2018年10月

10/31・水

 午前中は土壁の修繕作業。何時もの大工さんが来る。ベニヤを切って塗って、梯子に乗って打ち付けるだけなので大して難しい仕事ではない。若い見習いさん(女性)も同行していたので研修がてらには丁度いいと思った。今度の人は続くかな。何でも親御さんは大工さんだそうだから有望新人である。一時間半ほどで終了。此れで月初の破損が月末に直ったことになる。後は排水管だな。

 午後出社。金参万円受け取る。退社後はBで二杯だけ。「あずさ回数券」も来春で廃止になるのだという。実質大幅値上げ。困ったな。世帯年収も減ることだし、今後は高尾まで京王で出て各駅停車で行くか、高速バスを使うしかない。金券屋さんや甲府や中信地域の人は反対するだろうが、此の所の中央線特急の混雑は目に余るものがあったから、多少の乗客減は織り込み済みなのだろう。またシロの瞼の傷は治ったよう。こうして何にもいいことのない十月が漸く終了した。

 

10/30・火

 年金博士でも修士でも学士でもないからよく分からないが、昨夜から何遍計算しても受け取る年金が少なすぎると思った。取り敢えずは正式な支払い決定通知書を待つしかないな。朝から良く晴れた。引き続いて出張所に参り、今度は葬祭費の申請と後期高齢者健康保険証の返却。七万円が受け取れる。事実上の火葬代だな。都内の火葬場はどういう訳だか大半が民営で少し高い。貴賤貧富に関わらず生まれて来た以上は必ず掛かる経費なんだけどね。

川崎の叔父さんがやって来て、従妹の健二君らの御霊前を供えた。家人と共に近くの和食屋で昼餐会。故人の供養という名目で昼酒も呑んだ。鰻丼を食べたので、夜は冷蔵庫の残り物で節約す。

 

10/29・月

 再び秋晴れ。準備万端整え、世田谷年金事務所に家人と向かう。遺族年金の請求である。以前上町にあったものが、今は二子玉川の新ビルディングにある。多摩川も一望。景色もいいと気持ちも和む。予約したこともあるが概して空いていた。スムースに相談ブースに移動。初老の女性職員が担当す。言葉は丁寧だが、端端に御役所の名残がする。まあ此の人が採用された頃は社会保険庁だったのだろうな。いや併し、超最新式のオフィスビルに年寄りがノコノコ入って行くとなると違和感満載である。

多少の記入漏れを埋めたら、すんなりと受理される。併し問題は金額である。試算によると基礎年金部分は敢え無く消滅。老齢厚生年金部分は四分の三された筈だが、其の分家人の厚生年金受給分が相殺されることに。寡婦加算などもあったが、総じて半額以下、いや三分の一強となる。驚くべき縮尺であると思った。こうなると一般家計も恒常的に赤字だな。家賃収入から補填するか、吾人の働き方を拡大するしかない。何だかぐったりしながら電車で戻る。家人とは駅で別れ、吾人は千寿に転進。上の空のままに授業す。

 帰りは町屋のBへ。D店長はいなかったが、少しいたアルバイトの人が辞める日なのだという。お別れの席に混ぜて貰う。同い年ぐらいの人だったが、聞けば本業は芸能プロデューサーであると。人は見掛けによらないと思った。もう少し飲みたかったが、連日連夜の暴飲で心臓がバクバクに(心拍異状は悪酔いのサイン)。三杯で止めにして、這う這うの体で帰宅す。

 それにしても、である。此れでも世間的にはまあまあの年金であろう。其れでもいざ年金収入だけとなると、実際生活が成り立たない。高齢化に伴い内需が落ち込む筈である(デフレの正体)。さて何から削ろう。まず新聞だな。其れとも立ち飲み屋で働くか。

 

