2018年12月

12/31・月

 一日晴れ。今日明日の食べるものが欲しいと言うことになり、吾人が買いに出掛ける。渋谷まで徒歩連絡。ザギンアスターと薔薇の家で中華と洋風のオードブルを購入。合わせて六千円。おせちを取り寄せるより安いな。併し地下食品街は大混雑(例によって大勢の中高年が現金を使っているから支払いが遅い)。今半精肉部など大行列が出来ていた。正月に鋤焼きを食べる習慣はないなぁ。地上に戻り、天神が休みなので風龍で博多ラーメン替え玉付き(650円)。

帰りはバスにした。新人運転手らしくクラッチ操作が覚束ない。一応指導役のおじさんも乗っていたが、みんな無言で見守る。誰にでもルーキーイヤーがあるからね。ところで吾人はどうしていたのだろう。遠い目をしながら思い出すが、あんまり苦労をしたという記憶がない。先生は生徒の成れの果てだから、割とスムースに移行できるというものである。其れに対象人数も少ないしね。

例によって夕方から飲み始める。やっていることは毎年同じだが、拙宅の人口は三分の二になって仕舞った(鋤焼きなど益益考えられない)。寂しい限りである。安スパークリングワインの酔いが回り、心臓がバクバクになる。十時就寝。こうして2018年は終わって行った。何しろ六月からバタバタの酷い一年であった。

 

12/30・日

 宿酔は無し。金宮の御蔭であろう。「いい酒は朝が知っている」とは中中良く出来たキャッチコピーである(確か東北の酒造会社)。従って朝から富士蕎麦が入る。さてさて今日から五連休。まあ吾人の人生に休みは沢山あるから、さほど有り難い物でもない。其れでも仕事をした後の休みとなると矢張り開放感が違うな。辛く厳しい労働があっての休暇である。家人眩暈につき、吾人が買い物に出る。今年はおせちも取らなかったので色色と買わなくてはならない。田作り、黒豆、なます、数の子、何れも極小サイズのものを購入す。

 東京駅で新幹線が動かせなくなり、東日本の新幹線が終日混乱。もともと手狭な上に、臨時列車も目いっぱい組んであるからどう仕様もない。ピーク時は上野や大宮始発も作ったらいいと思った。東京の西に住んでいると大宮から乗っても実は大して変わらない。此れは湘南新宿ライン埼京線の御蔭だな。新幹線リレー号が走っていた頃にはどちらもなかった。併し指定席が増えると異常時の対応が難しいなあ。再開次第全車自由席で運んでしまうのが一番能率がいい筈である。

 

12/29・土

 今日まで講習。午後出社。教える側も教わる側も既に年末モード。詰まり気もそぞろである。退社後、月波君が来る。まず古い天ぷら屋へ。二年振りぐらいかな。親父さんは具合が悪いらしい。奥さんと娘さんが厨房に立っていた。真面目な店だから客の扱いも真面目過ぎるんだよね。娘さんが店を引き継ぐのならば一度スナックか何処かでアルバイトした方がいい。天丼と熱燗二合を平らげてもまだ寒い。暫しバーIに避難。最後は佐渡屋に駆け込んだ。金宮焼酎をお湯で割って牛飲す。帰宅は十二時ぐらい。

 

12/28・金

 結構な寒さ。午後出社。愈愈向かいのお肉屋さんも施設に移ったとのこと。息子と娘さんからは絶縁され、住む家(賃貸)も失い、店舗に寝泊まりするという異常な状態が一年半も続いていた。此の間、認知症も進行し健康状態も悪化。傍から見ていても可哀想であった(吾人は亡父のコートを寄付したけど)。行く先は川の向こうの無料低額宿泊施設。色色と評判が良くないことは知っている。お肉屋さんは十五の頃からずっと働いてきたというから、もう少しいい所に入れてやれればとも思う。でも何しろ早く室温が管理されたところに移った方がいい。寒波襲来の前に入れて良かったというべきである。そして廃墟と化した店が残った(超超熟成した在庫も)。此処の処理は誰がするの?

