15年5月

5/31・日
 日中三十度を軽く超える。今年は五月が異様な晴天続きで、梅の実も早く育った。よって朝から梅仕事。脚立に上って粗方捥いだ後は、竹ざおで叩き落とす。数キロも取れて、四瓶も付けた。
 昨夜の地震では電車とエレベーターが止まり、散散な目に遭った人が大勢出たという。吾人は電車に乗るのは週一回。エレベーターで昇るようなビルとは丸で縁がない。災害には強いが、何だかそれも少し寂しい生活である。
五月も今日で御仕舞。今月は一万二千字弱。書き漏らしたことと言えば、駅前通りの割と大きな八百屋が先月末で閉店したこと。これで駅への途上の一般小売店は大手チェーン店以外綺麗さっぱり無くなった。みんな何処で買い物をしているのだろうかと訝る日日である。


5/30・土
 朝からかんかんに晴れた。すると当然お洗濯である。家人は早朝から全自動洗濯機に張り付き、すすぎが足りない、脱水が長過ぎると、ああでもないこうでもないと機械相手にいちいち文句を垂れている。吾人はついイライラして、「結果を見てから文句を言え」と怒鳴り散らした。
 幾つかの区間は内陸に移し仙石線は完全復旧す。しかも東北線と接続させ、快速列車はそちらを通すという。電化方式が違うから新型車両も就航させた。JRも少しはやる気を出したようである。
 夜の八時過ぎにお酒を飲んで酔っ払っていると、二度に渡ってぐらぐら揺れた。小笠原辺りの深い地下が動いたよう。揺れの間隔が開いていたのは、震源までが遠いから、P波とS派が随分離れたのだろうと思った。


5/29・金
 今度は屋久島の隣の口永良部島が噴火するも、幸い大きな被害は無し。日中曇り時時少雨。夜は通り雨。漸く涼しい。午後遅く出社。金伍萬円受け取る。退社後は中華立ち飲みに延延と居て、十二時を回る頃に帰った。


5/28・木
 件の洗濯機配達される。旧型処分費を入れて六万円余り。全自動だが乾燥機能の無い一般型にした。すると価格帯の安い物は、ナショナル製品であっても全てメードインチャイナ。円安の折り、相当値上がりしたのだろう。ちなみに外で洗濯物を乾かしたがるのは、先進国では日本ぐらいだと聞いたことがある。高層住宅ではそれも出来ないらしいが、余計な電気を使わないで済む。太陽で出来ることは太陽にやらせるのが筋というものである。
 午後は首相Aの質問者に対する野次を耳にする。もはや首相が野次を飛ばしても平気な国会になって仕舞った。政治と国会の堕落である。それにしても、質問者に対して「早く質問しろ」とは、前代未聞な内容である。下らない案件で、国民と国会に大変な迷惑をかけているという認識はつゆほども無いらしい。
其の後、千寿に出社。行きしなは新書の『道路の日本史』を読む。筆者は歴史家ではなく、道路の専門家。月波君の運転で色色と峠に出掛けるうちに、道づくりに興味が深まった。
古代は中国直伝の高速道路並みの駅路が敷かれたが、律令国家の衰退とともに、あっという間に地面の下に埋もれて仕舞ったという下りが面白い。道路の維持には誠に御金が掛かる。以後近代に至るまで日本の道路は徒歩旅行を前提とした急峻な狭隘路となる。退社後は讃岐うどん店へ。夜は御客が少ないらしく、生麦酒が無料で付いてきた。


5/27・水
 それにしても日日不思議に思うことは、こうして米軍の下働きをすることが戦後体制からの脱却だと、首相Aが固く信じている点である。まずアメリカありきで全く自立していない。それこそ戦後体制そのものであると、どうして考えないのだろうか。
それにどうしても機雷を掃海して欲しいというのであれば、多少勿体ぶって、特別措置法で対応すればいい。また海にぷかぷか浮いている危険物の除去ならば、所謂国際貢献の範疇にも収まるだろう。態態集団的自衛権を行使し、一般法まで作って仕舞えば、出て行くことが当たり前となって仕舞う。自衛隊を大安売りすることが、為政者の仕事とは思えない。大抵常設展より特別展の方が価値があるものである。
 野次に笑い声に途中退席、昨日の本会議は散散だったと今朝の新聞が伝えている。中継が無いと国会議員も駄目である。野党がだらしないというが、与党を此処まで勝たせてしまったのも、国民の投票行動と悪い選挙制度の結果であろう。
 今日も三十度超え。午後遅めに出社。退社後は中華立ち飲みへ。其のまま帰宅す。