10/28・日

 朝に見るともう紙が詰まり掛けている。慌ててバケツで流した。抜本的対策を急がなくては。日中曇り勝ち。昼は長駆して駒場の「千里眼」へ。「ラーメン」(750円)。謂わずと知れた二郎系である。併し此の手の店は何時も混んでいるし、独特の緊張感が漂う。呪文のようなトッピングの申告にも気を使う。もう少し落ち着いて食べたいものである。肝心の味はと言うと本家(といっても知らないのだが)に近いワシワシ麺。もう少し多加水の方がいいな。

夜は環七の鰹刺し他。此の古い魚屋も豊洲移転を乗り越えて営業中。一方松陰神社の「魚竹」は閉じて仕舞ったと東京新聞には書いてあった。家人は二日続けて千代田鮨。吾人は糖質を抜く。

 

10/27・土

 未明は大雨。以後急速に晴れる。朝から「富士そば」。昼は自転車で都立大の「ぎょしん」へ。此処は回るのだけど回さない寿司屋である。一応真ん中で人が握っている。途中から満員満卓となり取り付け騒ぎのように。米粒が弾け飛ぶ勢いで握っていたが追いつかなかった。人間観察には丁度良かったが、何だか食べ足りないので「ふくもり」で追加のラーメン。以後無為。

夕方近所の八木さんの弔問を受ける。思えば町内で付き合いがあると言うのも此の人以外殆ど居ない。亡父には絵のサークルや早起きラジオ体操仲間も居た筈なのだが、連絡が途絶えてだいぶ経っている。家人不定愁訴のため、夜は千代田鮨を購入。吾人は唐揚げのみ。

 

10/26・金

 昨日のラジオによると作られた服の実に半分近くは廃棄されているのだという。明らかな過剰生産。供給過剰。合理的に市場を調査し、生産性の向上に励んだ結果が此れではね。また神戸の新聞によると芦屋市のゴミパイプラインも廃止。収集車による輸送に戻るとのこと。子どもの頃の図鑑にはよく登場していたな。宇宙旅行無人運転車、リニアモーターカーなどと共に。未来は不定である。物を物理的に動かすのは想像以上に難しい。

 珍しく朝からパン。すると予想通りの胸焼け。堪らず昼に「ホーチャン」のカレーライスを掻き込んだ(600円)。二度目だけどやっぱり旨い。午後は漫然とす。晩は適当なおかずで中量飲酒。夜は映画「もののけ姫」。文明は野蛮で、野蛮は文明。詰まり啓蒙の弁証法だな。併し二十年前の映画である。最近の人間様はこんなことを考える余裕すらなくなった。

 

10/25・木

 朝起きて見ると再び下水が溢れている。而も今回は管の途中で詰まっている。もうどうにもならない。結局テレビコマーシャルでやっているところに緊急依頼す。一時間ほどで到着。早速高圧洗浄を行う。ものの十分で流れて行った。ベテランの人が周りの清掃までやってくれて48600円(!)。前回の業者より一万円高いけどやむを得ない。それにしても此の二年余で三回目である。おちおち外出も出来ず。節水タイプのトイレだと水が足りなくて流れないのかもしれない。此れを機にバイパス工事を検討しようと思う。

 嫌な記憶は上書きするのに限る。シャワー入浴で禊ぎを済ませ、区の出張所へ。遺族年金請求に必要な書類を揃えた。戸籍謄本、住民票二通(除票を含む)、家人の非課税証明書。遅い昼食と仮眠の後、本務校へ。立ち飲みBで少し飲む。それにしても今月はろくなことがない。

 

10/24・水

再び未明に目が冴え、また過呼吸になりそうだったので、起きて喪中挨拶を完成させる。「本年十月、父が九十三歳にて永眠いたしました。六月に体調を崩し、あっという間の出来事でした。私と父は年が離れていることもあり、親子の関係は比較的薄かったのですが、其の分、命を永らえることで、絆を深めることが出来ました。有り難いことであったと感謝する次第でございます。また、故人生前中にひとかたならぬご厚情を頂きましたこと厚く御礼申し上げます。平成三十年十一月」。吾人としては珍しく元号表記とした。

