2018年7月

7/31・火
 終日晴れ。まず介護施設に参り、老家人の昼食の介助。続いて介護保険の再改定となる。今回は区役所本体から御足労願った。吾人より年上の穏やそうな男性職員がやって来る。運動能力の方は施設職員へ聞き取りし、認知能力に関しては老家人に直接問い掛けることとなった。質問調のものはなく、十五分ほど言葉の遣り取りをして無事終了す。
ちなみに吾人が事前レクチャーした際、老家人は「呆けた振りをした方がよいのか」などと聞いて来た。認定が上がると費用が掛かるから「成るべく呆けない方がいい」と仕込んでおいた。併し生年月日は答えられても住所までは言えなかった。此れが実力である。先月要支援二になったばかりだが、此のまま三階級特進かな。結果はひと月後。しかし施設に入って丁度二週間。体力低下が著しいと言うことでリハビリもされず。ケアプランの第一目標が「心安らかに過ごすこと」であったからな。本人が嫌がることはもうやらないのだろう。
 続いて小田急線と千代田線で千寿に移動。道中、「給料も払わないし貸したお金を返そうともしないから益益怒りの沸点が下がるのです」と無責任社長に送信す。すると一時間後に長長と謝罪文が送られて来た。こういう所だけは巧みだと思った。何しろ舌先三寸の人である。併しこうして空手形ばかり掴まされてもね・・・。万事下らない事夥しい。退社後は飯田橋に回航。都心をふらふらしている月波君を呼び出して、蝦夷松と立ち飲みBで軽く飲んで帰った。其の際『思想五月号』を分けて貰う。小熊氏の論考が興味深い。「1968以後」も日本では好景気が続いたので「社会運動も低調だった」。此れが日本と欧米諸国との最大の差で、経済が何となく成長して行ったものだから、1968の経験が広く引き継がれる必要がそもそもなかったと。日本でも四半世紀遅れる形で90年代以降は大変な時代となるが、其の頃までには社会運動の方法も考え方もみな綺麗さっぱり忘却されて仕舞ったということになるなあ。一度途絶えた物を呼び起こすのはつくづく難しい。そして忘れ去られた社会においては、デモは五月蝿くて迷惑だという市民の声を受け、デモ隊の出発地を限定しようなどという条例が制定されるのである。
日銀は利上げを容認。事実上の白旗宣言である。今度はアマチュアボクシングの会長が狼藉を働いているとのこと。此の所、次から次へと告発状がスポーツ庁に寄せられているが、肝心の主務官庁の方から次から次へと逮捕者を出している。こういう風潮の下ならば、蝿も虎もモリもカケも現総裁も叩き潰すなどと宣言した総裁候補が出て来たら結構な支持を集めるかもしれない。こうして何も楽しいことのない七月が終了す。


7/30・月
 今日も蒸し暑い。午後出社。中三と中一。後者はほぼ全員出席。するとワアワアガアガアと授業にならず。一時間半我慢したが、とうとう激昂して授業は強制終了。大人気ないから怒りたくはなかったが、ついにこうなって仕舞った。大体中一で合クなど無理だよな。吾人も其のまま退出。後がどうなったのかもう何の興味関心もない。只管早く辞めたいと思った。職場の近所で飲む気もしないので其のまま帰宅。缶麦酒を飲んだら胃がむかむかす。腹の虫も収まらなかった。


7/29・日
 12号は列島を逆向きに縦断。関東は依然すっきりせず蒸し暑い。そんな中、朝から牛丼Sへ。午後はかんかん照りとなり暑さがぶり返す。此れと言って成すこともなく終日漫然とす。シロは何度も甘えてくる。どうにも昨夜は落ち着かなかったのだろう。最近は呼べば返事をして尻尾を振る。シロの犬化が進んでいると言える。
イージス何とかには五千億も掛かるという。例によって当初の見積もりよりどんどん拡大す。所謂何とかバーと同じだな。其れだけあれば、JR北海道と西と東と四国と九州と第三セクターの被災路線が直ぐに再建出来る。被災者やボランティア、当の自衛隊員にも何万食も豪華幕の内弁当を配れるな。壊れた民家も直し、余ったならば北朝鮮に上げてもいい。