5/26・火
 安全毀損法案が審議入り。併し初日は本会議審議の為か、中継は無し。国民としては是非見たかった。此れでは公共放送の役割を果たしていない。
 かんかんに晴れて、滔滔三十度を超えた。火曜不出社だが、一切の屋外作業は困難。また、こうも暑いと方方の学校で救急搬送が相次ぐ。此の時期は例によって運動会の練習である。我が無駄ばかりの人生において、運動会の練習、就中入退場行進の練習ほど無駄なものは無いと思う質である。だからそんな無意味な行進をしていて救急搬送されたと聞くだけで、耐え難い苦痛を感ず。全ての運動会を止めて仕舞えとは言わないが、気候変動の折りに付け、これからは早春か晩秋に行うべきである。
 昼は隣町の手作り弁当を買いに行く。夜は家人に冷やし中華を拵えて貰い、冷たい麦酒を飲んだ。


5/25・月
 午前中、老家人は近くの大学病院へ行く。というのも来月愈愈白内障の手術を受けることとなった。その予備診断の結果が思わしくなかったので、今回精密な検査を受けた。心電図に問題があったというが、細かく調べてみたところ、経年劣化以上の異状はなし。直ぐにけろっと帰って来た。
それにしても、こうして年寄りの体を色色と調べて貰えるのも、国民皆保険制度の御蔭である。検査漬け、薬漬けなどと言っては、真面目な医療関係者と保険制度に失礼であると思った。ちなみに老家人は今年九十である。目がはっきり見えるようにして頂いて、しっかりと物事の本質を見極めて欲しいと思った。
 午後にぼんやりとシロの背中を撫でていると、震度3から4の地震がある。割と揺れたが、シロは丸でしらんぷりである。猫の前は犬も飼ったことがある。初期微動の段階から、わんわんと吠え出した「コロ」に比べ、猫はどこ吹く風と言った体裁である。始終上ったり下りたりして体をくねらせているから、揺れには相当鈍感なのであろう。
 其の後、厭厭出社。何度やっても因数分解が出来ない。こういう頭の子に態態数学をやらせても、数字には酷い目に遭ったという一種の被害妄想を植え付けるだけであろう。実に下らぬ仕事である。
退社後は例によって中華立ち飲みへ参る。更に碑文谷のラーメン花月苑に寄る。御客は後に先にも吾人只一人。換気口の作りが悪くトイレの小窓から風が逆流している模様。綺麗なチェーン店だが、臭気が漂い、場末感は百点満点であった。鼻が悪い店員が多くて困る。


5/24・日
 二日連続で家電量販店に行くことにした。洗濯機の運用責任者は家人だから、家人も連れて行く。しかし量販店は例によって不便な所にある。吾人は自転車で、自転車に乗れない家人は徒歩+世田谷線+徒歩で参る。
色色と従業員の説明を受け、いざ購入となった段階で、当該機種がつい今しがた全国全店舗で売り切れになったと伝えられる。今更他の製品を見る気も起こらない。やむを得ず展示品を購入す。只管飾っておくだけだから、誰かの下着を洗った訳では無し。通電もしていないから新品同様であろう。多少割り引いてくれた。そして漸く会計に進んだが、今度はレジのレシート紙が詰まったとかで、散散待たされる。御金を使うのも楽では無し。
それに店は遠いし、店内は矢鱈明るいし、騒騒しいと、高齢者には過酷な環境である。量販店も外商部を作るべきであると思った。其の後、連れだって歩いて帰った。


5/23・土
 スマートフォン購入時に、景品として割と立派なスピーカーを貰った。説明書きが英語しかなく使い方が分からなかったが、通信端末を接続するとパソコンとも繋がるという。ブルートゥースのアンテナのようなものを家電量販店まで買いに出かけた。1800円余り。最近はスピーカーもワイヤレスであるから驚く。接続は案外簡単で、吾人にも直ぐに出来た。こういう物ばかりが便利になっていると感じる。
序に洗濯機のカタログも持ち帰り、家人に検討させた。夕飯後は、そのスピーカーを使って、老家人に古い歌を色色と聞かせた。此れも親孝行である。