 退社後は立ちのみBへ。鰻犬先生と須々木さんが居てくれた。大変残念なことだがお話し内容が今二つ。バーIへ避難す。先客は無し。店主と暫し歓談す。出来れば美女と出合いたかったが、やって来たのは井満さん一人。早速五年前から何度も聞いているお話をされていた。一日の終わりが壊れたテープレコーダーではねえ。早早に帰宅する。全部で四千円。

 

12/27・木

国際捕鯨委員会から脱退するとのこと。てっきり松岡気取りかとも思ったが、案外そうでもないらしい。此れで評判の悪かった南極洋の調査捕鯨からは撤退して、沿岸の小規模商業捕鯨にシフトする。まあ身の丈に合った形への転進かな。江戸時代くらいの捕獲高なら許して貰えるだろう。近海物の非冷凍品は頗る旨いと聞くが本当かなぁ。今日も御昼に出社。退社後は立ち中華とBと連戦して帰る。夜は冷えた。

 

12/26・水

 朝のお勤めの後は、昼のお勤めに。今日から冬の講習である。千寿校に他の先生を送り出した手前、銃後の守りを固めなくてはならない。本務校にて八時過ぎまで勤務。午後に付け麵。退社後は立ち飲みBで少し飲んで帰宅。

 今朝の「文芸時評」(磯﨑憲一郎)は中中良かった。詳述は避けるが、延命治療=やるも後悔、やらぬも後悔。そういう逡巡の中に人人は常に立たされているのである。スーパードライの息子さんや炎上商法で有名な社会学者さんはそう言うことが分からないのだな。此れが若手論客の実力である。想像力と言うものを持たなくてはね。

 

12/25・火

 まあまあの晴れ。アメリカから株安が伝染し、東京も二万円割れ。といっても我が人生に何の関係も無し。家人は鎌倉へ。午後税理士さんがやって来る。前回と同じ税理士法人だが、今回来た人は違う人である。一応税理士資格はあるようだがまだ若い感じ。新人だろうな。色色と協議した結果、御金が勿体ないので準確定申告は吾人がやることにした。早速目の前の専門家に助言を仰ぐ。例によって修繕なのか設備投資なのかで迷う支出があるが、そもそも築四十年だよな。全部修繕費として付けようと思う。

なお例によって相続税の申告にはまたまた細細な書類が膨大に必要とのこと。未収金の扱いだとか、葬儀費用の明細だとか、臍繰りの有無など、不動産価格から見たら微微たるものだが考え出せば誠に切りがない。其の内に自動販売機でも領収書を出す世の中になるだろうと思った。税制は簡素に、いっそ法人税所得税と固定資産税と消費税だけにして貰いたいものである。でも消費税は今後うんと複雑になるのだっけ。諸諸に色色と聞いているだけでうんざりする。そんな打ち合わせだけで二時間も掛かった。

 

12/24・月 

 天皇誕生日の振り替え休日。来年からは休みでなくなる日である。朝のラジオから聞こえて来たトニー谷のクリスマスソングが面白くて良い目覚め。昭和歌謡は奥が深いね。ネット上の百科事典で見ると破滅型芸人と言った感じの人だけど。冬型の晴れが戻る。風が強く桐も楓も漸く散った。落ち葉掃きを数度、買い物は三便。猫餌に雑煮用の小松菜、昼の弁当、晩食のおかず。世帯年収も減ったので豪州産の牛肉をチリワインで流し込むことにした。他には三百円のぶり刺しを外猫と分け合う。

年賀状を止める年寄りも多いと聞く。年賀状じまいというらしい。いやいや、這ってでもミミズがのたくった様な文字でもいいから、年賀状くらい出さなくては駄目だぞ。亡父も年賀状を止めた頃から急激に衰弱した。何事も気からである。