適当な葉書に印刷して宛名も書く。誰に知らしめるべきか。最晩年の亡父には手紙の類は殆ど来てなかった。それにしても大量御逝去時代だから年賀状など益益売れないだろう。欠礼葉書と言うのは大抵一方通行だから郵便事業会社としては売り上げが半減することになるな。朝刊を読み、再び就寝。

昨夜官房長官が突如会見して行方不明になっていたジャーナリストが保護されたと述べていた。まるで自らの手柄のような言い方だったが、官房機密費が使われたようには思えず。取り敢えずは佳かった。またサウジアラビアの筆頭皇太子には批難轟轟。何しろああいう国だからな。早く石油の要らない生活をしたいものである。

何だか結構暖かい一日。漫然とした後、夕方出社。コピー機が新型になっていた。リースの期限はまだ来ていない筈なのだが。早目の切り替えのおまけとしてパソコンを二台貰ったそう。併し中味がカラッポのデスクトップ型を貰ったところで大した使い道がないな。つくづく頓珍漢学院である。退社後は立ち飲みBを覗くも、皆さんお留守の模様。其れでは客のいないバーIでしんみりと行きたかったが、店主誕生日につき飲み放題サービスデーとのこと。三千円で三杯だけ飲んで帰った。例によって鎮具破具な一日。家人風邪を引く。

 

10/23・火

 一転して小雨模様。家人は遅れていた胃の検査。取り立てて問題はなさそう。午前午後と書類書きをしたり、税金の計算をしたり。いや併し、亡父の職歴(年金加入歴)まで書けと言われても分からないよな。何回か転職している筈である(恐らく昭和二十年代のこと)。

喪中葉書を買いに行くも無地のものは売っておらず。文面くらい自分で打ちたい。家人宛にも新しい保険証が届く。三割負担が一割になったと喜んでいたが、此の先どうなるのだろう。相続が終わればまた三割だな。出た序でに西友で刺身を買った。夕方になり好き勝手に飲み始めようとした時、小皿を三枚取り出したことに気が付いた。

 

10/22・月

 今朝は良く寝られた。晴れて暖かい。御昼過ぎまで漫然とす。午後千寿に出校。退社後は「福しん」で生姜焼きに炒飯。矢張り旨いな此処の炒飯は。日本年金機構から書類が来る。書くところも提出する証明書の類も桁違い。遺族年金の請求など容易な事ではないな。

 

10/21・日

 一時間ほどで目が覚め、以後過呼吸に似た症状に。体内の圧力が高まって空気が入って行かない感じ。夜明けまで七転八倒す。息を吸って止めてゆっくり吐くを繰り返したら何となく収まった。アルコールが足りなかった。

 朝から秋晴れ。隣の町会で古着回収をしているというので自転車で搬送。肌着の類だけで三往復。こうして何段階、いや何十段階という過程を経てお別れをするのだと思った。昼は祐天寺の「ホームベース」という店に。大瓶に焼き秋刀魚他。磯丸水産の新業態らしい。昭和の大衆酒場がまあまあ再現されている。但し従業員が若い。もっとおばさんとおばあさんを雇わなくてはね。でもまあ座れるのはいい。中年齢化に伴い、最近実は立ち飲みが辛い。午後は昏昏と睡眠。夜は残り物と白ワイン。

 

10/20・土

 まあまあの秋晴れ。偶には散歩をしようと思った。何しろ此の数か月は何処にも出掛けていない。いろいろ考えたが結局亡父が修行をしているという横浜の御寺を目指すこととす。仏教では四十九日までは精進の身なのだそうで、激励視察である。東横線の大倉山下車。初めて降りる駅である。新幹線が近い。

御寺は丘陵地の上の方にあった。ちょっとしたハイキングである。丁度法事の最中であった。しっかりやって貰っているのだろう。何しろ家人が間違えて御布施を一枚多く包んだのだ(81万円)。其の後臨港バス綱島へ。「キング」という店で餃子と麦酒の休憩。江田行きの東急バスを見つけたので乗って見る。ごちゃごちゃの綱島駅前を抜けると一気に田園地帯に。片田舎を走る感じ。旅気分も味わえた。終点まで乗り通し、田園都市線で戻る。何時の間にか秋も結構深い。此の数か月は一種の記憶喪失でもある。