5/22・金
 今度は十数年使い込んだ洗濯機が故障す。と言っても全壊ではなく、時計回りに只管回っているだけの状態となる。だから餅つきの要領で時時かき混ぜる必要があるが、全く使えないこともない。モーターに電流を流す基盤の辺りがおかしいのだろう。家人は長年二層式を愛用して来た。愈愈高齢化に伴い、洗濯機の全自動化に同意する模様。また家電量販店の出番である。
 午後出社。ぼんやりと授業す。退社後は中華立ち飲みにずっと居た。立っている内に腹が減って来たので、碑文谷の一番館でカレーを食べて帰る。店内は男性の一人客ばかりが目立った。


5/21・木
 寒気が入り朝方は結構な雷雨。以後空気が変わり涼しくなったが、すっきりと晴れて結局暑くなる。また雷鳴に起こされたときは何ともなかったが、徐徐に胃に不快を覚える。結局の宿酔である。昼は這う這うの体で今年初めての冷や素麺。
午後千寿に出校。お腹の調子も良くなく、授業を中座して近くの公共施設の便座に臨時着陸す。千寿校がある古い貸しビルには和式しかないから頗る不便である。トイレに関してだけは西洋式に限る。退社後は「大江戸」に軽く寄って帰った。
行き掛けは新書の『しんがりの思想』を読んだ。社会も経済も後退期だから、落伍者を出さないような安全下山の指導役が求められると。しんがりには忍耐強い調整能力が必要である。正しく市長Hとは反対の発想であると思った。
 昨年度のGDPは1パーセント減。取り分け個人消費が戻らないというが、まあその程度の減少で済んだのならば寧ろ幸いである。何しろ集団下山の最中の増税なのだから、背中をどんと押され集団転落=軽い恐慌状態に陥らないかと、少し心配したものである。


5/20・水
 愈愈蒸し暑い。午後出社。退社後は立ち飲み中華に寄って早目に帰る。新聞等の扱いは小さかったが、沖縄県知事が都内で会見す。日本政府がどう仕様もないから、今月末に訪米して基地の撤廃を直接訴えるという。知事は先日訪中もしている。正に全方位外交である。片方しか見ていない外務省も見習って欲しい。いっそ霞が関から那覇に引っ越して、沖縄県庁の中に入れて貰えればいいと思った。


5/19・火
 重力の法則に逆らったかのようなへんてこな屋根を作る予定の新国立競技場であったが、計画の見直しによって屋根の建設は中止。ならば従来の競技場を直すだけでも十分良かった。もう殆ど壊して仕舞ったそうだが。
従ってオリンピックは屋根無しで行うという。くれぐれも荒天にならぬよう、今からテルテル坊主でも掛けて置く事態となる。それにしても、出来もしないものを設計する建築家というのも、随分杜撰な仕事をしていると思った。まるで子供のお絵かきである。最近では設計業も分業化が進み、デザインと構造設計は別別に行うのだという。また建設費を巡って都と国は責任の押し付け合いとなる。どちらも一種の無責任体制には違いない。
 朝方まで小雨。以後曇り。火曜不出社。何だか体が重い。つい油断して半袖で屋外作業をしていたら、両腕が途端に痒くなる。紫外線は曇っていても相当強い模様。夜も小食にす。


5/18・月
 日中概ね曇り。夜は一雨あり。午後出社。退社後は立ち飲みBと久久にバーIへ。割と早目に帰宅。


5/17・日
 本日も昨日同様、「ぽこぽこ」と草取りを交互に行う。併し前者は難しいステージに乗り上げ、また後者は強い紫外線に阻まれ、どちらも捗らず。夕方月波君がやって来て、地元の世田谷で一献傾けた。一応伊那の反省会を行う。九時ごろ帰宅。十時就寝。
 大阪府大阪市を統合して大阪都を作ろうという住民投票が極めて僅差で否決される。府と市の二重行政を解消することは、それはそれで意義のあることであろうが、行き成り、府を止めて都にして仕舞おうというのは、市長Hの節操と忍耐の無さから来ていた。
否決された市長Hは潔く政界引退を果たすという。次次と敵を作り、好き勝手に激昂して来たH劇場も愈愈閉幕である。維新の党も看板が無くなるから、退潮に拍車がかかるだろう。改憲勢力は少なからずダメージを被ることになる。中中結構である。仲の良かった首相A共共早く引退して欲しいと思った。
それにしても国も地方も色色と直さなくてはならないことは多多あるのだが、出で来る政治家はこういう極端な人ばかり。ゲームじゃあるまいし、今更グレートリセットなど出来る訳がないのだから、少しずつでも制度を作り直せるような胆力ある政治家が欲しい。そういう政治家は一朝一夕には出て来ないから、政治家を育てる手間暇を惜しんではならないのだと思った。それは私たちの胆力の問題でもある。


