15年9月

9/30・水
 今年前期の動きから。花屋はワインバーに、鞄屋は立ちステーキ屋になり、大きな八百屋はコンビニに変わる。チェーン本屋はレンタルビデオ屋に鞍替え。これで地元の本屋らしい本屋は全て消滅した。
 安保の次は経済成長だとばかりに、首相AはGDPを600兆にすると言っていた。現状維持すら至難の業なのだから、正しく痴人の夢に他ならぬ。それにしても何とかミクスもいよいよ本当に御仕舞である。そもそもが間違っていたのだから、そもそも期待している方が可笑しい。だから怒らないから、此処は素直に撤回すべきである。そして綺麗さっぱりお辞めになって頂きたいものである。
 朝方は激しいくしゃみと鼻水。序に咳も出る。空気が乾燥して来たからだと思った。たまらず抗ヒスタミン。すると眠くなり昏昏と二度寝と三度寝。午後出社。金伍萬円受け取る。立ち飲みBに寄って帰った。


9/29・火 
 結局意見書に関しては、お医者さんが作った相当過激なものと、吾人が拵えた穏健なものの二通を出す。それにしてもお医者さんは相当のめり込んでいる模様。運動をするにもまるで余裕がない。区と街の誤り正すのではなく、人人の病を治すなどしてもっと本業に回帰して欲しいと思った。
 楓を切って揃えていると緑色の小さい毛虫に刺される。ネットで調べるとイラガの幼虫らしい。そんな悪質ではないが結構痛い。以後何だか草臥れて仕舞い昏昏と午睡す。催眠効果があるのかもしれないと思った。漸く起き出して、夕餉の買い物に近所のスーパーに参る。それにしても此の店の刺身コーナーは、何時行っても、養殖の真鯛と鰤に、解凍した鰹の土佐造りしか置いていない。毎日毎日同じものを並べていて良く飽きないものだと呆れて帰った。季節の変化を取り入れるべき流通業と、安全安定が求められる運輸業を取り違えている店だと思った。


9/28・月
 午後出社。武藤女史、平政君とも復帰し、漸く月曜日の授業が正常化す。実に三か月ぶりである。これで多少楽が出来ると思った。退社後は立ち飲みBへ。併し店の大型化に伴いメニューも調理も画一化されて来て、何を注文しようかという面白さも半減す。碑文谷でカレーを立って食べて帰った。
 男女間、家族間での殺人事件多し。みな相当いらいらしているのだろう。そういう場合は、猫でも飼えばいいと思った。大体、人というものは、人語を解さぬ人に対して腹を立てるのであるから、腹を立てたときは人との交際を絶ち、猫の世界に入れて貰えればよい。


9/27・日
 曇り勝ち。終日、木を切っては休憩するを繰り返す。ところで芸能人も次次とあの病気に罹るよう。生活習慣病とは異なり、半年かそこらであっという間に進行するからその病気はつくづく恐ろしい。吾人に照らし合わせ、半年や一年前はどうしていたかしらと思い返すと益益恐ろしい。
 区に提出する意見書をお医者さんに見せたところ、もっと激しく書かなくてはならないと助言される。今更謂われても困ったものだと思った。夜は宅配ピザ。半額セールと云う事で、届くまで一時間も掛かる。


9/26・土
 強面の中国主席はアメリカを訪問。それなりに歓迎されたよう。それにしても、もう少し日中友好が進めば、「日本を取り巻く安全保障の環境」とやらも「好転」するのだろうが。其の為には、少なくとも満州事変以降の日本の政策は誤りだったと謝罪すればよい。そして南京辺りできちんとこうべを垂れれば、日中関係は劇的に「回復」するはずである。大半の日本人民が侵略の意図を持っていないことは、中国からの大勢の観光客が身をもって体感しているだろうし。一日曇りがち。腹と鼻が不調。伊那の松茸御飯だったが少飲少食に努める。