 電話局から書類が来る。加入権は未だに財産の一つと考えられているらしく、戸籍謄本まで必要なよう。最難関だな。寒気が入り、夕方から大雨。

 

10/19・金

 概ね曇り。久久に取り立てた予定の無い一日。引き続き、水道、電話、公共放送に連絡。今のところ電話の変更が一番面倒臭そう。発信する以上、悪用される心配があるからかな。ちなみに対応が速いのはケーブルテレビ。早速送られて来た書類を返送した。矢張り純民間企業は早いと思った。

 夕方姫路の人身事故で新幹線は全線不通に。ニュースの映像を見ると何だか黒い。みんなスーツ姿の会社員だな。ならば危機回避の勉強をすればいいと思った。其れに特急料金の払い戻しで一杯やれる。

 

10/18・木

 続いてガスと国民健康保険料の口座変更手続き。電話のし過ぎでコードレスフォンの電池も摩耗す。急いでネットで注文した。午後渋谷の支店から銀行員がやって来て、早速相続協議の打ち合わせ。前回までは定年間近のおじさんだったが、今回の担当は若い分テキパキしている。而も既に課長代理というから、京王辺りを出ている感じだな。

遺言書では土地と家屋は家人と等分、預貯金その他は其の方も入れて三等分としてあるが、預貯金に比して土地の価格が高いので、先方が遺留分の侵害を訴えて来る可能性があると警告される。うーん、第三の相続人はどういう人だが全く分からないのでドキドキものである。「付くものが付く」と危ないと家人は頻りに心配していたが、何しろ何の情報も無いからどうにもならない。また例によって土地がどんどん分割されるのも良くないとも指摘されたが、此方も如何ともし難くてね・・・(スイマセン)。

其の後、別系列の銀行に葬儀費用(203万)を支払いに行く。故人の口座からは送金出来ませんと即座に断られた。憤慨したがどうにもならず。大体ひとが素直に払う(いつもニコニコ銀行振り込み)というものを払わせないのだから、こんなにおかしなことはない。ふざけてるな。いっそおもちゃの拳銃か何かで脅せばよかったと思った(逆銀行強盗)。以後吾人のネット口座から数度に分けて振り込むことになった。考えてみれば此方の方が手数料が安い。

夕方出社。先週とんだ中一の数学。冒頭、「ペンギンのお父さんが亡くなり、南極に里帰りしていました。皆さんから見たらお爺さんお婆さんに当たる人を大事にして上げて下さい」と挨拶す。何処まで分かったかは分からない。いや併し、幾つになったとしてもいざ親と別れることになると悲しいものである。まあこういうことは自立と反抗の途上にある十代の頃には分からないだろうな。退社後は立ち飲みBへ。鶴木さんを見つけて飲んで帰る。何だか実に草臥れた。

 

10/17・水

 ぼんやり見ていた宝くじのコマーシャルが少し面白かった。五億円当たれば、一年で一千万ずつ使って五十年、二千万なら二十五年・・・という台詞回し。昔なら金利で遊んで暮らせたのだけどね(5パーセントで2500万)。JR北海道が危なくなる訳である。もう元金を取り崩すしかないな。六千億で何年持つか。

 早速今日から手続き開始。まず「年金ダイヤル」。続いて信託銀行。相続の規模としては万代伯母の時ほどではないが、実を言うと亡父には先妻との間に一児ある。遺言書は作成してあるが、ひょっとしたら面倒なことになるかもしれない。また公共料金としては電気とケーブルテレビから。併しペーパーレス決済にしていると電話を掛ける相手から探さねばならない。