5/16・土
 朝方は雨。以後曇り。天気も漸く落ち着いた。日中は「ぽこぽこ」と草取りを交互に行う。古い畳表を細かく切り草地に敷き詰めた。ところで「ぽこぽこ」は分類上はブロック崩しゲームだか、プレーヤーが進めば進むほど、木木を植え、砂漠化した世界を緑にしていくという大義名分がついている。だからゲームの内と外で丸でマッチポンプのようなことをしていると思った。
それにしても草だけはどんどん生えて来る。地球上の主人公はあくまでも自然物であり、就中植物である。人類は、鎌や刈込みばさみ、時に植木屋さんという作為を以て、辛うじて現状を維持していると言って過言ではない。人類が居なくなれば、あっという間に緑の地球に戻るであろうと思った。だから、所謂「文明崩壊後」の世界を扱ったSF映画の舞台が、悉く砂漠化した世界であるという点も、そもそもは何かの勘違いであろう。


5/15・金
 今日まで暑かった。午後出社。相変わらず給料不払いの万事不愉快学院である。退社後は立ち飲みBに行く。「ぽこぽこ」をする為、早目に帰宅。今週は酒量も減った。
 国民総背番号制が近い。日本は先進国の割には法人も個人も所得捕捉率が低く、税金や社会保険料もかなりの部分を集め損なっていると言う。財政再建の為には管理強化に至るのも、ある程度は致し方ないとは思う。ただ一言だけ言っておく。此れは「マイナンバー」では無く、「ユアナンバー」であると。


5/14・木
 今日も三十度近く。午後千寿に出社。部活動をやって来た生徒はぐったり気味。教える吾人も「ぽこぽこ」をやり過ぎてぐったり気味。退社後は「福しん」で炒飯に豚肉の生姜焼きを重ねて食べて帰った。
 首相Aは夕方に会見したらしいが、幸いにして見ることはなかった。米軍の御供をしても絶対大丈夫などと宣まっていたらしい。本当に見ているだけで虫唾が走る。


5/13・水
 朝方は東北で地震。都内もかたかた揺れた。台風一過。といっても秋台風ではないから、夏の空気を置いて行く。三十度に近くなる。
午後ふらふらしながら出社。散髪に行く。退社後は中華立ち飲みに。金曜会でも「ぽこぽこ」が蔓延しており、何だか情報交換会のようになる。こういうネットワークが出来るから、スマホビジネスというものが成り立つのだろう。ただ全員意地になったように課金は避けている。また吾人も含め、所謂中高年にまでゲームが波及してきたということは、即ちスマホビジネスの拡大も一段落ということであろう。


5/12・火
 五月だというのに台風が接近。南風が段段強く吹く。今朝は間違えて出されたペットボトルを集め直した。回収は第一と第三火曜日だから、結局多くの住民が間違えて出して仕舞う。間違いは誰にでもあるが、すいません間違えましたと引き取りに来ることは決して無い。結局散乱することになる。ゴミも正確に出せないから住民自治は頗る難しい。
 日中は先日の「ぽこぽこ」というゲームについつい興じた。吾人も立派なスマホ依存症である。尤も御金を掛けずにやる為には、休み休みやる必要があり、その合間合間に家事労働と屋外作業を行う。台風は低気圧に格下げされながら接近。暗くなる頃から降り始め、夜半までには通り過ぎる。久久の大雨になった。此れでまた草が伸びると思うとうんざりす。刈ったら刈っただけ生えて来るので、今年は刈ったものをそのまま倒して置くことにしている。