9/25・金
 朝方は大雨。午後も冷たい小雨。久久に本務校に出校。雑用が目白押し。今月は二人入会し、一人辞めた。何も喋らない女の子だったからどうにもならず。小六の終わりに来たから一年持たなかったことになる。またあちこちの塾を渡り歩くのだろう。大貧学院のような小さい教場でも、喋らないのではなく、喋れないのだとすれば、此の先の長い人生が心配である。
退社後は立ち飲みBに行く。鶴木さんは居るには居た。併しこういう酒場にも、本当に下らない自慢話しかしない、他人を不愉快にさせる天才のような人もかなり居て、特に今晩はしつこく絡まれる。厄日である。詰まらない顔をして早目に帰える。箱根と小田原で御金が大量遭難したから丁度よかった。


9/24・木
 午前中は寝た切り状態。夕方から小雨。千寿校に出社。割とまともな生徒は授業を欠席。そこで少し時間があいたので、今後の指導方針について責任者と話したかったが、「がんがんやればいいのです」と鮸膠も無い御返答。人の顔を被っていながら人語が通じないのは、大人も子供も同様である。特に昨日までの談論風発、高論卓説との落差が激しいから、吾人は大都会に居ながら、まるで無人島に放り込まれたようだと悉く絶望に至る。 
 退社後「福心」で詰まらない顔をして炒飯を食べていると、今年の三月まで教えていたS君と出合う。少し恰好をつけようと、餃子を二枚ほど吾人の伝票で注文す。するとその友人も含めて、案外丁寧に礼を述べられる。少し気を戻してから帰った。禍福は何とやらである。併し食べ盛りの高校生六人に餃子が12個では少し足りなかったなと思い返した。
今夜はほぼノンアルコールにして、区に提出する意見書を作り、合宿講義の内容を思い出しながらノートに纏めた。夜明け近くまで頑張る。


9/23・水 
 朝食を囲みながら早速モーニングビール。相変わらずのアルコールゼミナールである。併しこうやって夜中まで本を読み、朝からお酒を飲む点では、学生の頃と何も変わっていない。ただ既に実に十数年もの歳月が過ぎて仕舞ったのである。その事実に何だか頭がくらくらす。そこで「紅顔の美少年もこうなりました」と先生に申し上げると、「でも白骨になるにはまだまだだよ」と慰められる次第である。また宿については「(学生時代に泊まったような)民宿よりだいぶいいね」と御褒めの言葉を頂いた。貧乏貧乏とは言いつつも、所得は若干上昇しているから、一泊二食で11000円である。
宿は十時退出なので、仕方なく箱根湯本の喫茶店でゼミナールを再開す。ここでは、続いて「北一輝問題」を講読。また鷺乃間君は途中帰京。二時間ほど頑張り二十ページほど読み進めたがどうにも終わらないので、続きは次回へ持ち越すこととす。矢張り一泊では済まない感じ。
 それにしても大型連休最終日とあって大変な人の出。噴火の影響も収まったよう。殊に関東人の旅行は、箱根に始まり箱根に終わるというから、生まれたばかりの赤ん坊から、体の悪くなった年寄りまでごった返している。人波を掻き分けながら小田原に出た。此のまま芥田先生は博士論文の審査のため島根の大学に向かうことに。大急ぎでもり蕎麦と蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを召し上がり、13時過ぎの新幹線に乗られる。新幹線改札口までお見送りした。「こだま」→「ひかり」→「さくら」→高速バスで七時間も掛かる長旅である。
漸く肩の荷が下りた感じとなった。残った面子で小田原城の公園でぐだぐだと世間話をしながら、余ったお酒を飲む。更に「だるま食堂」で地魚の刺身と天麩羅と太巻き寿司を食べる。流石に平目や金目は旨い。みんな最後までよくよく付き合ってくれたということで、此処の支払いは吾人がさっと済ませた。
ぶらぶらと駅まで歩き結局六時半の特急に乗る。六両編成だから満席に近い盛況ぶり。鶴岡君は町田で下車。八時前新宿着。其のまま解散す。一泊旅行だがその数倍は草臥れた。九時就寝。


