじい内容が書かれてあった。
朝から銀行に行き税金を支払う。大小様様な振込用紙を持参す。結構な金額であるが、窓口氏は何も言わずに淡淡と処理す。振込先について尋ねられれば、「国家的な振り込め詐欺グループですよ」と応える準備が出来ていただけに少し残念であった。以後まあまあ涼しいので少し草取り。何だか草臥れて仕舞い、午後は昏昏と居眠りした。このところ鬱状態だから、過眠傾向である。
 韓国ではラクダのウイルスが人にうつり大騒動に至る。特に観光業が大打撃だという。客商売は浮沈が激しいから、安定した稼ぎを得られないのが難点である。円安とデフレで日本ほど物価の安い国は無いなどと褒められているようだが、デフレはともかく円安は何時まで続くか分からない。


6/15・月
 割と晴れたので相当蒸し暑くなる。午後出社。暑さのせいか低学年は一層煩い。其の上、何人もの生徒から遅れた授業料を現金で納付される。領収書を書いたり、近くのコンビニに詰まらないものを買いに出掛けておつりを作った。その都度授業は中断するので、益益煩くなる。段取りが何もかも悪い。ついつい怒鳴り散らした。
退社後は少しは話しの通じる真面な大人と話したくなり、中華立ち飲みで帰宅間際の鶴木さんと須々木さんを掴まえる。其の後は碑文谷の「王将」で大人しく食べて帰った。


6/14・日
 朝方まで小雨。久久にバスの一日券で古本屋巡りに出た。まず自由が丘へ、其の後は蒲田へ。蒲田の西口は久久に来たが、注文すると直ぐに出て来るカツカレーで有名な店は既に無く、新しい大学が宮殿のように建っていて吃驚す。そんななか、昔からある「つけ麺大王」で、昔気質の付け麵を食べた。更に大森までバスで出て、環七経由で戻る。収穫は『菅江真澄遊覧記』のみ。夕方から草取りと低木の剪定。日が落ちると随分涼しい。飲酒前に入浴し、久久によく体を洗った。


6/13・土
 コンビニSが青森県に初出店し、県民は大行列で出迎えたという。つくづく日本人はコンビニエンスストアが大好きなのだと思った。何時でも何処でもそれなりの物がすぐに買えるというのは便利なことだが、こういうことに慣れて仕舞うと、ますます堪え性が無くなる。
 一日蒸し暑く、草取り不能。午後は昨夜の映画の続きを見た。主人公は恋人に手を縛られることによって父親譲りの暴力を封印される。血脈から自由になる可能性を見せて終わる辺り、多少は救いがある話しとなっていると思った。
 昼は隣町の弁当、夜は国道の向こうの商店街に天麩羅を買いに行き、蕎麦を茹でて一緒に食べた。ところで折角眼が見えるようになったらなったで、結局老家人は不機嫌のまま。年寄りの面倒など、つくづく難しい。


6/12・金
 役に立つことを教えていないと、最近は法学部や文学部など、文科系の所謂一文字学部は評判が悪いようである。法学部で役に立たない本ばかり読んできた身としては肩身が狭い。それにしても、社会に出てからの生産性の多寡で学問の価値を判断されるなど、何だか最早戦時体制下のようである。米国流の実学重視=反知性主義も、行く着くところまで来てしまった感がある。
 術後一週間ということで、老家人は診察へ参る。経過も良好とのこと。眼が良く見えるようになって気づいたことを問えば、吾人の白髪が随分増えたと応えた。余計なものばかり見えて仕舞っていると思った。
午後出社。金伍萬円受け取る。退社後は中華立ち飲みで久久に鶴木さんと大将と少し会った。割と早目に帰ったので、録り溜めてあった映画『共喰い』を見る。閉塞した地方都市、飽くことの無い暴力的な性行為、濃厚な夏の緑・・・、観ていて頭がくらくらして来たので、半分程度で御仕舞にして就寝した。