5/11・月
 午後出社。退社後中華立ち飲みでわあわあ騒いでいると、客野間君からメールがあり、鳳生大学の松下圭一先生の訃報に接す。
松圭先生との繋がりは、「政治政策論」という講義を、先生が退官する間近の年に受けただけだが、市民自治の可能性について、何処までも分かりやすく、而も颯爽と述べられていた。所謂松下流オプティミズムに吾人も感銘を受けたものである。
そんな明るい松圭先生であったが、一度だけそうで無かったことがあった。何度注意しても私語を止めない学生集団にとうとう業を煮やし、確か講義を途中退席された筈である。その際の先生の御言葉は今でも忘れられない。「やはり何かが変わったのですなぁ」。あれから二十年近くの時が過ぎた。矢張り其の頃、日本社会は何かが変わったのでしょうか。先生にお会いできれば聞いて見たい質問が私には有ります。
以後何だかしんみりしながら碑文谷の「柏屋」に入る。天麩羅蕎麦は400円に値上がり。かき揚げは以前より上品になって小型化している。カロリーが減るのなら、こういう値上げも致し方なし。


5/10・日
 朝からかんかんに晴れる。紫外線が強すぎて、概ねの屋外作業は出来ず。というのも最近肌が弱くなって直射日光に当たれなくなった。今夏は襟付きの長袖を着なくてはならないだろう。
ところで拙宅の向かいの借家には中部アフリカの大使か領事が住んでいる。会う度に片言の英語で挨拶されるが、最近は空を指さして「ライクアフリカ」とおっしゃっていた。アフリカのような暑くて青い空だという意味である。漸く待望の季節が来たのだろう。併し日本の夏は例によって異様に蒸し暑いから、それはそれでノットアフリカである。
 午後は暇に飽かせ、吾人もスマートフォンゲームに興じる。「ラインぽこぽこ」というゲームで、内容は単純なブロック消しである。基本的には無料のゲームであるが、ここぞという処で先に進めなくなる。以後御金を払って進むか、ライン上の知人に助けを求めるか、只管待つかの三者択一となる。易しい面とそうでない面がバランス良く配置されて居て、「前進欲」を掻き立てるように作ってある。大人も子供も夢中になる訳である。
最近は理数系の優秀な学生ほど、こういうゲーム業界に就職するのだと何処かで聞いたことがある。ゲームの何処を難しくすれば如何に儲かるか、色色と知恵を絞っているのだろう。成長産業で尚且つ平和産業には違いないが、もう少し何とかならないものかと暫し考えた。ゲームの合間合間に買い物に行き、夜は鰹刺しと連子鯛の塩焼きにした。


5/9・土
 朝から草取りに低木の剪定にゴミの片づけ。特に後者は冷蔵庫の中身がそのまま捨てられたような感じで、誠に猛烈な臭気を放っている。あんな臭いは嗅いだことが無い。恐らく動物性タンパク質の腐敗臭であろう。此れも一種の固定資産税だと思って、袋を二重にして入り口をきつく縛って一時保管す。公共マナーも何もない住民が多くて困る。
それにしても臭気というものは、最も伝え難いものの一つだと聞いたことがある。例えば被災地の画像は方方に拡散したが、その臭いまでは伝えられなかったと。また最近の戦争博物館では臭気を再現させる試みもあると聞いた。
また御昼前に不動産屋のSさんが来て、来月からの集金代行を正式に契約す。午後も日記の整理と草取りを交互に行う。家人共共疲れてしまい、夜はピザを取り寄せた。


5/8・金
 大きな病院に行った両家人を待って、午後遅く出社。まだ連休の谷間のような感じで、担当の小学生は一段とやる気がない。それ以上に教える吾人の方が一層やる気がない。轍田さん同様、吾人も職業選択を間違えた感がある。定時に退社したものの、大して草臥れていないからお酒を飲む気もしない。割と早目に帰宅。
 英国は総選挙。スコットランド民族党が躍進す。その代り労働党が票を食われ、結局保守党の勝利。英国でも二大政党制と小選挙区制は評判が悪いようである。御手本が此の状況なのだから、日本も早く直した方が良いと思った。


5/7・木
 午前中は日誌を認ため、溜まった新聞を読む。新聞も連休中だから中身が薄くて助かった。午後千寿に出校。今日も吾人が鍵開け当番である。退社後は珍しく東口のラーメン屋に入る。カウンター席に腰かけると、右の御客も左の御客も御飯をもりもりと食べて居る。ラーメンには御飯が無料で付いてくるようである。東口も色色と大学が建って、今では学生街の様相である。
別に東口の学生に何の恨みもないが、『教養主義の没落』という少し前の中公新書を読みながら帰る。王滝村の里宮で痛めた両太腿が痛い。最近の運動不足を痛感す。特に下りの階段は這う這うの体である。


