この時代にどうして学校は存在し続けられるのか?

10年ぐらい前でしょうか、「学級崩壊」がいろいろと問題になりました。最近では、「学力低下」や「モンスターペアレント」が話題となっています。どちらも厳しい教育現場を象徴するようなキーワードです。その都度、学校は厳しい目にさらされてきました。
厳しい批判の矢面に立つ日本の教育ですが、たとえば公立の小・中学校は、少子化の影響もあって30人学級までとは言わないまでも、いろいろと工夫して以前より質の高い教育を行っているとは思います。最近の教員はよく頑張っています。(これは塾講師としての実感でもあります。)でもそれ以上のペースで教育の現場が崩れ、子どもも教員も疲れ切っているのはなぜでしょうか?
話は変わりますが、学校というとかつては、労働力の供給元=従順な主体を生産する場として、それこそイヴァン・イリイチなどには、散々批判されたものでした(『脱学校の社会』)。その学校教育が崩壊しかけているのだとしたら、これは歓迎すべき事態なのでしょうか? でも、イリイチの念願かなったりというわけではないようです。
結論から言いますと、今日、主体を生産する場は、すでに学校という場から離れ、社会全体に拡散されていると言えます。
学校の教員や学校制度は、もはや堅牢な管理者ではない。たとえ、うまく管理された主体(=生徒のこと)として、上手に過ごしたところで、社員としての未来は保証されてはいない。この国の高校卒業段階での求人の無さは絶望的です。出口(俗に言う「いい就職」)が壊れているのですから、内部の秩序が維持できないのも当然です。したがって、先生の言うことをよく聞いて勉強したところでしょうがない…という風潮になるわけです。この意欲の低下が学級崩壊と学力低下を引き起こしていると言えます。
では一方、学校という枠からこぼれ落ちた階層はどうなるのか? 今日、劣位者として、より一層厳しい立場で労働市場に立たされています。
このすぐそばにある貧困や転落へのリアルな危機意識が、かえって学校を存続させているのだと思います。学校を出たところでどうにもならない。でも出ないことにはさらに悲惨な結果が待っていると。この危機感が、もはや当然のこととなってしまった学級崩壊が、学校教育の全面崩壊(具体的には不登校や高校中退の激増・大学進学率の減少など)につながることへの大きなストッパーになっています。それどころか、かえって少子化と大学増設と相まって大学進学率は衰えを見せないのです。
これはいわば〈恐怖による支配〉であると言えるでしょう。従来はいい学校→いい就職→いい生活という〈希望による支配〉だったものがちょうど入れ替わったことになります。
「ほとんどすべての者が口をそろえて言うように、今日当該の諸制度(学校や家庭)そのものがいたるところで危機に瀕し、壊れつづけているような状況下で、そのような主体性の生産はいかにして可能なのか? ―(中略)―〈帝国〉の社会における主体性の生産は、いかなる特定の場所にも限定されない傾向を持っている。諸制度はたとえ故障しても稼働し続けるのである。そしておそらく、諸制度は故障すればするほど、より一層うまく稼働するのだ」(アントニオ・ネグリ『帝国』)
社会全体に漂う恐怖心が、人々をより従順な主体へと作りかえている。それを生み出す元が、グローバル化ネグリの言う新しい〈帝国〉)による競争の激化ということになります。この恐怖心が、皮肉にも、子どもと親を学校にかろうじてつなぎとめてきたと言えるのではないでしょうか。それが沈みかけた船であるにもかかわらず。
そして今日、その沈没はいよいよペースアップしてきたと思われます。高校や大学(そして塾も!)の学費がもう払えない…、という声が方々から聞こえていますから。