9/22・火
 敬老の日秋分の日に挟まれた国民の休日。凡そ十年ぶりに芥田先生と旅行に行くことになった。まず新宿に参る。13時過ぎの特急ロマンスカーに乗車。参加者は、月波君、轍田さん、鷺乃間君、鶴岡君の六名。鷺乃間君は後から来るとして、総勢五名で乗り込む。
 三時過ぎに大平台のY荘という旅館に到着。早速、ビールを飲みながら、月波君の時事問題の報告からゼミナールを開始。併し安保問題となると結局丸山真男先生だから、55年前の五月の段階と何ら政治状況は変わっていないと痛感す。
夕食と入浴を挟んで、吾人がちくま学芸文庫の『渡辺京二コレクションⅠ・史論』から「基層民と戦争」について報告す。四十年も前に書かれた文章だが、天皇制国家の支配原理を、基層生活民という下からの視点で分析している。以後まとめ。
㊀農村共同体という、都市生活者であった丸山さんが一番苦手な分野から日本社会を分析している。㊁またそういう共同体も高度成長期には丸ごと消滅したとのこと。㊂そこで藤田さんは天皇制国家の次は、天皇制社会の分析に移ろうとして、藤田流の大衆社会論即ち「全体主義の時代経験」に至ったとのことである。
ぎっしりと字が詰まった二十ページを読み切るのに三時間以上も掛かった。午前一時過ぎに寝る。


9/21・月
 第三月曜日は敬老の日と云う事で、万代伯母のところに久久に参る。痩せた頬は其のままだったが、顔色もよく、新任の介護職員に流動食を次次と口に放り込まれていたから、食欲もまあまああるのだろう。
八十代以上は一千万人に達したのだという。年寄りは珍しくなくなり、体と頭が弱く成ったら介護サービスを受けるのが当たり前となった。そうとなると、敬老の日も「介護者と社会保障制度(に感謝するため)の日」に改めなくてはならないと思った。それに此の国の人口比率と財政状況を鑑みると、老人福祉の類は、現在が概ね最高峰にいる感じで今後は漸減せざるを得ないであろう。戦中戦後は苦労したとは思うが、万代伯母もいい時代に年を取ったものだと思う。例によって昼食後は眠くなる。寝かしつけてから退出す。「せい家」で500円の付け麵を食べて自転車で帰った。


9/20・日
 一日晴天。こうなると、寝るか木を切るかのどちらか。結局交互に過ごす。アレルギー酷し。昼から抗ヒスタミン。合間に「昭和天皇実録を読む」を読む。七号室は適度に住み始めたようである。


9/19・土
 疲れてうとうとしている内に参議院で可決。アメリカ戦争協力法が成立す。デモの次は選挙と云う事になるのだろうが、誠に残念なことだが、「賛成議員を落選させよ」という運動が殆ど実を結ばないということも、過去の歴史が証明している。つくづく日本人は本当に自民党が大好きなのである。それにしても此れからはアメリカの要求を断れなくなる。国民がそう気づいた頃は、既に手遅れである。
腹が立つほどケロっと朝から晴れた。一般的には今日から五連休である。猫背でずっと座っていたから背中が痛い。一日休養したかったが、夕方はお医者さんに呼ばれて、都市計画の作戦会議。区に意見書を出すこととなる。吾人の政治の季節はまだまだ続きそう。


9/18・金
 再び国会前に参る。午後二時過ぎから左岸の生垣に座り込むこととす。既成のプラカードでは面白くないので、百円で買ったスケッチブックにマジックで「アメリカ戦争協力法・反対」と大書す。以後小雨を挟みながら四時間。「市民としての義務を果たす」と言うことで職場に行くことも断念す。
暗くなる頃に月波君が来て、更に二時間。九時近くまで只管座り込む。明るい内は高齢者が多かったが、陽が暮れると勤め人の姿が増え、歩道はいっぱいとなる。運動の盛り上がりを感じる。
 いい加減に草臥れて来たので、後を託してメトロで四谷に移動。適当な中華料理屋に入る。此の間、トイレの問題もあり、殆ど飲まず食わずだった。麦酒にチューハイにホッピーセット、「なか」の焼酎多数に、唐揚げ、春巻き、きゅうりの漬物、広東麺等等を貪る。一種のやけ食いとやけ酒である。二人で六千円も使う。領収書を貰って首相官邸に送り付けようかと思った。十一時頃に解散す。
 