スーパーの弁当を食べた後は、出張所に出向き、世帯主の変更届け。吾人の健康保険証も切り替え。亡父の名前が消えた保険証が即時交付される。こういう手続きは結構早い。続いて銀行に行き、二号室リフォーム代の振り込み。通常は吾人の口座からクリック操作で振り込むが、今回はATMで手打ちする。亡父の口座から送金した(100万円)。成るべく手持ちの現金を減らさなくてはならないからね。

暗くなった頃出社。久久の中三国語。退社後は立ち飲みBに行く。須々木さんらには、実は暫らく献杯なのですと言って、少し労って貰った。更に碑文谷の「福徳」。一方、鎌倉の伯父さんは鼻からチューブなのだそう。家人らは憤慨していたが、例によってやるも後悔やらぬも後悔。

 

10/16・火

 此の所ずっと曇り。朝から牛丼が食べたかったが冷凍うどんで御仕舞にする。年金も減るし消費税も上がる。少し歳出削減しなくてはならない。相続等の手続きは明日から始めよう。再びあの役所通いかと思うと気が重い。また鎌倉の伯父さんも肺炎で入院したとのこと。昼はスーパーのとんかつ弁当(此れは軽減税率である)。

 午後バス+徒歩で本務校に。余った香典返しを持参す(モックヨック三千円相当)。一応無責任社長にも報告す。「花でも贈りたかった」と驚いていた。こういう手合いは花を送って逆に借金を申し込むから厳重に警戒しなくてはならない。其の後千寿に回航。昨日の振り替え授業。町屋に少し寄って帰る。

 

10/15・月

 起きて暫らくは宿酔気味。車を仕立てて八時過ぎに会館に入る。控室で少し寝ると何とか収まる。さてさて葬儀及び告別式+初七日法要。参加者は月波君以外は昨日と同じ。出棺時の花入れには涙ぐむ。愈愈お別れだな。例によって桐ヶ谷まで移動。駒沢通りから環七そして目黒通りへ。駒沢公園とかダイエー碑文谷店とか、よく行っていた。思い出の地である。遺影を立てて少し見せた。

三十分ほどで到着。友引明けの平日にしては結構空いていると思った。そして本当の最後のお別れである。火葬場職員の「お別れです」という無機的な挨拶と御辞儀と同時に炉の方に吸い込まれていった。本当にさようなら。

 休憩の後、収骨。まだ温かい骨壺を膝の上に置きタクシーで会館に戻る。すると休憩室で飲んだ麦酒があっという間に膀胱に落ちて来る。お腹が何となく温かくて助かった。父の最後の愛だな。這う這うの体でトイレに駆け込む。以後精進落とし。「亡父とは年が離れていたので父と子の関係は薄いのですが、其の分長命で色色と絆を深めることが出来ました」と挨拶する。三時頃までには終了。再びタクシーで戻る。父にとっては救急車で家を出て以来の帰宅である。当然無言。葬儀社の人に仮の祭壇を作って貰って本当に終了。丁度一週間である。

 

10/14・日

 概ね曇る。午後から納棺の儀。早速家人と参る。今日から二日間の担当者も万代伯母の時と同じ人にして貰った。宗教者も同じお寺の人。御布施も全く同じ80万円。万代伯母の死から僅か二年なのだからどちらの人も驚いていた。あちらの世界でも絵が楽しめるよう、水彩画の教本と愛用のゴルフキャップを入れて貰う。涙が止まらなくなりそうになった所で、川崎の叔父さんから今タクシーで迷っているという電話がある。有名な葬儀社だが多摩川の向こうからではまるで分からないらしい。

夕方から通夜開始。参加者は優子さん、須見伯母、川崎の叔父さんと叔母さん、そして月波君。どうしても出たいというので特別枠として出て貰った。一時間ほどで終了。以後通夜振る舞いに至る。亡父には生前に食べたいと言っていた天麩羅うどんを、現生の人には寿司を取ったのでどんどん御酒も出して貰う。ついつい暴飲す。