 

12/23・日

 朝の内から出鱈目散歩に出る。まず82系統で等々力、以後多摩川に出て、丸子橋を渡る。再び適当なバスで高津に出て、二子橋を歩いて戻る。ところで目黒通りを延長して其のまま多摩川を渡す計画があるそう。ならば散歩のパターンも広がると思った。橋が出来れば江戸時代の多摩川の改修により離れ離れになった世田谷の等々力と川崎の等々力が繋がる筈だが、いや併し完成は何年先になるのだろう。問題は川崎側の道路整備だろうな。二子から都立大まで再びバス移動。以後飲食店を探しながら歩いたが、まだ何処も開いていない。結局歩き通して地元の古い蕎麦屋に入った。店内は余りに暗く、出て来たものは大したことがなかった。古いだけではねえ。午後は再びの小雨。肉屋で鶏を買って夕方から飲み始める。時節柄ワインは赤色にした。

 

12/22・土

 朝のお勤めとして砂肝のようなものを流した後は取り立ててすることも無し。散歩に出たら雨が降り出す。堪らず「天下一品」に入る。「こってり」を頼む力がなく、「あっさり」にする。不味くはないが、あっさり味は家でも作れるな。矢張り中間のものが欲しいと思った。

さてさて夜になったところで、大したこともない。世の中はクリスマスだの正月などと言って騒いでいるが、実父も亡くなり老母と二人きりになって仕舞った家庭にはおおよそ無関係である。六時前から吾人だけ飲み始めた。併し一年前はどうしていたのだろう。恐らく亡父はよろよろと起きて来て、何だか詰まらないことを言って、多少なりとて何か食べて、もう眠いと言ってまた寝に入ったところかなあ。いや併し全く以てよく思い出せない。其の思い出せないことが、一定の幸福であったと何処かの歌手が歌っていたなあ。

 

12/21・金

 怒り出した韓国の人人も次次と訴訟を起こしている。日本企業に続いて自国の政府も訴えることに。与り知らぬところで勝手に請求権を消滅させられたのだから怒る気持ちも分からないことはない。大体此の国の空襲被害者も救済されていないのだからなぁ。なお自動車会社の会長も愈愈保釈されると思ったところで再び逮捕される。今度は特別背任らしい。無間小菅生活である。特捜部が意地になってやっているから所謂国策捜査だな。またまた国際的非難を浴びそう(考えてみればこういう外圧って今までなかった)。併しどのみち大した罪には問えないだろう。此のまま御引き取り願えれば、其れで十分である。

さてさて健康診断の日。亡父の件もあり、一丁目の診療所に向かう。初めて掛かる所である。夫婦でやられていて眼科も併設なので何かと便利だと思った。例によって立ったり寝たり採ったりす。眼圧は矢張り高め(=22)。序でに画像診断もして貰う(追加の診療報酬200点)。左目の一部に問題があるそうで、年明けの視野検査を予約す。愈愈来たかな。結果が悪ければ目薬生活が始まる筈である。やれやれ、結論はどうあれ、一段落。昼は新しい中華屋で油淋鶏定食(900円)。何だか食べ足りず更にクリームパンと巻き寿司。爆食である。何しろ二十時間殆ど何も食べていなかったからね。須見伯母が来たので、隣の空き家を案内す。堆積していた古い賞状なども少し見せたが、伯母は旧漢字でもすらすらと読める。戦前に教育を受けた人は矢張り違うね。夜の大量飲酒も再開。

米国の国防長官も辞任。海兵隊出身でありながら常識人であった。いやいや、こういう言い方自体少し正しくない。大体軍人上がりが常に狂暴人とは限らないからね。併しこういうバイアスが掛かって仕舞うのは日本人特有かもしれないと思った。何しろ此の国の陸軍出身者には碌な人物がいなかったから。

 