7/28・土
 未明は中雨。一旦止む。北風吹き付け窓を閉め切っても寒いくらい。御昼前に南風に代わり、以後蒸し暑くなる。取り敢えずバス出社。そう言えば今年は土曜出勤が増えた。平政君が居なくなったからな。彼に此処数年は頼みっぱなしであった。
本日の担当は中三と中一の数学。夕方は雨が強まり後者は半分ほどが欠席。御蔭で割と細かく指導が出来て良かった。というのも教える人が不足していて、中一と中二はクラス分けが出来なかった。所謂合クである。退社後は其のままバーIへ。酔うほど飲めないまま一時間ほどで最終バス帰宅。店主に千円分も強制納品させられたら3100円も掛かった。そもそも夜には概ね止んでいた。よくよく考えてみれば自転車でも来られたな。


7/27・金
 日中二十七度程度。取れたてて予定もないとなると草取りである。割と進んだ。昨日今日で猫車一台半くらい。北上して来た12号は関東の手前で左に急カーブするらしい。西に向かう台風も珍しい。まだまだ土砂が掻き出せていない。つくづく運がない。為政者があれだからな。


7/26・木
 昨日以上に涼しい。まず粗大ゴミの搬出(ガスコンロとキャリーバッグ)。漸く此れで二号室のゴミは一掃される。ひと部屋の片づけに二週間も掛かった。被災地が思いやられる。どんどん東風が入るので一時間ほどの草取り。続いて施設に参り、委任状の作成。へなへなな字しか書けず老家人は頻りに残念がっていた。書けた後は、昼食の介助。どろどろの糊のようなものでは食欲も湧かないな。吾人用の麦茶を飲ませたら結構飲んだ。食後は車椅子で館内を巡回する。三階にも行き、伯母の面倒を見ていた介護士にも引き合わせた。一時頃には退出。数年振りの「ひむかや」でラーメン休憩(650円)。此のあっさり豚骨+中細麺+微かな酸味が疲れた胃には丁度いい。直ぐにバスで帰宅。出来立ての委任状を手に郵便局へ。何回かの修正訂正の後、無事受理された。拙宅の食料庫が空っぽなのでスーパーで買い出し。以後午睡す。
残りの実行犯も全て執行される。ヨーロッパ辺りは吃驚しているだろう。国際世論ぐらいしか、もう遮るものはなし。併しあの法務大臣は軽い。多摩市の建築中のビルが炎上。週末には台風も接近するという。政治が悪いから色色と心配である。


7/25・水
 未明に一雨あって以後曇り。まあまあ普通の夏となる。早速草取りだが十五分やったら胸苦しくなる。以後長期休憩。日中何度も上厠す。二号室は電気関係の工事。旧三洋機も引退。残りは一台。夕方出社。退社後は立ち飲みBへ。あんまり飲めず十時半退出。夜も比較的涼しい。久久にエアコンなしで就寝。
 一方施設からは次次と書類が送られて来る。今度は提携薬局への署名捺印。また簡易保険に入院費を請求したいが老家人の委任状が必要とのこと。字が書けるかな。手続きも簡易にして欲しいものである。


7/24・火
未明に分別し尽くした不燃ゴミを出す(主として二号室から出た物)。すると電化ゴミは一瞬で、瀬戸物の類も何時の間にか持ち去られていた。前者は兎も角、後者に価値があるとも思えず。まあ何かの役に立つのなら誰が持って行っても構わない。苦労して仕分けた甲斐があるというものである。詰まり捨てる神と拾う神を媒介するのが此の分別する神である。また東電管内では600万キロワットを太陽光発電が叩き出しているという。猛暑でも需給は安定とのことである。それらに加えエアコンの買い替え効果も相当あるのだろう。併し地震に水害に此の猛暑、外国人観光客も吃驚。
二号室には大工さんが入る。幸いエアコンを掛けながらの作業なので熱中症の心配はなし。二度ほど御茶出し。家でぽかんとしていると施設から電話がある。すわ大ごとかと思ったが、栄養補助食品を取り寄せたいので、保証人による許可、就中署名が欲しいとの事。そう言うことは事後承諾でいいから、どんどん進めてくれと語気を強めた。大体一つ何万円もする訳では無し。百個買っても二万か其処らである。どうにも大手介護所は融通が利かない。今時御役所でももう少し機敏に動く筈である。結局責任回避のアリバイ用の書類作りだな。そもそも順法闘争をしているのではないのである。
例によって今日も三十五度もある。火曜であるが午後千寿に出校。授業よりも通勤の方が辛い。地下鉄でも冷房の効きが今一つ。早目に退社したので町屋のBに。久久にD店長も居たけど三杯で納盃。其のまま大人しく帰った。余りに暑いとアルコールも喉を通らない。