6/11・木
 どういう訳だかかなりの宿酔となり、七転八倒とまでは行かないが、午前中は二転三倒する。バーIはろくなつまみが無く、麦焼酎ばかり煽っていたからだと思った。
 絶食したまま千寿に出校。四時を回る頃に漸くつけ麺を食べる。諸物価高騰中で最も基本的な物でも790円もした。退社後はとんかつチェーン店かつ丼を食べる。かつ丼が約500円だから、随分安いし綺麗に作ってある。併しこういうところの物は、所謂旨くも無く不味くも無く、中庸というより凡庸な味付けと盛り付けであり、かつ丼を食らっているという満足感が丸でしない。敢えて言えば機内食のようなものである。当然エコノミークラスの。麦酒三缶のみ。ほぼ休肝日とした。


6/10・水
 朝は晴れていたが午後は雲が出て比較的涼しい。午後出社。早く給料を支払うよう談判す。退社後は中華立ち飲みにとバーIに軽く寄って帰った。


6/9・火
 雨は午前中には上がった。以後涼しい曇り空。細かくして敷き詰めた畳表では草の威力に対して誠に無力だったので、結局防草シートを取り寄せた。早速草を刈り、シートを念入りに大地に押し付ける。それでも僅かな隙間から生えて来るから、草というものは恐ろしい。こうなると植物という海原に、拙宅を始め種種の人工物が、辛うじて浮いているように錯覚する。掻き出す作業を怠れば、即廃墟廃屋である。そう思って日本地図を繁繁と見直すと、日本列島も同じだと思った。四方を海に囲まれ、数数のプレート境目で辛うじて立っている。全く以ていつ沈没しても可笑しくない。
 晩酌の締めとして、半年ぶりに発売が再開された「ペヤングソースやきそば」を食べた。四角い容器は其のままだが、ふたが無くなり、湯切りの方法が大手食品会社でも採用している一般的な形になっている。中身は変わらないのだろうが、調理にある種の慣れが必要だった旧容器に比べ、何だか味気が無くなったと思った。


6/8・月
 幾つかの学習塾チェーンが、賃金不払いなどでアルバイトの学生から訴えられている。最近は「ブラックアルバイト」などという言葉もあるそうで、此れで少しは労働環境も改まれば佳いと思った。
 それにしても、サービス業全般が儲からなくなって久しいから、学習塾もハンバーガー屋も牛丼屋もコンビニもディスカウント店も、概ね大半がブラック企業である。給料が低いから、従業員はどんどん逃散して仕舞う。塾の先生が居なくなって仕舞っては、勉強嫌いの子どもは却って喜ぶかもしれないが、勉強が分からなくなって結局困るのは子どもたち当人である。何はともあれ学習塾業界のサービス残業など、今まで至極当たり前だったものが、改めて社会問題にされるあたり、少しは景気が良くなってきたことの裏返しなのかもしれないと思った。
 昨夜は十時には就寝した筈だか、十二時間近く寝床に居ても何だか眠い。寝ても寝ても起きたくないのは、軽い鬱状態かもしれないと思った。いい加減、吾人も草臥れた。早早に退職したいものである。午後、給料を払わない、払えない、払おうともしないそんな大貧学院へ出社。ラーメン屋に一人で軽く寄り、少し濡れて帰った。そして関東も入梅


6/7・日
朝から晴れたが比較的涼しい。月波君と飯田橋で待ち合わせ、昼酒を飲むことにした。警察病院があった辺りが、超高層マンション群に建て替わっており、例によって吃驚す。飯田橋の南側は丸で変わって仕舞った。
まず「えぞ松」の新店で回鍋肉をつまみに麦酒三本を飲み干す。其の後は神楽坂へ思い出探しに歩く。「まつや」の跡は、次の店が決まったようで現在改装工事中。サークルの先輩と深夜まで飲んだ「ブロンクス」は健在。「五十番」の肉まんは370円に値上がり。
坂を登り切り、左折を繰り返して市ヶ谷方面に戻る。62年館は「田町校舎」に名を変え綺麗になっている。此処の学生食堂は本校舎とは経営が別で、御飯が炊き立てで旨かったなどと月波君と話しした。角の弁当屋と「酒当番」という居酒屋も残っている。
センチメンタル何とやらは続き、序に駿台予備校の市ヶ谷校舎も覗いてみた。高三の時に模擬試験や夏期講習などを受けた思い出がある。エスカレーターの位置も変わらず。だいぶ木が鬱蒼とした感じになっている。靖国通りに面した「富士そば」も昔の場所のまま。外堀の橋を渡るとJRの市ヶ谷駅。此処も変わらず。休日の市ヶ谷は静かな佇まい。
併し芥田先生と飲み歩いた、「キリンシティー」「だるま」「プシュケ」「駒忠」はもうない。「ニュー浅草」は変わらないが日曜は休みのよう。其の後、「福助」があった筈のビルの地下で飲み直した。今は高級そうなチェーン居酒屋になっている。
大学には長くいたので、二十年とまでは行かないが、完全に卒業して十六七年も経つと、馴染みの店も数えるほどである。それに大学も学生生活も相当変わって仕舞ったのだと思う。そんな嘆きが、受け取った原日記の三月号にも書いてあった。二年続いた此の日記も愈愈終了とのこと。それにしても日本社会は一体どういう方向に向かっているのだろう。此の二十年の来し方を思い出すと、眩暈にも似た暗澹たる気持ちになる。
散散飲んだが、最後の締めとして「ラーメンかわかみ」へ参る。さやえんどうが三つ添えられたあっさり味のラーメンは昔のままであった。月波君と別れメトロで帰る。永田町駅構内の店でクリームパンを三つ買い、家人への土産とした。