12/20・木

 今日もまあまあの晴れ。午後出社。昨日と同じように取り立てて特徴のない一日。Bに行くも、誰とも行き合えず。二杯飲んで其のまま帰宅。こうなると入浴だけが楽しみなのだが、急いで戻ると家人が丁度入る所であった。抑止されること二十分。二人しか居なくなったのにどうしてこういうことになるのだろうと思った。其の間シロを抱き寄せ、散散捏ね繰り回す。

ところで新スマホになって二週間。流石に新しい物は良く出来ていると感じる。音声入力も質が上がり、とんでもない誤変換も無くなる。また久久に古い方を動かそうと思ったが、既に動かし方を忘れかけていて驚いた。去るものはね・・・。

 

12/19・水

 まあまあの晴れ。午後出社。取り立てて特徴のない一日。退社後は立ち飲みBで二杯だけ。ますます特徴のない一日。

 

12/18・火

 T氏はまた次次と側近を解任している。ところでT氏を政界に導いたのはO氏だったのだという。大統領晩餐会で小馬鹿されたことを根に持ち、出馬を決意させたそうである。O氏もとんでもない事をしてくれた。真面目な同氏の事だから今頃慙愧に耐えないと言っていることだろう。

 終日晴れて暖かい。さてさて相続手続きも一巡すると取り立ててすることもない。朝のお勤めはしているが、此の時期は草も生えないし、落ち葉掃きもほぼ終了。年賀状も出さないとなると師走と言うより師閑である。健康診断の予約をし、昼は防空壕のような中華屋で上海焼きそば。此の三日間は減塩節酒である。買い物は三便。牛肉が食べたかったが、世帯年収も減っているので挽肉を使った厚揚げ麻婆豆腐にして節約す。ただ外猫様たちには高そうな猫の写真が付いた餌を食べさせた。「モンプチ史上、最高の美味しさ」を謳うだけに流石に食い付きが違うね。

 

12/17・月

 朝方は冷たい雨。以後晴れる。午後千寿に出校。年末年始の講習は別の先生に出て貰うことになったので千寿校とは当分のお別れ。S子先生とも顔を合わせないので清清す。生徒を罵る以外に言葉の使い方を知らないような人と同じ場所にいること自体、精神の大いなる摩耗を強いられる。るんるん気分で「大江戸」で熱燗と寿司を数皿摘まんで帰る。

海狸も白熊君も海外原発計画は諦めたよう。正しく大清快、じゃなくて大正解である。札幌の不動産屋が爆発。巻き添えで隣の居酒屋も倒壊。幸い死者は出なかったが、使い切れなかった大量の消臭スプレーを放出中に湯沸かし器の火が引火したよう。こういう災害もあるのだね。矢張り安全管理学部を作るべきである。

 

12/16・日

 曇ったままで朝からずっと寒い。買い物は一便。居間もエアコンだけでは十分暖まらない。時時ガスファンヒーターで増援する。夕方月波君が来たる。曰く授業で疲れたと。いまだに放送大学に通っていて今日は朝からスクーリングだったとのこと。熱心と言えば熱心だがよくやるねぇ。週に数度授業する身としてとしては、授業をするのは面倒だが、授業を聞くのはもっと面倒である。歳を取ると段段我儘になり大体一時間半以上じっとしていられない。だから映画館にも行かないし高速バスにも乗らない。一日中講義を受けるなど正しく悪夢である。「とらや」「ほていや」と連戦して帰って貰った。夜まで寒い。蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを飲んでも震えて戻る。行火を効かせて十時就寝。

 

12/15・土

 今日も冬晴れ。早速ボロ市会場まで徒歩連絡。既に人が多すぎて会場に入れず。やむなく其のまま豪徳寺まで歩き、「りらくしん」という店で二郎系ラーメン。割と年配の御夫婦でやられているよう。此の手の店としては珍しい。独学したのかなあ。チャーシューやスープも旨いしサービスも良かった。満員の世田谷線で帰宅。午後は漫然とす。晩食は残り物を総動員。辺野古の埋め立ても開始。馬鹿どもに権力を与えているのは、より一層の馬鹿どもだからなぁ。