7/23・月
 今朝の「冷笑主義 社会覆う?」という記事は面白かった。最近の学生の間では藤田省三も人気がないそうで(随分前からなかったな。月曜二限の「政治文化論」はガラガラだったもの。古い話し=1992年でスイマセン。)・・・。全般的に日本人は妙に自信がなくなり大勢に順応し過ぎる。何が何でも「いやだからいやだ」と言うような天邪鬼的な人が少なくなり過ぎた。困った事態である。それにしても多くの人人がゼロ成長に足元を掬われている状況にあると、「高度成長反対」を唱えた藤田さんが色褪せて仕舞うのも致し方ない。かと言って「安楽への全体主義」へ陥る危険は些かも減ってはいない。むしろ、と言うか既に全体主義社会にあると言えよう。
 本日は家人が施設に参る。気温が三十八度もあるので往復タクシーを利用したとのこと。併し偶の贅沢がタクシーではね。バスで行けばそもそもゼロ円(シルバーパス利用)である。五千円もあれば色色出来るのに。吾人は午後ふらふら自転車で本務校に。途中富士そばで「冷やしゆず鳥とほうれん草そば」(430円)。結構旨い。今日から夏の講習である。退社後は立ち飲みBへ。おじさん勢揃いで結構痛飲して帰った(其れでも1500円)。併し夜でも三十度はある。異常な天候である。此の所は夜間でも設定温度は二十八。クーラー完備、此れだけは高度成長の恩恵だな。


7/22・日
 名古屋場所では木曽出身の力士が優勝。郷土のヒーローらしく、伊那に行く度に県内ニュースでは取り組みを詳しく伝えていた。だから吾人でも知っている力士である。併し四股名が「御嶽海」で呼び名が「みたけうみ」は少少紛らわしい。でも「おんたけうみ」ではしっくりこないな。奥多摩にあるのは御岳山(みたけさん)で、池上線の駅は御嶽山(おんたけさん)。脳内変換が間に合うかどうかぎりぎりの線である。何時の間にか中日はやっぱり最下位に。政変もなさそう。少なくとも今世紀中は。吾人も愈愈諦めた。
 異様に蒸し暑く、全ての作業は困難となる。漫然とした後、午後遅めに施設に向かう。まず老家人の部屋を訪問。あっちが痛いこっちが痛いと不満たらたら。何しろずっと寝ているからな。痛い痛いと体を捩っていたからシーツにシミが。下腹部から漏れ出して来たよう。ズボンも含めての交換作業となる。「あんまりいい人生で無かった」と宣うが、寝台の上での人生はまだ続く。もう少し動こうという意欲を持って欲しい。せめて車椅子に乗れば、視界は動くし、世界は変わる。
続いて施設との正式契約に移る。営業担当者による各種説明ののち只管署名捺印。大半は御金の説明である。基本的な入居費が月38万。此れに介護保険利用料金、医療費、諸雑費を足せば大凡47、8万だな。一杯410円の天麩羅そば(富士そば基準)から見れば、実に恐ろしい天文学金額である。其れに来月から介護保険も三割に値上げだそうで・・・。
部屋に戻ると丁度夕食時。食べろ食べろと吾人が言うと、「食べたくても食べられないのだ」と反論す。そう言えば今朝の新聞に高齢者は水を飲むことも容易ではないと書いてあった。要介護五のコラムニストの指摘である。再び23系統で帰宅。バスも世田谷通りも予想外に空いていた。こうも暑いと外出もしないよな。猛暑で消費が伸びるなどとは何処の阿保が言っていることなのだろう。夜は唐揚げをドカ食い。一種の自棄である。麦酒も案外進まない。白ワインの氷割りを飲む。ちなみに朝は豆腐、昼はスーパーの焼きそば(300円)であった。タクシーぐらいだな明らかに儲かるのは。


7/21・土
 朝からゴミを拾って歩いていると、レオ君が交通事故で亡くなったとの張り紙が。レオは(多分)シロの弟で、近所の御家で外猫として飼われていた。眼の色と尻尾の太さがほんの少し違うだけ。若い頃はしばしばシロと喧嘩をしていたけれど、大抵の人にはどっちがどっちか分からないくらいそっくりな猫だった。人懐っこかったから色色な人に愛されていた。シロより少し若いから享年七ぐらいかな。合掌。続けて合掌。早速シロを掴まえて来て、自動車に気を付けて弟の分まで長生きするのだと諭す。シロは実に神妙に聞き入っていた。猫は人語の個別具体的な内容までは解せぬが、文脈として褒められているのかそれとも怒られているのかあるいは語られているのかは分かる生き物である。
 今日も三十五度。家人が出動したので取り立てての予定はなし。上段の三番駐車場が久久に埋まるというので早速草取り。十分やって一時間半の休憩を何ターンがこなした。幸い雨が少ないから草の伸びは押さえられている。でも喜んではいられない。此のまま行くと来月は水飢饉であろう。朝は冷凍うどん、昼はカップ麺、夜は家人が買って来た崎陽軒
カジノ法も成立。まあ富裕層から巻き上げた御金を貧困層にばら撒くというのならば、其れもあり得る話しだと思うが、実際にはそうならないな。其れはパチンコを見れば明らかである。また山陽線の不通区間は新幹線振り替え対象となっているが、其れも災害発生前までに発券された定期券や乗車券に限るという。そもそも列車が運行できないのだから当日乗車券でも「こだま」に乗せてやるべきであろう。其れに学生は此れから夏休み。定期を切らしたらどうなるのだろう。東なら(多分)開放するだろうけど、西はどケチだからな。何しろ復旧は11月の予定である。それにそもそもはこういうことを国会で討議すべきであるが、生憎閉会したそうで・・・。