9/17・木
 午前中は大雨と宿酔。何とか収めて千寿に出校。雨も止んだ上に、少し早く終わったので、国会前へ行くことにした。小諸蕎麦でもり蕎麦とかき揚げ丼をかき込む。デモ隊は残っていたので後衛の位置に陣取る。
それにしても、以前よりも更に多くの警察車両と機動隊が配備されていて、国会前は右岸と左岸に完全に分断されている。特に左岸は寂しい限り。多くの識者が指摘している通り、日本には広場がないから、こういう場合はつくづく不便であると思った。其の後右岸へ参る。今様な学生団体が抗議活動をしていた。流石に此の時間だと若い人が多い。一時間ほど滞在してお題目を口ずさんだ。若手に後を託して、桜田門からメトロに乗る。帰宅は十二時過ぎ。本日完全休肝


9/16・水
 午後出社。態度の悪い中学生に激昂す。授業は大荒れとなる。同じ頃、国会も大荒れ。怒号が飛び、バリケードが敷かれる。出来ることなら吾人も国会周辺で怒りたかった。立ち飲みBに寄って帰える。夜から雨。二宮係長逝去。92歳。


9/15・火 
日本映画専門チャンネルで「日本沈没」のテレビドラマ版を見る。映画と同時制作されたらしいが、田所博士(小林桂樹)以外は役者も変更となっている。それに全26話もあるから話しが間延びしており、メロドラマのような色恋沙汰もある。登場人物が全般的に幼稚化していて、映画のような緊張感がない。まるで散散な出来だが、併し日本沈没ファンだから見ない訳にもいかない。
自転車のライト交換。奮発してLEDにした。3218円。ペダルも軽いから夜間時間帯のスピードアップも出来そう。此れで盗難自転車との嫌疑を掛けられることも少なくなるだろう。あとは草取り。此の処、日常もルーティン化している。
ところで、「日本を取り巻く安全保障環境が激変した」というのも、言葉のお守り的使用法に付け加えるべき項目であると思った。国と国との政治学なぞをやっていると、こういう事大主義を振り回しやすくなるから注意が必要である。何しろ状況が変化しないことには、国際政治学などというものは成立しなくなるからである。大きな中国があり、その隣に小さな日本がある。少なくとも日本人が物心が付いた頃、隋の頃から何も変わらない図式である。


9/14・月
 午後一旦出社。其の後中座して近くの小学校に赴く。今日は住民説明会である。参加者は住民二十名、職員十名といった感じ。職員の説明に引き続き、意見交換会となる。件のお医者さんに続いて吾人も発言す。やはり二十五メートルという高さ制限に批判が集中す。区の決め方も悪かったのだろう。ポストに時たま投函される区の広報だけでは、住民参加を促したとは言えまい。会合は、怒号二、激昂一といった感じだったが、主要な論点は概ね出たと思う。あとは区の担当者がどれだけ吸い上げてくれるものか。また民意を吸い上げる機関がないのは、国政も地方行政も同じである。予定をだいぶオーバーして終了解散。職場には若い女の先生しかいないから急いで戻る。着いたところで、もう誰も居ない。無人の教場の戸締りをして本当に退社す。
 それにしてもこういう会合に参加して意見を述べるというのも、なにせ初めてのことなのでなかなか緊張す。公務員と言い争ったことなど、夜更けの巡査の不審尋問に激昂して以来のことである。長年住んでいるというだけで面倒なことが多いと思った。立ち飲みBに寄り、難しい話しはみんな忘れて帰ることにした。今度は阿蘇が小噴火。天も地も怒っているのは間違いないのだが。


9/13・日
 日中は軽作業。夕方月波君来たる。来週の箱根旅行の打ち合わせをする。


9/12・土
 昨夜遅くに食べたとんこつ醤油ラーメンと余計な二杯が胃にもたれ掛かる。早朝から苦しんでいると、行き成り地震が参る。震源は東京直下、震度四。列島水没の次はまた地震である。併し地震によるショック療法でも治らず。口から出ていくこととなった。
 日中適当に草刈り。午後国勢調査員から調査票を受け取る。書くのが面倒なのでインターネットで早速回答す。勤務先=大富学院、職業=スター講師と書きたかったが、吾人としては割と真面目に結構正直に書いた。それにしても世帯の状況に関しては、高齢の両親と未婚の子。此れでは国勢調査ではなく国衰調査だと思った。