5/6・水
 昨夜はビールをノンアルコールビールで割りながら飲んだ。従って宿酔は無し。口が寂しいからついつい何かを飲んで仕舞う。併しジュースの類は嫌であるし、それに飲むからには少しくらいは酔いたい。此処でアルコールの濃度を下げることが出来れば、大して酔わなくて済む。この新作戦が奏功した模様。
午前中は色色と日用品を買い足し、ガソリンを補充する。リッター当たり147円。丁度二十五リットル入った。此の三日の移動距離は二百キロを超えたから、リッター換算十キロ程度であろう。ガソリンも徐徐に値段を戻しつつあると感ず。
 其の後、テラスで伯母の拵えたカレーライスを囲み、お別れの昼餐会とした。伯母の運転で下山し、伊那のバスターミナルへ参る。昨日、吾人のスマートフォンで颯爽と予約したバスで帰る予定である。それにしてもスマホの画面が紙の乗車券の代わりになるということだが、どうにもこうにも自信が無い。不安を打ち消すべく、窓口の係員に何度も確認した。つくづく吾人も面倒なお客である。
四時半発の富士急行バスに無事乗車。バスは全席満席。吾人以上に不慣れな乗客が多く、全員乗るのにかなりの時間が掛かった。幸いにして中央道の渋滞は一切無し。極めて定刻通りに新宿に到着す。ただ折角の新型車両だったが、足元の狭さはどうにも仕様がない。其れに御酒も大して飲めないから随分長く感じた。近くの中華屋で、足を伸ばして麦酒を飲んで、本当の御仕舞とした。十時前には帰宅す。
 今度は箱根の大涌谷が動いているとのこと。観光業は、これからの国を支える礎のようなものだから、尚更心配である。


5/5・火
 宿酔を何とか治め、月波君の運転で阿智村に向かう。二年前に出来た「満蒙開拓平和記念館」を見る為である。昭和一ケタ世代の伯母も是非見たいというので四人で出掛けた。所要時間短縮の為、伊那から飯田まで高速道路を使う。料金1520円。一時間ほどで無事到着。
 世界恐慌以後、日本の農村は窮乏を極めるが、零細な養蚕農家が多かった南信地域は特に深刻で、多くの人人を満洲に送り込むこととなる。中には昭和二十年の五月に入植した村もあったそうで、当然多くの人人が帰り着けなかった。展示には孤児院の痩せ細った子どもたちの姿があった。此れが国策としてすすめられた満蒙開拓の結末である。伯母の目頭はすっかり赤くなっていた。
 結局のところ、農村の貧困問題は過剰な対外進出政策を招き入れ、日本を崩壊に導くこととなる。併しいざ崩壊してみると、満蒙は日本の生命線などでは決してなかった。戦後日本は軽武装の通商国家として再出発する。だが戦前の日本では、農業を機械化するなどして生産性を高め、余剰になった人員で工業化を果たすことなど、誰も考え付かないアイデアだったようである。
尤も近年では製造業の空洞化が進み、就業者は1000万人を切る状況である。此れは昭和三十年頃の水準だという。その分、第三次産業が増えたわけだが、此方は競争激化により、多くの勤労者が窮乏化している。新たな経世済民策が必要であるとも思った。勿論大陸に進出することではない。精精大陸の御客さんにやって来て貰うことであろう。
 其の後は飯田市内まで戻り、のんびり荘という蕎麦屋で食事。例によって大混雑である。立って待って、座って待って、盛り蕎麦が出て来るまで凡そ一時間。朝から絶食状態だったから、此処は座った瞬間に品物が出て来るような、御蕎麦屋超快速亭が欲しかった。
再び乗用車に乗り込み、県道八号=大平街道を攀じ登り、大平宿を目指す。大平街道とは飯田から木曽に向かう唯一の道だったが、昭和三十年代には別の峠道が開通す。更に中央自動車道が出来ると存在価値を全く失うこととなる。そのただ一つの宿場町であった大平の集落も昭和四十五年に挙家離村した。当然道路は狭い。去年の野麦峠よりもっと悪いから、月波君は大分緊張していたよう。それにしても昨年は野麦峠、今年は満蒙記念館と、吾人も近代史の勉強に余念がない。
集落には廃屋が点点としている。そのうちの幾つかはNPOによって保存されていて宿泊も出来るという。曰く、電気のある廃村に泊まろう。活発な男の子でもいれば喜ぶだろうが、もう不便な生活を楽しめる年齢ではない。グリーン部屋かグランクラス室があれば吾人でも泊まれるだろうが、其れでは丸で無意味である。また電気は通じているが携帯電話は通じないらしく、「衛星公衆電話」というものが置いてあった。初めて見る装置である。
一時間近く掛けて慎重に下山し、松川インターから再び中央自動車道へ。二区間だから950円。山荘には五時近くに到着す。夜は伯母の揚げた野草の天麩羅を囲みながら、暫しの討論会となった。ただ轍田さんは歴史には詳しくないようで、リットンとリプトンの区別もつかないよう。よく書記の仕事が務まると訝った。其れは御本人も自覚しているようで、折角タイプをしていても変換ミスが多く、毎日のように上役に怒られているという。翼翼話せば当人は理科系志望だったが、どういう訳だが現在の職についているとのこと。つくづく職業適性を見極めるのは難しいと思った。