7/20・金
 午前中から23系統に乗り、施設に乗り込む。まあまあ元気そう。なお老家人には入院や退院や入居の期日が分からないとのこと。此の所の顛末と掛かった経費を紙に書き出して見せたら結構驚いていた。途中昼食休憩。少しスタミナを付けようと「はま」と言うとんかつ屋に。何しろ豚が絶滅する恐れはないからね。ロースカツ定食1180円。店は誠の昭和造り。環七の外にはまだまだ古い店が残っているな。味は至って普通。色色とメニューが多いから夜はとんかつ酒場になるのかもしれない。併し千歳船橋で飲むことはないなあ。
続いて家具屋で折り畳みテーブルを購入。2580円。考えてみれば此の店には2010年にも来ている。伯母に必要な備品を買い揃えた。でもあの家具たちは伯母の死亡退去の際に悉く遺棄して仕舞った。こうなることが分かっていれば、施設の納戸か何かに保管して貰えれば良かったな。買って戻ると老家人は既にうとうとと。薄布団を適当に掛けて退出す。
再び23系統に乗る。世田谷通りに出ると運悪く数珠の先頭に。各駅停車で乗客を拾うと車内はぎっしり満員。併し全てのバスが渋谷行きなのにどうして皆がみな一号車に乗りたがるのだろう。二号車三号車は例によって空気輸送である。毎度毎度不思議で仕様がない。這う這うの体で帰宅すると丁度信用金庫の職員が来ていた。老家人名義の定期預金は少しずつ解約するようにと依頼した。何しろ死んでからでは税務署の好餌であるからね。


7/19・木
 賭博の解禁に、定数増、何をやっても内閣支持率が落ちないのは、日本の有権者は二大政党制は勿論、最早複数政党制をも諦めた証左であるな。目指すべきはロシアや中華帝国である。
 午前中に内装屋さんが二号室の見積り書を持参。色色と直すとあっという間に大台を超えている。諸物価高騰+夏季作業手当だな。此方は建設的な支出であると言えよう。続いて介護ベッドの撤収。実に僅かな期間しか利用しなかった。何だか申し訳ない。レンタル代金は月千円なのだから、もう少し置いておきたかった。併し家人があっという間に解約の連絡をしていた。ベッドも無くなるとなると、老家人の一時帰宅の可能性も潰えたと言えよう。幾らなんでももう少し間を持たせるべきである。女と言うものは実に容赦がない。
続いて介護費用を考えることに。取り敢えず、比較的出入りの少ない銀行口座を宛がうことにした。試算によると凡そ二年は持つ。一種の特定財源である。併し二年を超えるとなると、愈愈一般財源が侵食され始めることとなる。一般会計支出は大変なダメージを受けることとなるだろう。新聞もケーブルテレビもレンタルモップも止めなくてはならないし、おちおち天麩羅そばも食べられなくなるかもしれない。猫の餌も安いものに切り替えである。
夕方出社。退社後は中華立ち飲み、立ち飲みB、バーIと三連戦。其れでも3500円。病院の差額ベッドの凡そ三時間分である。腹に水分を貯めると夜はまあまあ涼しい。併し此の所は朝の七時には三十度越えに。少し太陽にお休みを願いたいと思った。其の日は朝から夜だった、いいねえ。