9/11・金
 漸く朝から晴れた。常総地区の浸水被害は相当な模様。関東鉄道常総線の沿線だが、生憎常総線にも乗ったことない。
午後出社。漸く落ち着いて諸諸の雑用を果たした。退社後は鶴木さんを訪ねて佐渡屋へ。帰り掛けに別の常連客が現れ、更に二杯ほど飲み、帰宅が一時間遅れる。


9/10・木
 帯のような雨雲は漸く東にずれた。併し都内は結局の雨。ずれて行った栃木茨城と東北は大雨。午前午後とも来客も無く、またすることも全く無く、昏昏と眠る。良く寝られると自分でも呆れた。午睡から起きると鬼怒川が常総市付近で決壊す。
 夕方前千寿に出校。但し東武線内冠水の為、半蔵門線は押上止まり。千代田線で参る。早速生徒に「茨城は大変だよ」と伝えると、「先生は茨城出身だったのですか」と驚かれる。「いや世田谷だ」と言うと、「親戚でもいるのですか」と逆に問われる。「親類も縁者も債務者も誰も居ない」と応えると、「じゃあ何でそんなに心配するのですか」と呆れられた。
最近こういう類の問答は割と多い。興味関心の対象が随分と後退している証拠であると感じる。「君たちは世の中で起きることの森羅万象に何らかの責任を負っているのだよ」と鬼のように怒って言いたいところだが、旨く説明出来る自信がないので止めにした。
退社後は千寿駅構内の回転寿司屋に久久に参る。時化の為か品数は少ない。一方、御客は怒鳴るように注文している。朝から電車が動かなくて、皆いらいらしているのだろうと思った。こういう店だとペースキーパーとなる常連客なども居ないだろう。働く人も随分苦労していると思った。半蔵門線直通運転は間引き運転とのこと。結局復路も千代田線。雨は漸く本当に止んだ。


9/9・水
 ドイツは数十万人の難民の受け入れを表明す。幾ら経済が好調とはいえ、ちょっとやそっとの人数ではない。人口比で言えば、日本に百万人の県が一つ増えるようなものである。幸い日本全国空き家だらけだから、受け入れ不能ということも無いだろうが、此れだけの異文化との接触に耐えられるほど、日本国民は寛容ではないと恐れ入る次第である。今度はドイツも支援しなければならないと思った。高級車を買える身分ではとてもないから、麦酒か猫の絵が描いてある甘口のワインでも買おうと思った。
 台風は日本海に抜けたものの、南風と雨雲が入り込み、関東のみ結局大雨。気象レーダーを見ると、南北帯状の同じところにずっと降っている感じ。昨日から屋外作業もできない。すると結局過眠である。時時のやみ間を狙って、ぼんやりとバス出社。金参萬円受け取る。
退社後は立ち飲みBに行く。移転から十日も経つと何となく秩序が出来て来て、常連客も一か所に集まって来る。店も人も少しずつ馴染んで来る感じである。三杯飲んで最終バスを頼って帰った。雨も漸く夜半には落ち着く。マルタイ棒ラーメンを食べて寝る。此の処ずっと鼻詰まり。息をしても何だか苦しい感じがする。自律神経もおかしいのかと思った。自転車保険の更新4160円。


9/8・火
 沿岸近くで台風が急発生したとかで、結局一日大雨。炎熱地獄の後は、列島水浸しである。極端から極端へ。やはり天候不順である。一日無為。
終日日誌を纏める。大抵の人は、日常生活というものがまず先にあって、その延長線に忘れない為に日記をつけるという行為があるのだろうが、吾人の場合、日記を書くために態態生活をするという逆転現象が起きている。四年半も書いているとますますそうなって仕舞った。四六時中日記の内容を考えている。面白い内容を思いつくと、早く書きたくて仕方がない。


9/7・月
 朝方まで大雨。午後出社。併し平政君は運転免許合宿に行き、武藤女史は未だ海外から戻らず。結局吾人の一人勤務となる。某牛丼店に準えれば、ワンオペレーションである。演習用のプリントを作り置きし、あちこちの教室を右往左往する以外に方策は無し。どうにも月曜は時間割が巧く回転しないと思った。こういう場合、カレンダーがところどころ赤いことだけが心の支えである。ぐったりして立ち飲みBへ。雨で御客も少なく、少しは落ち着いた感じ。止み間を狙って帰った。夜半から更に大雨。