 

12/14・金

 漸く晴れた。家人と共に吾人もいざ鎌倉へと向かう。まずバスに乗り祐天寺駅に。すると埼玉の方で踏切確認をしたとかで東横線がもたもたしていた。予定していた横須賀線に乗り遅れる。中距離電車を一本逃すとあっという間にぎりぎりになって仕舞う。やむを得ず駅からタクシー移動(730円)。自宅で看取られた伯父さんは葬儀会場も自宅である。親戚縁者が凡そ三十人。和尚さんも二人。高輪の由緒ある御寺から来たというから御布施も180万円!だそう。其のまま最後のお別れとなる。伯父さんは元元痩せていたから既に骨と皮といったところ。色色と大変だったな。鎌倉の伯母さんも首の調子が悪そう。介護生活も長かったからね。

 此処で鎌倉の伯父さんについて少し述べる。昭和二年生まれだそうで中学校の教員を定年まで務める。以後カイロプラティクスの治療院を営むなど多芸な人であった。植木の手入れも一流の腕でしばしば拙宅にも遠征を願った。勲章も貰ったそう。ただ賞状を発行した総理大臣がAではね・・・。そう言うことはさておき、今一度合掌す。吾人にとっては温厚な好い伯父さんであった。

マイクロバスを仕立てて山の中腹の火葬場に向かう。此処も民間施設のようだが焼き台は二つしかない。桐ヶ谷巨大ターミナルに比べると田舎の駅と言ったところだと思った。一時間ほど待って収骨。炉が古いのかな。時間も掛かったし、残った骨も多かった。みたび合掌。再びバスに乗って、駅横のザギンアスターで精進落とし。五時前には解散す。もう少し飲みたかったが、本日は此れで御仕舞。其のまま帰宅。帰りも東横線。特急に乗ったが混んでいる上に一つも速くない。其の上、踏切とカーブも多く、危なくて見ていられない。東京と横浜を結ぶ主要幹線が此の程度である。例の国土強靭化で予算を持って来られないのだろうか。大事な交通インフラである。いやしかし、今回は喪主でも施主でもないが葬式と言うものはやっぱり草臥れる。夜は再びの胃痛。大して飲んでないのに可笑しいな。まだ胃腸が治ってないのかな。本日は中華一食のみ。

煽り運転の被告に重い判決。国民皆免許制度は民主国家の証だから、こういう人でも運転出来て仕舞う。「馬鹿どもに車を与えるなっ!」(海原雄山)という訳にも行かないからなぁ。

 

12/13・木

 結局曇って寒い。此の頃寒くても晴れない。まるで日本海側のよう。家人は通夜へ。吾人は本務校へ。講習の予定を詰めた。金五万円受け取る。留守宅と外猫が心配なので急いで帰宅。

 米中貿易戦争は新たな段階へ。中国製IT機器の排除に向かうことに。いやしかし、スマホの中に秘密の機械が仕込まれていて勝手に情報が抜き取られるだなんて、ややスパイ映画染みている。言いがかりだろうな。

 

12/12・水

 朝方に電話があり、昨夜遅く鎌倉の伯父さんも亡くなったとのこと。享年九十一。家人は急行す。また葬式である。午後家人帰宅。家族に見守られた穏やかな最期だったという。何しろ鎌倉は息子が四人、嫁さんが三人、孫多数と言う構成だからね。拙家とは偉い違いである。入り替わりで出社。退社後は立ち飲みBで二杯だけ。朝方は小雨が残り午後も曇る。夜は北風強し。

 