7/18・水
 午前中から施設に乗り込む。折り畳みの椅子とテーブルその他を持ち込むからタクシーを仕立てて向かった。途中工事渋滞多し。2490円。工事も夜間やった方がいいな。第一に捗るだろう。本日は三十六度もある。
行って見ると、老家人は足をバタバタさせて、「そろそろ帰るか」などと宣う。大分元気になったのかな。朝方はベッドからずり落ちていたそうである。なお、尿の量を計測したいので秤が大至急必要とのこと。例によって暑中買いに出掛けた。小田急の高架下を延延歩いて無事購入。帰途付け麵休憩。「せい家」があったところが「はる」と言う店になっていた。二年も経つと店も代わる。付け麵中盛780円。併し味はせい家と変わらず。ならば少し高いな。飲食店と言うものも、そもそもが旨いか、そうでなくても多少安いか、あるいはその他のサービス及び雰囲気がかなり良いかしなくてはね。家人には巻き寿司を買って行く。
併しこういう施設も若い職員が多くなった。而も男性。大概が学校出立てと言った感じである。体位交換等で腰を痛めるから、お婆さん相手でも男の方がいいのかもしれない。塩分点滴は三時間くらいで終了。其れに合わせてバス帰宅す。二時間ほど休憩して本務校に自転車出社。結構消耗したので其のまま帰宅。残り物で麦酒その他。
山陽線の復旧は11月になるのだという。また芸備線の広島寄りは直すとしても、備後落合から先の区間木次線はどうなるのだろう。廃線候補だな、此のままでは。


7/17・火
 明け方は宿酔気味。何とか収めて登院す。老家人退院の日である。まず最後のおむつ交換、続いて担当医の挨拶、薬剤師から当面の薬を受け取り、会計に向かう。総額77万円。内医療費は8万円。持参した大枚を機械に吸い取らせた。大半が差額ベッド代である。事実上病院への寄付だな此れは。
六月分と合わせると凡そ一月の入院で135万円。併し掛かったな。老人医療も此処まで来ると一種の蕩尽である。看護師さんその他に見送られて介護タクシーに。千歳船橋の有料老人ホームに向かう。老家人にとっては最後の旅行かな。よくよく窓外を見るように忠言した。三十分ちょっとで七千円弱。伯母の死亡退所から僅か二年。再び此処の門をくぐることになるとはね。顔なじみの職員も少し残っていた。
 二階の18号室に入居。直ぐに横たわる。其の後介護プランの説明と承認。なお最初の一週間は体験入所扱いなのでおむつは持参して欲しいとのこと。昼食がてら家人と買いに出掛けた。凡そ三千円。金額以上にずしりと重かった。続いて施設医の訪問。万代伯母を看取った先生でもある。またまた宜しくお願いしますと挨拶す。ナトリウム濃度維持のために二日に一度は点滴が必要とのこと。昼食は塩分濃い目で半分程度食べさせた。本人も「とうとうこうなりました」などと冗談めいたことを言っていた。一応外面を気にする余裕は残存しているよう。寝落ちしたところで取り敢えず本日の任務は終了。ちなみに今日も三十五度。普通タクシーで家人と帰宅した。2250円。だいたい三時半。
 また栄養補助食も持参して欲しいとのことで近所のドラッグストアーで購入す。明治「メイバランス」ゼリー版。四個しか売ってなかった。丁度二日分だな。夜はスーパーの天麩羅に蕎麦を合わせた。老家人もよく食べた更科の乾麺である。蔭膳には少し早いが、兎に角今日から本格的な二人暮らしである。ちなみに施設には月に40万円程度の支払いを想定す。此方も大変な金額である。
 いやしかし、低ナトリウム症状にもう少し早く対応していれば別の結果になったのだろうか。何でも安直に年のせいだとせずに、もう少し真剣に考えていたら・・・。今回受けたダメージは最早回復不能の水準である。そう思うと寝付きはますますよくなかった。高齢者と言うものは常に崖のような所を歩いていて、ちょっとしたバランスを崩しただけで直ぐに転落して仕舞うのである。


7/16・月
 二号室の大量の引っ越しゴミに、拙宅その他の生活ゴミを若干加えたものを斜め向かいの集積所に出す。実に十数個も積み上げた。分別し直した袋が収集車に次次と放り込まれていく様を見ると実に清清しい。一方被災地ではゴミが野積み状態。分別名人と収集車を千ずつ派遣したいものである。勿論吾人も出動したい。
 夕方前に月波君がやって来る。久久の暑気払い。新しく出来た「もつ焼きばん」の支店に。税込みで一本120円と言うのは安くて旨い。但し店内は大混雑。空いたチェーン酒場に移動。更にパスタ屋にも行った。八時半頃ふらふらの状態でバス帰宅。酔うと駅からの僅か十分が歩けない。