6/6・土
誰が何の目的でそうしたのか知らないが、年金機構のコンピューターが狙われて、数百万人分の個人情報が流出したという。事態が公になるや否や、機構側には苦情の電話が何万件も掛って来たそうである。兎に角、他人のあらを探して散散文句を垂れるのが美徳だなどという世の中だから、電話応対なども大変そうである。それにしても、情報が多少流出したところで、受け取る年金が実際に減るわけでは無し。どうにも個人情報に関しては、過剰反応の過剰防衛であると思った。これも「個人情報保護法」の副作用である。
雨は未明には上がる。午前中に病院に出向き、退院手続きを行う。二泊三日の手術付きで19万余り。そのうち半分強は個室寝台料金であった。術後の経過も良好とのことで、老家人は万事くっきりと映ると驚いていた。此処は近代医学に感謝すべきである。家人も少し落ち着いてくれた。やはり手術や入院で、結局舞い上がっていたのは、当事者の老家人より家人の方である。
 寒気が入り、朝晩は此の処涼しい。夜は退院祝いと称して寿司を食べた。と言っても、出入りの寿司屋がある訳では無し。買って来た「ちよだ鮨」を、お皿に並べ直しただけのことである。


6/5・金
 衆議院憲法審査会にお呼ばれした憲法学者は、与党野党推薦を問わず異口同音に、集団的自衛権違憲であると宣ったそうである。そもそも合憲と言う学者自体、日本に数人も居ないとのこと。つい与党側も探し切れなかったのだろう。その他気づいたことは、審査会に三田の改憲派の有名教授が野党推薦で出ていたこと。首相Aに相当腹を立てているのだろうと思った。まあ官邸はそんな意見には馬耳東風なのであろうが。正しく憲法99条違反である。
 老家人は朝一番で左目の白内障の手術。ちなみに正式には、「左眼水晶体の再建手術」と言うらしい。大した手術ではないのだろうが、見に行ったところ、既に這う這うの体である。右目は元元悪い上に、黄斑変性症なので視力は極めて低いとのこと。比較的良い方の目を眼帯で塞がれてしまえば、謂わばにわか視覚障害の状態である。以後殆ど手探りで、食事に就寝となる。金曜不出社にした。家人は夕方まで病室に詰め、代わりに吾人が自宅に待機していたが、幸い何事も無く過ぎ去った。日没前後から割と大雨。晩食は冷凍食品類。