9/6・日
 増税と物価上昇にも関わらず、昨年のGDPが案外下がらなかったのは、国民にはまだまだ消費する力が残っているせいだとばかり思っていたが、どうもそれは勘違いのようであった。実際、国民が可成りの部分は、既に生活必需品しか買えない状況にあり、入って来たお金の全てが、それらの購入に費やされるところに追い込まれている。つまり節約して消費を減らそうにも、もう減らすところがない地平にまで墜落しているのである。だから個人消費が案外に減らないのだという恐ろしい結論に達した。
 少しは生活という地表面から離陸しようと、朝方は屋号が横文字の高級パン店に行く。コロッケサンドが380円もする。概ね市価の二倍である。小麦も馬鈴薯も生地がしっかりとしていて、確かに旨いことは旨いが、二倍も旨いということは無い。
併し鉄道運賃ならば仮に二倍を払えば、二倍は勿論、運賃は遠距離になるほど逓減していくから、二倍以上の遠くまで黙っていても運んでくれる筈である。飲食物に関してはそうならないのがつくづく残念である。但し鉄道の場合、用が済んだ御客が途中で多少降りても、汽車は其のまま黙って終点まで走って行かなくてはならない。だから遠くまで乗りたいお客は序に乗っけてやると云う事なのだろう。鉄道という装置産業と、飲食業を比べても仕方がないと思い直した。矢張り旨い物を作るには相当な御金と暇が掛かるのである。昼は隣町で800円の付け麵。麺が太いと出で来るまで随分待ったが、魚介と鳥豚の合わせ出汁が利いて、矢張り旨い物は旨いと思った。
午後ぼんやりしていると、近所のお医者さんに呼び立てられる。件の都市計画について色色と反対する算段を付けた。区の説明会が来週あるそうである。家人が出られないのなら、吾人が出席せねばならない。九月も何だか慌ただしい。夜から再びの大雨。
 

9/5・土
 シリアという国が愈愈全面崩壊し、国民の数分の一が難民となって欧州に押し寄せる。苦行難行の連続で、多くが落命したという。何人かは日本も受け入れる必要があるかもしれない。概ね晴れた。草取りと午睡を繰り返す。あっという間に日が暮れた。


9/4・金
 北京で大規模な軍事パレード。そんな中国を、ある識者が、まるで戦前の日本のようだと評していて、中中言い得て妙だと思った。近代中国は、苦心惨憺、艱難辛苦の末、漸く近代化を果たすには果たして一等国にはなったが、なったらなったで、却ってどうしていいかわからない、孤独な帝国である。
パレードの模様は日本でも多く報道された。するとある民間放送のアナウンサーはアクセントの付け方か微妙で、何遍聞いても、天安門広場が、店屋物広場に聞こえて困った。併しこういう広場を作って、天丼やかつ丼や中華丼に行進させたら、誰も文句はつけないだろう。極秘に開発した新型丼を披露するというのも面白い。
概ね晴れて少し暑い。午後遅く出社。中学一年生の定期試験対策をする。色色と気が散りやすいから、中学一年というのは一番難しい学年である。此処で躓くと生活面でも勉強面でも回復運転不能となる。吾人も少しは勤労意欲を出さざるを得ない。
少し早目に退社。まるで御客の居ないお好み焼き屋で一人で飲んでいた鶴木さんを久久に掴まえる。柳夫妻や須々木さんも呼び立て、自然発生的な金曜会となった。併し二軒目がない。中華立ち飲みはまだ移転工事中である。止むを得ず、みんなで穂高屋に入った。結構飲んでも一人千円。併しこういうチェーン店は驚くほど安いと思った。