7/15・日
 本日も登院。矢張り尻が痛い痛いと宣う。段段と意思の疎通が困難になりつつあるが、色色と意訳すると、どうも便がとば口で滞留しているよう。固くて痛いのらしい。柔らかい物しか食べていないのにどうして石のようになるのかね(もともと便秘症だったからな)。掻き出すと痛いのでいっそ浣腸をして欲しいと本人は言っていますと看護師さんには伝えた。ただ直ぐに帰って仕舞ったので、其の後がどうなったのかは分からない(酷い息子である)。
池尻の「天下一品」で遅い昼食。久久に食べたが矢張り少少濃すぎるな。こってりとあっさりの中間を作って欲しいと思った(名称はこってりあっさり)。大体日本国民全体が高齢化しているのだから、こってりした物もあっさりとさせなくてはね。終日異様な暑さ。夜は冷凍の穴子の蒲焼など。鰻はほぼほぼ絶滅したというから此れからは穴子の時代だな。


7/14・土
 異様な暑さ。全身を纏わりつく。都心も猛暑日。早速内装屋さんが来て二号室の改め。何処も古いから結構掛かるな。続いて御昼前に登院す。老家人はお尻が痛い痛いと宣う。どうも朝方に便を掻き出されたらしい。併し痛いよ痛いよと九十三歳に泣きつかれたとしても如何ともし難い。其のまま堪えよと怒鳴りつけた。
昼は病院近くの「更科」で。天丼と盛り蕎麦のセット(1260円)を食べたが大して腹が膨れない。スーパーで130円のカレーパンを買って補填す。併し安いカレーパンというものは図体の割りに中味が少ない。結局物足りず。夜は牛肉を焼いて食べた。その他は引き続き二号室のゴミの再分別。45リットルで20袋近い。いやしかし、よくもこんなに溜め込んだね。先日の愛媛の視察で足の付け根を痛めたAは明日の広島の視察を中止。何でこんな人の支持率が地に落ちないのだろう。


7/13・金
 上の二号室はルームクリーニング。修繕はドアクローザーのみ。続いて下の二号室の退去。十年も住んでいた人だからゴミも凄い量。百円ショップで売っているようなものばかりリヤカー一台分ある。異様に暑い中、朝からどんどんと分別し直す。夕方一旦出社。というのも本日は美亜さんのコンサートの日である。此処で美亜さんの紹介を少し。元生徒で元講師。大学卒業後色色とあったようだが何時の間にか歌手になっていた。語学堪能、容姿も(多分)端麗。和洋折衷、歌う親善公使ということで国内より海外で人気ある。世界を股に掛けるビッグアーティストである。
そんな彼女は海外生活が長いのだが、本日は芸能生活十周年と言う事で地元に回航、一種の凱旋コンサートが催された。いやしかし、人生には色色な歩き方があると感心する人物である。ホールは六分程度の入り。無責任社長と元立ち飲みTのママと鑑賞す。ママさんなどは途中寝ていたが、なかなか堂堂としたものであった。屈託がなくて語学が出来る人は早い内から海外に出た方がいいな。終了後は晴雷亭で鶴木さんらと会食。久久に佐渡屋にも回った。バーIにも行きたかったが体力が切れたので帰宅す。


7/12・木
 明け方に大雨。以後少しは涼しくなる。横浜の療養型病院での大量遭難事件も容疑者が挙がる。実に立件には二年も掛かった。警察発表によると動機は滅茶苦茶。つくづく職業適性が無い人と思った。看護師と言うのも今も昔も一定の人気がある職業だが、比較的高収入+資格の力で将来安定と言う動機だけでは務まらない仕事である。午後出社。退社後は中華立ち飲みとBを連戦。久久に少し飲んだ。


7/11・水
 今日も異様な蒸し暑さ。御昼に登院。すると呼吸器専門医による説明有。間質性肺炎は原因不明が多く、原因が不明な以上は大した治療法がない。退院した後に急性増悪した場合はステロイド療法が有効ですなどと言われた。ということで来週の火曜日の退院が正式に決まる。帰宅後素麺休憩。拙宅の台所も多少は生産するようになった。午後本務校に。金参万円受け取る。何時の間にか講習が近い。色色と決めごとをする。碑文谷のドライブと言う新店でとんこつ醤油ラーメン。味覚も戻っていないな。麦酒もラーメンも味が今二つ。
 予讃線山陽線も再開には一ヶ月以上掛かるという。こりゃあ西や四国や貨物の経営問題にも発展するな。また中国道は動いているが山陽道はずたずたに。下道も各地で寸断。激しい渋滞で物も運べないという。呉など陸の孤島になって仕舞った。現地では高校生まで泥を掻いているというのに、今頃Aが避難所を視察。同じころ東京ではお手盛り参議院議員を増やすことが決まる。吾人なら泥団子をぶつけるな。