5/4・月
 生憎の曇り。山沿いは時折小雨。例によって木曽方面に向かう。御嶽神社にお参りす。偶には奥の方まで行こうということになり、王滝村の里宮まで足を伸ばした。絶好の登山シーズンだが、昨秋の噴火の影響もあり観光客はまばら。今は静かな山里といった感じである。村の中心にある「王滝食堂」で、名物のいのぶた丼を食す。850円。
 午後は山荘周辺の片づけ。総勢三人で大量の枝を折り揃えた。五時頃から少しずつ飲み始める。すると轍田さんから連絡があり、今から新宿を高速バスで出て、伊那に向かって走って来るという。辿り着いた頃にみんなが寝ていたら可哀想だろうから、飲みながら待つこととする。
月波君と毎度毎度の詰まらないお話をし、少しぼんやりしていると、十時頃には本当にやって来て、何だか吃驚した。ついさっきまで新宿にいた人が、こうして飲んで居るうちに本物の顔を出すのだから、新幹線などなくとも伊那と東京も指呼の距離であると思った。いや単に飲んでいる時間が長すぎるのかもしれないとも思った。「お酒のせいで時間が逆に後へのびている所」を、バスと轍田さんは「しらふで構わず走って」来たからであろう。(『阿房列車』の表現による。)ならばあらゆる交通機関で、乗務員が乗客に御酒を振る舞って歩けば、日本全国は勿論、世界中あっという間に到着すること請け合いである。
以後適度に飲酒歓談して就寝す。ところで伊那に来るたびに太陽光発電のパネルが増えていると感ず。山荘の下の林檎畑も一部が換装されていた。所謂半農発電であろう。伊那谷は晴天率が高いから、どんどん建てて欲しいと思った。


5/3・日
 午前中は草取りと方方の片づけ。高速道路が空くのを見計らって、予約しておいたバスに乗るべく新宿に向かう。此処から高速バスに乗り、伊那に向けて出発す。帯同者は例によって月波君。二時半出発の伊那バス一号車は、小仏トンネル前後でもたもたしたが、概ねダイヤ通りに伊那に着いた。
早速飲食店巡りを行う。まず市街の朝日という店へ。現在の店主さんは元元店の常連客だったが、高齢となった前店主から店を譲られたのだという。従って人柄はいいが、飲食専業ではない。こういう人に会うと決まって、昔の景気は良かったと宣われる。特に九十年代までは本業の建設業は物凄い揚がりだったから、毎晩毎晩豪遊が出来たと。
成程、現政権への支持率が矢鱈高いのは、そういう時代を知っている人たちの怨嗟のような物の裏返しなのかもしれないと思った。しかしながら、昔は儲かった式の思い出話など、聞いていて余り面白いものではない。吾人らはずっとデフレ世代である。早早に退散して、何時もの「うしお」に移動す。其の後タクシーで上がり、伯母を交えて少し飲んだ。


5/2・土
 結局かなりの宿酔となり、日中すべて運休す。此の処、物凄い確率で二日酔いになる。二日酔いは病気ではないが、誠に重病人の様相であるから、寝て過ごす以外に処置が無い。気が付いたらもう暗い。どうにも時間泥棒に遭った感じである。夜は家人の拵えた肉じゃがを少し食べた。


5/1・金
 今日から五月。といって特に何もなし。午後出社。連休前なので久久に無責任社長と立ち飲みSへ。再開発により此処もあとわずかな期間で閉店である。其の後あちこちの店に顔を出して上機嫌で帰った。