12/11・火

 散散だった臨時国会も閉幕。十連休法案も可決される。天皇制云云以前の問題として国民は大喜びである。何しろ休めない国民だからね。さてさて吾人とてどう仕様。提灯行列なぞは見たくないから、数日くらいで何処かへ避難しようと思う。小田急と各駅停車を乗り継いで西の方へ。逃亡者のようにビジネスホテルを泊まり歩いて。土佐中村で幸徳秋水の墓参りとか面白そう。ところでこんなに沢山休みになって一番困るのは医療機関だろうな。特に大病院は連休前後は壮絶な超混雑となりそう。ああ恐ろしや。また山手線の新駅の名称に批判が集まる。名前云云以前の問題としてわざわざ公募させておきながら、序列百三十位のものを採用したのだから、そりゃあみんな怒るよな。要はプロセスの問題である。ちなみにゲートウェイで思い出すのはパソコンだな。大貧学院第一号の其れがゲートウェイ社製であった。あっという間に壊れて其の内に会社ごと日本から無くなった。

 午前中に銀行員が来て相続手続き。管轄がリテール部に移ったので担当は吾人より年上の女性職員となる。切り者風の課長代理とはもうお別れ。財産目録作成に向けて通帳を提出す。打ち合わせは一時間程度で終了。午後も寒い。雪でも降ってきそうな気候となる。遺族年金支給開始通知が送られてくる。矢張りひと月十一万円余。何も面白いことがないので豚キムチ鍋で飲酒も解禁。缶麦酒と白ワインを少少。夜は大雨。

 

12/10・月

 曇り勝ちで朝は三度程度。急に寒くなった。午後千寿に出校。「福しん」の炒飯で御仕舞。帰宅後は隣の自販機で強炭酸水。断酒も五日続いた。就寝時には亡父の残した電気行火を使ってみる。案外暖かくて重宝しそう。そろそろこういう器材を使い始めてもいい年齢である。

 

12/9・日

 朝から出鱈目散歩。田園調布までバスで出て、以後多摩川に。左岸を北上。二子玉川を素通りして用賀の「柳屋」という店でラーメン休憩。もう一駅歩いて電車で帰った。交通費350円。二万歩以上。多少陽が出たが非常に寒い一日。そう言えば環八で「名古屋」というボードを出してヒッチハイクをしていた若者二人組が居たがどうなったかな。青春18きっぷは明日からだから、車に賭けたのだろう。ハイリスクハイリターンだな。夜は豆乳豚肉鍋に中無しホッピー。禁酒四日目。異様に寒いので猫小屋にも懐炉を入れた。ちなみに亡父が使い切れなかったものが大量にある。

 

12/8・土

 早速朝のお勤め。排水桝には馬並みのものが鎮座している。二杯掛けて漸く流れて行った。大食いタレントでも居るのだろうか。そういう人は入居禁止である。続いて蔦の刈り取り。其の後は西友に行き、直管を購入。取り敢えずもう二本交換した。しかし折角当該クレカを使えば5パーセントオフになる日なのにカードを使っている人は皆無。此の店の御客は圧倒的に高齢者だからかな。本当は高齢者こそカードを使って貰いたいものである(御金の受け渡しで圧倒的に列を止めている)。残念ながら人の行動は容易には変えられない。増してスマホによる三次元バーコード決済など四十代以降は無理だな。詰まりある程度キャッシュレス化するにも世代交代を待つしかない。吾人の計算だとあと二十年は掛かる。

 午後は家人達ての希望でガス台の交換工事。下の台ごと替えて約二十万円。大変な出費である。当然現金払い。家人にとっては(恐らく)最後のガスコンロだろうけどね。どういう訳だかコンロは三口となった。もうそんなに料理もしないだろう。大体高齢者にマルチタスクは不可能である。晩食も電子レンジしか使わなかった。本日も無酒。

 

12/7・金

 さてさて朝から冷凍饂飩。勤労意欲が漲って来たが取り立ててすることがない。まあまあ晴れた。家人は再び鎌倉へ。昼は「かしわや」のカレー。何だか食べ足りず更にカップ麺。夜はスーパーのとんかつ弁当にノンアルコールビール。基本的にはスマホゲームの日。併しアプリと言われるものは無限に存在す。皆スマホばかりやっている訳である。