7/10・火
 朝から晴天。一週間ぶりに吾人が登院。すると老家人は文句たらたら。まあ、ああでもないし、こうでもないと言えるぐらい元気になった証拠だな。今日は点滴も外れている。昼はどろどろの御飯に、どろどろの味噌汁に、どろどろの掻き玉子豆腐のような定食が出て来る。嫌だ嫌だと言いながらも結構食べさせた。六月の入院費の請求書が来る。総額58万余。其の内45万円は差額ベッド代であった。個室に入るのは致し方ないとしても、つくづく二万円安い部屋にすべきであった。いやしかし、何でこんな立派な部屋(と言っても病院自体が古いから場末のビジネスホテルのような部屋)にして仕舞ったのだろう。痛恨の判断ミスである(個室代は医療費控除の対象にもならない)。兎に角、入院手続きの時は興奮するものな・・・。
例によってキャッシュカードで払おうとしたが例によって使用不能。結局現金を引き出して支払った。デビッドシステムというものが役に立ったことが一度もない。支払い機に大枚を吸い取られせたら、領収書に続いて診療明細書が凄い勢いで噴き出して来て辺りに散乱す。慌てて拾い集めた。見ると点滴の一本一本まで丁寧に書いてある。文書作成も御苦労なことである。
お尻が痛い痛いと宣う老家人を寝かし付けて退出。少し精を付けようと最近出来たステーキハウスに寄る。180グラムの赤身肉に御飯とサラダとミニビールが付いて1200円。当然米国牛である。案外旨かった。米国産と言うと草鞋のような肉だった頃とは随分違うと思った。日本人が沢山肉を食えばT氏も喜ぶ。此れも世界貿易体制維持の為である。夜は家人が茹でたパスタを中心に久久にチリワインを一本開けた。平成三十年七月豪雨に際し五千円振り込む。


7/9・月
 異様に蒸し暑い。やっぱり広島の方が大変な被害が出ている。山際わまで建てた家はつくづく危ない。広島と岡山と言うと関東から見たら大して違わないが、地形は相当違うのだと思った。午後千寿に出校。途中散髪す。町屋のBで二杯だけ(1250円)。


7/8・日
 まあまあ回復す。朝からシャワー入浴。詰まり風邪というのも一旦悪くならないと回復もしない。不死鳥が生焼けでは再生しないのと同様である。さてさて不死鳥の如くとはいかないが業務も再開。ゴミの分別に続いて、二階の二号室の退去の立ち合い。真面目そうな女性社員だったから台所も綺麗。五年前に直した部屋なので其のまま貸せるな。買い物にも出掛けた。但し草取りは不能。此方は一週間は遅れる。飲酒も再開。スーパーのとんかつで一献。嗅覚喪失の為、大して旨くない。
 倉敷の北、真備と言う街が水没。鉄道では呉線芸備線予讃線高山線が長期運休の模様。被害は拡大中である。山陽線も高速道路も動かないから東西物流も滞る。九州の野菜や焼酎も持って来られない。フェリーでどれだけ運べるのだろうか。それにしても凄まじい破壊である。ゴミ収集車も派遣しなくてはならない。破壊の後は建設だが、また義捐金だな。家具家電、軽自動車の購入費の足しにして貰わなくては。


7/7・土
 西日本は広範囲に渡って大雨。被害甚大。また廃線が出るな。咳は収まったが、喉が痛み、鼻も出る。昨日より却って具合が悪い。プレコール、小青竜湯、トランサミン、抗ヒスタミン、気管支拡張剤、点鼻薬等等、持てる薬剤を集中投入す。夕方三十七度五分。タオルケットに包まって発汗さす。昼は冷凍パスタ、夜はコンビニの冷やし中華


7/6・金
 関東も大雨。咳は残ったが体調はまあまあ回復。今日も自宅待機。午後は小雨。結構涼しい。夕方以降は喉が痛む。夜は発熱した感じ。例によって市販薬と残薬を組み合わせて対応す。昼はスーパーのかつ丼。夜は冷凍食品。家人はどうして食事を作らないのだろう。ああそうか、冷蔵庫に何も入ってないものな。
 文部官僚が、自らの権限を使い息子を医学部に入学させる。併し御金を積んで裏から入学させることは昔からよくある話である。特に医学を学ぶのには物凄く沢山御金が掛かるから、大学側が受け取った御金の一部を教育に還元すれば、他の学生の役にも立つという屁理屈も成り立つ。でも今回の件は異状だな。使われたのは税金だもの。頭の可笑しい教祖は、頭の壊れた状態のまま小菅に消える。他の幹部も同様に。何故此の時期に。色色な解釈があるだろうが、恐らく支持率アップを狙っての事だろう。つくづく権力は怖ろしい。


