3月6日・火曜

当日は生憎の雨模様である。早起きして羽田の飛行場に行く。大体飛行機と云う乗り物の仕組みが良く分からない。先ず飛び上がる時には態態風に向って走って行くのだと云う。汽車も自転車も船も態態風に逆らったりはしない。なのに飛行機は翼に風を沢山当てて揚力を得る為にそうするのだという。しかも一旦飛び上がって仕舞えば、他の乗り物と同じで風は後ろから吹いてきた方が都合が良いという。風に対してそういう不義理をする乗り物は矢張り信用出来ない。
今日が今生の最後の日になるかも知れないので悔いの残らないようにしなければならないと思った。構内食堂で朝から麦酒を飲む。飛行機は乗るのも嫌だが、見るのも嫌である。何だか飛んでいるのを観ているだけで、落っこちはしないかとハラハラして来る。飛行場の食堂なのだから大抵の席は飛行機の方を良く観るように出来ている。だからなるべく飛行機を見ないように窓に背を向けて二杯ほど飲んだ。思えば丁度今日は当方の何某回目かの誕生日である。だから命日も同じ日になって仕舞えば、分かり易くて丁度良いとは思うが、其れは死亡届を受けたお役所あたりの他人が後から思う事で、飛行機事故で死ぬ当人の方はそうは思わない。幸いにして飛行機は無事に飛んでそして降りた。以後熊本から延延とバスに乗り天草に行く事にした。
別に天草に行く目的は無い。行って見たい所も特に無い。でも天草は有名な観光地である。行けば何かしらはあるのだから、何かしらは見るであろう。だが別にその何かしらを見なくても結構である。乗り物に乗り、普段と変わった所に行ってお酒を飲むのがそもそもの旅行の目的である。家からある程度離れていて、出来れば今までに行ったことが無い土地に行ければ良い。何れ東北にも行く積りだが、東北は既に大概の所に行って仕舞った。其れに寒いのは苦手だから次の機会に行くことにする。
九州まで行ってもお天気は良くない。従って有明海も鉛色である。流石に波は穏やかだが、道端には夏の間にぼおぼおに生えたと思われる葦や笹の類が立ち枯れていて鬱陶しい。大きな鎌か鋏か何かでバッサリ切ったら気持ちがいいだろう。そんなことを考えている内に天草に着いた。本渡では切支丹が葦のようになぎ倒された橋の袂を見て、魚を食べてお酒を飲んだ。針で一本一本捕まえたと云う鯖の刺身は、血合は綺麗に赤くまた身の方は透き通っていて、味も鮮度も申し分がなかった。