 外国人材法案を巡り国会は大荒れ。議長を含めて与党議員の横暴酷し。何をやっても支持率が下がらないからな。兎に角あの評判の悪い技能実習生制度だけは早く直すべきである。

 

12/6・木

 結局年に一度あるかないかという最大規模の宿酔に。朝から七転八倒す。午後になっても回復せず。苦しんでいると設備屋さんが見積り書を持ってくる。排水管と排水枡を全部取り替えて七十万円。予想の倍である。まあこうやって朝のお勤めを何年何十年(最大で二十年)も続ける訳にも行かないから、辛くともやらざるを得ない。

過大な見積りのせいかまでかは分からないが以後宿酔はますます悪化。とうとう赤いものまで出た。回復は午後五時頃となる。遅れて出社。退社後は立ち飲みBでノンアルコールビールとホッピー外と煮込みの豆腐とシラスおろしのみ(850円)。暫らく禁酒である。午前中は雨。通信設備が故障したとかで全国的に携帯電話が使えなくなるトラブルがあったが寝込んでいたので実害はなし。

 

12/5・水

 月曜から自宅に戻った鎌倉の伯父さんも愈愈危ないらしい。今年は本当に・・・。また依然としてラインは移行できず。暫らくは二台体制である。旧端末もワイハイ環境下なら使えるので。

 朝から曇り。ずっと暖かいまま。一転して本日は無予定。猫小屋を冬仕様にし、義雄伯父さんの遺品を福沢研究センターに発送す。送料1380円。三田ならば担いで行った方が安いだろうが、何となく慶応は敷居が高い。愈愈此れで寄付者芳名録に吾人も出るな。

御昼過ぎになってラインが漸く復旧す。吾人が出鱈目な操作をした為に二十四時間封鎖状態になっていた模様。ポコポコも再開。此のパズルゲームが辛いことの多い時期の安定剤のようになっていたから、1001から始められるのは素直に嬉しい。一日遅れてスマホ新時代である。

午後出社。面談の資料作りとかAO入試の志望書の代筆などで結構忙しい。退社後は立ち飲みBへ。天屋先生と話しが盛り上がりバーIに行くことに。途中卒業生のKさんと出合う。折角なので同席させる。翌日の乗務に問題のないように一杯飲ませて帰したが、以後吾人はすっかり上機嫌になる。調子に乗って大量飲酒。帰宅は何時?

 

12/4・火

 曇っているが暖かい。朝方にガス警報器の交換。続いて吾人の携帯電話の更新に参る。半分くらいのデータ移行は割と簡単に行ったが、肝心の無料通信アプリ=ラインの継承は御自身でやって下さいと言うことに。拙宅に戻り挑戦す。結局汗びっしょりになっても巧く行かず。此のままだと1000ステージまで進んだラインポコポコもアウトだな。こういうことになるのが嫌だから家電の類は壊れるまで使う主義なのだが、携帯電話というものはほんの二三年も使うと二進も三進も行かなくなるのである。引き続き格闘している内に午後になる。

 本日は隣りの測量と地盤調査の日でもある。S君や住宅メーカーの人のほか、三人ほどがやって来て二時間くらいで終了。尤も売却する訳ではないからそんなに厳密ではない。以後本格的な設計と見積もりに入る予定。既に建て替えに向けて勝手にどんどん進んで行く感じである。此方は万事お任せで楽でいい。ただ太陽光パネルだけは費用が掛かっても付けて欲しいとの要望を出した。また信託銀行の人からも電話があり、先方から遺言書の内容で概ね良いという御返事を頂いたとのこと。取り敢えずは一つ前進。