7/5・木
 幾ら寝ても治らない。色付きの痰が出て来る。三十七度前後の発熱あり。気管支の不調が常態化している。本日は病院で介護施設との重要な面談があるのだが、家人に代行して貰う。午後まで只管静養。家人によると、施設長までやって来たそうだが受け入れ日時は未定とのこと。準備などいい加減で構わないから、兎にも角にも早くやって貰いたい。
 夕方ふらふらで出社。其のまま退社。ベーコンレタスバーガーで麦酒を一缶。朝はコンビニのおにぎり一つ、昼はカップ麺だから治るものも治らないな。


7/4・水
昨夜から小咳。次第に酷くなる。家人が登院し吾人は静養す。此の所ずっと何も面白いことがないから免疫力も下がっているよう。夕方軽く発熱。最早出勤するだけの気力なし。再びの水曜欠勤である。
南風吹き荒れ曇り勝ち。朝は冷凍うどん、昼はコンビニのパスタ、夜はオリジン弁当。「プレコール咳止めカプセル」を缶麦酒で流し込む。


7/3・火
 早朝サッカー。但し後半だけ。ベルギー相手に二対三。結構劇的な逆転負け。リードしてからの展開が良くなかった。先制点が二つもあると却って指揮が混乱するのかもしれない。
 朝から暑くて眠いが、本日も登院す。腹が痛い痛いと宣う老家人にホカロンを張り付ける。すると直ぐに収まったよう。少し中座して祐天寺の花月でラーメン休憩。好きな時に好きな物が食えるというのも考えてみれば体が動けばの話である。無論予算には限度があるし栄養の偏りを避けるためには、完全に好き勝手放題と言う訳には行かないがね。感謝すべきかな。我が食欲に。
病室に戻り昼食の介助。と言ってもほぼ自力で食べていた。続いて担当医の回診。ホルモン剤が効いてナトリウム濃度も回復。また経口摂取も徐徐にできているので今後は点滴も減らすという。来週には退院し介護施設に移送となりそう。
 帰宅後午睡。日が傾いて来た頃に草取り。また介護施設に入るといっても衣類の類は色色と持ち込みが必要である。各種タオルを買いに行く。他の入居者と混同しないようになるべく特徴的な柄の物を複数枚購入した。晩食は全て西友製。「いさきの刺身」なんてのもあり案外旨かった。夜はまあまあ涼しい。猛暑も今日で一段落するらしい。


7/2・月
 雨戸を閉め冷房を掛け、飼い猫の理不尽な攻撃から耐え忍ぶ。朝から炎天。咳と痰が止まらない家人は老家人が入院している病院の外来へ行く。各種検査の結果、気管支炎とのこと。ありきたりの薬が処方される。特別初診料は二千円。御飯と名の付くものが何もないので、昼に炊飯器を稼働させた。コメなど実に十数年振りぐらいに研いだよ。副菜はレトルトカレー
 診察後老家人に付き添っていた家人と交換するようにして千寿に出校。此れと言って何もない一日。町屋に行くもDオーナーは不在。此の所、医師、看護師、理学療法士ソーシャルワーカー以外と口を利いていない。今日も異様に暑い。有名噺家も亡くなる。老家人も此の夏は厳しいな。どういう事態になるのか。


7/1・日
 月が代わってもやっていることはまるで同じ。暑さに加えグレが何度も起こしに来るので断眠酷し。ぼんやりした後、御昼に登院。老家人は車椅子に載せられていた。早速昼食の介添え。ひと眠りの後はリハビリへ。どうにも機嫌が悪く少し歩いて断念す。今日も異様に暑い。昼はオリジン弁当。晩はスーパーの惣菜類。
此の所、洗濯以外の家事全般が停滞。炊飯器など冷温停止して三週間にもなるかな。炊飯器に限らず、まな板も包丁も鍋もフライ返しもガスコンロ等等も何らの価値を生み出していない。今風に言うと生産性ゼロである。尤も外食中食、持ち帰り弁当や総菜購入費は激増しているから、外食産業もスーパーもコンビニも喜んでいる。局所的な生産性を多少向上させたところで経済全体のパイが増える訳ではないことの証左である。そもそも生産性などと言う尺度が可笑しい。生産性逆革命が必要である。帰宅後は介護施設の申込書を書く。