9/3・木
 選挙権を十八歳に引き下げたどさくさ序に、飲酒も喫煙も十八歳から解禁しようという案があるそうである。吾人の飲酒生活も大学入学後の始まりであるから、法律を実態に合わせるようになるのかもしれないと思った。それに麦酒の大瓶に六三三ミリリットル入っているのは、六・三・三制を終えたらまあ一人前だから、麦酒程度なら飲んでも宜しいなどという冗談めいた説もあるくらいである。日本は飲酒には寛容な社会である。
しかし最近は未成年の飲酒には相当五月蝿くなった。確か二十年位前、未成年の関取が優勝して、その祝いの席で杯を傾けたところ、警察が物言いをつけたことがあった。形式的、儀礼的な慶事にも、御目溢しをしなくなった印象的な出来事であった。どうもその頃から潮目が変わり、日本社会は益益住みづらくなってきたという感がある。
また飲酒の楽しみの半分は、禁酒令を破ることにあるなどと何処かで聞いた覚えがある。事実、皆が仕事をしているような時間帯から飲む酒は、今だにちょっと別格の味わいがする。しかしいざ大っぴらに飲めるとなると楽しみも減るかもしれない。そうなると十八で解禁するかというのは、益益悩ましいところである。
午後千寿に出社。腹も大して空いて無いので、退社後は其のまま帰る。すると東急線内で人身事故が起き、半蔵門線内下り方面各駅満線とのこと。一本前の列車が一駅進めば、信号を青にして当該列車も一駅進むという感じで、遅遅として進まず。東急の事故だから其のまま乗っていたが、千代田線で先回りすれば数本前の列車に乗り継げただろうと後悔す。
結局千寿から一時間半以上も掛かった。中央線と比べても仕方がないが、「あずさ」ならもう大月に着くころである。なお今夜の事故は藤が丘駅とのこと。出身校である橙隠学園の生徒で無ければ佳いと思った。地元で矢鱈酸味の利いたラーメンを食べて帰ったら、既に十二時近く。夜半から再び雨。


9/2・水
 朝から台風のようなお天気。旅館とは漸く連絡が付く。推薦の本も読んだし、発表の割り振りもした。後は自然災害だけが心配である。
件の五輪のトレードマークは結局使用停止となる。漸くこれで似てる似てないの泥仕合も終了す。次は一般公募にして、市民の参加を広く募るべきである。選考過程も透明にすれば、盗作騒動も未然に防げるであろう。
御昼には台風一過のように晴れた。実に十日ぶりである。午後出社。ぼんやりしていると大学四年生のYさんが訪ねてくる。大手航空会社の客室乗務員の内定を貰ったとのこと。CAと言えば、塾の先生とは違い、今も昔も人気の職業だが、今年は超がつくほどの大量採用で、本人も驚くほどの楽楽の就職活動であったという。氷河期の中の間氷期とでも言えようか。運は良いことにこしたことは無いが、その一方で航空業界は浮沈が激しいから、まるで採用が無かった年もある筈である。生まれた年の巡りが悪い人は悪く、泣く泣く涙をのんだ人も多かろう。つくづくこういう不均衡の無いように採用活動を整える方策は無いものかと思った。
退社後は新立ち飲みBへ。店が広くなり、常連客を探すのが面倒なほど。依然として御客は足りているが、従業員が足りない。一方のバーIはなぜか店主の知人までカウンターの中に立っている。店主も従業員も足りてはいるが此方は御客が全く足りない。結局暇を持て余して紫煙を上げている。煙くて煙くて、目が見えなくなるほどである。早めに緊急退散す。此方も不均衡が是正される見込みも無し。三杯まではアルコールイン。以後はノンアルコールに徹す。碑文谷島で蕎麦を食べ一時前に帰宅。


9/1・火
 午前中は雨。一瞬雷も鳴った。火曜不出社。衛星放送でやっていた「刑事フォイル」を見る。此れは大戦下のイギリスが舞台の刑事ドラマである。曰く、「戦争の時代でも(一般的刑事事件の)殺人は起きる」と。ただ人種間の憎悪は煽られるし、人人の暴力性は高まるから、自ずと事件の性格も変わって来るだろう。重苦しいドラマである。戦後日本は一貫して殺人などの凶悪事件は減少して来たのだが、その理由は人人が軍隊経験を持たなくなったからという説もある。
防災の日。木と紙で出来たいい加減な都市だから関東大震災であれだけの被害が出たことは、何となく分かる。しかしその元で大量虐殺が行われたということは未だによく解明されていない。当時どれだけの憎悪が渦巻いていたのか、きちんと想像する義務があると思った。
芥田先生と旅行に行くことになり、箱根の旅館を予約しようと思ったが、何遍電話を掛けても出て来ない。旅館も旅行に行って仕舞った様である。夕方は更に大雨。休肝二日目。