ちなみに携帯電話料金は通話プランを見直したが、データプランは五十ギガまで増強され、月月の支払いが一万円を超える計算に。幾ら新型になったとは言え、標準的な月の電気代や水道代や新聞二紙代よりも高い。何かしら世の中、間違っていると思う次第である。官房長官でなくとも怒るよな。午後から南風が吹き荒れ、冬が来る前に春一番のようなお天気となる。恐らく今年で最後となる楓の木も盛んに葉を散らす。なお松と梅と大きい方の楓は残す算段が付いた。諸諸に格闘している内にあっという間に晩になる。夜は大雨。

 

12/3・月

 概ね曇り勝ち。午後千寿に。こうして週に一回は隅田川を潜っているのだが、例によって地下鉄だから地上の事は何も分からず。途中駅ビルで『小泉信三』と『原発とジャングル』を購入。少し本を読もうという意欲が出てきた。クレカで決済するとレシートが何枚も出て来て署名が必要とのこと。お互いに面倒臭い。近所のスーパーではガチャンと通すだけで済むのだが。結局キャッシュがいいと言うことになるな。また千寿駅のみどりの窓口は大行列。Uターン切符の発売日である。あれだけの大駅で口が二つでは足りないよな。此方は態と混ませてネット購入に誘導しようという腹積もりなのだろう。退社後は「小諸蕎麦」を立って食べて御仕舞。其のまま帰宅。ビール一缶。ほぼ休肝日。

 

12/2・日

 勉強用の座卓も売れたよう。概ね曇る。其の分寒い。月波君が都心の紅葉でも見ましようと言うので、のこのこと出掛ける。まず32系統で渋谷へ。着く度にバス停が動いている感じがする。少し見聞す。新プラザは完成間近、此処にバスターミナルが丸ごと入るのだという。一方国道の向こう側の桜が丘地区は既に退去が済んでいる。数十の雑居ビルを叩き壊して巨大なタワービルを作るそう。此の辺の地下の立ち飲み屋には何回か行った。知っている渋谷がまた無くなる。

続いて都バスで新橋へ。客乃間も合流して適当な串揚げ屋でまず一献。浜離宮を見ようと海方面に徒歩移動。此の地区には名だたる大企業の本社ビルやタワーマンションが林立。こうやって見ると日本経済絶好調なんだけどなぁ。東京の本社が何もかも吸い上げて仕舞うのだろう。だから地方や非正社員や出入り下請け孫請け業者様に御金が回らない。正しく首都=キャピタルである。

 園内を暫し散策す。丁度船が出るというので乗って見る。外国人観光客に交じって隅田川を北上す。併し都内、と言っても世田谷に住んでいると此の辺の事はよく分からない。多摩川鶴見川相模川は直ぐに分かるのだが、江戸川と荒川の区別が付かないのである。折角なので客乃間に解説して貰った。彼は江戸時代以降の河川工事の歴史にも詳しい。

終点の浅草上陸。ひょんなことから浅草に来て仕舞った。となると「神谷バー」で電気ブランを二杯。序でに浅草寺にお参りす。暗い時間でも境内は大混雑、半分は外国人と言ったところ。続いて「ニュー浅草」。相変わらず安くて旨いが、もうふらふらで胃がざらざらである。特に此の二ヶ月近く飲み続けていたから悪酔いも早い。七時半過ぎに帰宅。其のまま就寝。

 

12/1・土

 朝から西友へ行き、蛍光管を購入。正確には二十形直管式LED。最近一本千円を切り始めた。早速家作の廊下に取り付ける。電気代半分、寿命四倍。暗くなるのが楽しみである。

昼は「だいまる」という店で濃厚煮干し付け麵。旨いことは旨い。大盛りにサービスしてくれたが、麺が多いとつけ汁が冷えて仕舞うのが欠点なんだよな。今度はラーメンにしよう。家人は再入院した鎌倉の伯父さんの見舞いに。となると崎陽軒の幕の内弁当。晩になって見てみるとまあまあ明るい。あと三本買って来ようと思った。夜は冷えた。