6/4・木
 世の中には「空飛ぶ車が欲しかったのに、代わりに手に入ったものは140文字」などという有名なつぶやきがあるそうで、此れは情報通信の分野は大飛躍したが、物を物理的に移動させる仕事の方は、なかなか難しいということを物語っている。別に車に空を飛べとまで言わないが、此の二十年で自動車が変わったことと言えば、ハイブリッドエンジンなどの駆動系は別にすると、エアバックとカーナビとETCが付いたぐらいであろう。吾人などつくづく車庫入れ自動化車が欲しいと思っていたが、未だに実現していない。
尤も今まで相当渋滞していたものだから、その分伸びしろがあるというもので、最近は色色と猛勉強しているそうである。運転手のお株を奪う自動運転車を作られると雇用面で不安があるが、衝突防止装置と居眠り及び酔っ払い及び危険運転阻止装置ぐらいは既に実現していても可笑しくない技術である。そこで、「まだこんな古い車に乗っているのですか。いつか(ブレーキとアクセルを間違えて)コンビニに突っ込みますよ」と営業を掛ければ、心配症の日本人のことだから、少しは新車も売れるだろう。
両家人は午前中から勢い込んで大学病院へ参る。老家人の目の手術は金曜日だが、何分高齢なので、前日から病院に泊まり込むこととなった。入院といったところで、丸ですることも無し。吾人も千寿に行く途中に寄り道して、両人を激励す。老家人の入院は三年ぶり二度目だが、やはり何だか落ち着かず。「大江戸」にさっと寄って帰った。


6/3・水
 午前中は結構な雨。御昼前には止んだ。長江で客船が転覆。大変な犠牲者が出た模様。その多くは高齢の観光客だという。安全な旅行だと思って年老いた父母を送り出した家族の焦燥は、何だか身につまされる。
 午後出社。久久にバーIへ。テレビ番組で紹介されたのに、御客の入りはさっぱりだと店主は言う。今時のテレビの影響力など、そんな程度だよと宥めておいた。御金が足りないので長居はせず、家でカップ麺を食べて節約す。


6/2・火
 老家人は愈愈今週末に目の手術を控えている。安静にしたいというので、吾人が万代伯母の様子を見に行く。伯母は多少痩せたが、概して元気そうであった。見て直ぐに帰るのも何なので、伯母と適当に話す。意味のある会話はもう出来ない。真面目に話すと草臥れるので、吾人はスマートフォンを弄りながらお話しした。何はともあれ、言葉を交わすことは大事である。だらだらと一時間半も居た。 
其の後、腹が減ったので適当な中華屋に入る。前客は中年会社員が一人。定食とノートパソコンを広げていた。すると店主は、食後にパソコンをやらないで欲しいと注意している。御客はまだ食べている最中だから、随分と気の早い注意喚起だと思った。何だか偏屈な店主である。
そう思って店内を見回すと、至る所に張り紙がしてある。一つ飲食物を持ち込むなだとか、二つテーブル席の利用は三名以上にしろだとか、三つ一品料理を二人以上で摘まむなだとか・・・、客に対して一一苦言を呈している。正しく注文の多い何とやらである。
腹を立てたのか、件の男性は品物を半分も残して帰って仕舞った。恐らくもう二度と来ないだろう。すると今度は店主に対して店主の細君が意見している。店主はまるで聞き入れない。それにしても、「東秀」や「王将」などより高いお金を支払って、大して旨くもない料理を食べ、何だか知らない内に怒られたのでは、お客も浮かばれない。恐らく細君もであろう。店主の腕前は勿論、根性も叩き直さなくてはならないと思った。炒飯と半ラーメンで九百円。吾人も怒られたくないから、黙黙と食べて直ぐに店を出た。
少し運動しようと思い、小田急の高架下を延延と歩き、経堂の古本屋に入る。『皇后考』を入手。更に宮の坂まで歩き、世田谷線で帰った。家に着いたら三時である。胃も口も塩辛い。甘いサイダーを二本も飲み干した。チャイニーズレストラン・ショック・シンドロームである。


6/1・月
 今日も暑い。午後出社。退社後は中華立ち飲みに軽く寄った。今日から六月。また幾つかの物品が値上がりす。たまたまケチャップとソースの値上げが発表されていた。何れも二十数年ぶりの価格改定であるという。二十年も値上げをしなかったこと自体、それも異常な話しだが、物の値段がひりひり上がるというのは、若い人にはまるで経験したことの無い事態であろう。そういえば、先ほど立って食べた「柏屋」も、とろろそばが450円、コロッケカレーが520円もしていた。
値が上がった分が、どうにかこうにか国内に循環すればよいが、大方は海外に流出するのであろう。此れで石油の値段が戻り始めたら、国民生活は愈愈アウトである。もっとも、アベノミクスが漸く破綻して頂けるのならば、それはそれで結構なお話であると思った。