それにしてもつい六月の初めまでは箸を使って食べていた。医療と介護の世話になったのは丁度四か月。掛かった費用は推定三百万円なのだから、大往生の部類に入るのではないかと言う話しになった。少しは褒めてやらなくてはならないかな。褒めたならもう少し伸びて欲しかった。以後タクシーで帰宅。地元の若者向きのヘンテコな店で月波君と二杯飲んで終了。十時就寝。

 

10/13・土 

 朝方御寺からファクシミリが来て戒名も決まる。「福寿院彩月孝道居士」。退職後は水彩画に凝っていたことが反映された。いい名だな。

日中重い曇り。御昼になり家人と会館へ。線香をあげ、最終の打ち合わせ。往復12系統。帰りは機動隊のバスと擦れ違う。通夜が明日でよかった。読経の際に花火をどんどん打ち上げられては堪らない。まあ其れもいいか。何しろ長寿に分類されるのだから。其れでも遺族と言うのは面白い訳ではない。

夕方須見伯母が来る。家人がかた焼きそばが食べたいというので、「燕来香」に案内。街中華の少し上の店だが、(安くて)美味い旨いと言っていた。こうして間の二日は何となく過ぎて行った。

 

10/12・金

 未明にシロとグレが上がって来る。猫は猫なりに心配していたのだろう。何しろ丸二日殆ど留守だったから。朝から曇る。23系統に乗り込み、再び施設に参る。入居の際に提出した写真が一番遺影に向いていると家人が言うので、返して貰いに行った。半年前にデイサービスで撮ったもの。珍しく笑っている。序でに早目の部屋の片づけ。入居期間が短かったから私物も少ない。諸諸の物品を積んでタクシーで帰宅。亡くなった時のタオルケットなんかもあった。此れはミケの敷物にしよう。ミケは亡父を気に入っていたから形見分けである。途中「ひむか屋」でラーメン(650円)。大半の店がリピートすることなく千歳船橋グルメは此れで本当に終了。短すぎた。

間髪入れずに今度は12系統で葬儀会館に移動。写真提出と共に線香をあげる。帰りは用賀の駅まで歩いた。少し涙を乾かす時間が欲しい。年齢が離れていたから父と言うより御祖父さんと言った方が近い。従って父子の関係はそれほど深くはないが、いざ本当に居なくなると寂しいものである。

午睡の後、シロが上がって来る。吾人の股座に入って動かない。御前たちを見付けたお爺さんはとうとう居なくなったよと話し掛ける。何処まで分かったかは分からないが、実に神妙にしていた。其処で再び日記を読み返す。3.11以前は大学ノートの殴り書きで短い物ばかり。其れでも2010年5月31日に「駐車場の近くの子ネコにエサやり」との記載がある。記録にはないが見初めたのは間違いなく亡父である。

 

10/11・木

 すると一時間ほどで施設から電話があり、愈愈本当に危ないという。家人は寝たままにして、吾人だけ再びタクシーに乗る。運賃をパスモで決済して大急ぎで降りて行ったが、結局少し間に合わなかった。心停止から十分程度かな。既に赤みを失った老家人が居た。血の気と言うものは直ぐに失せるのだと思った。皺も少し深まった。少し苦しませて仕舞ったのかな。それにしても、あれだけ待っていたのにとうとうこういうことになるのだから、人の寿命と言うのは予測不能である。最期を見せたくなかったのかもしれないとも思った。

二三回大きく息を吸い、息を引き取ったと夜勤担当の看護職の報告を受ける。続いて死亡診断。施設医が来る。平成30年10月11日午前7時45分死亡確認、死因老衰。大正14年から平成まで来たが新元号までは到達できなかった。

 看護職員と介護職員による遺体の清浄。吾人も頭を撫ぜ拭きした。老衰死だと本当にガリガリである。其れでいて褥瘡あり。見ていても気の毒である。「よく頑張った」な。また大量の便が出ている。此のひと月は殆ど何も食べていないのにね。ずっと便秘症だったから、溜まっていたものをすっかり出して彼方へは身軽な形で行くのだと思った。続いて家人も到着。

綺麗にして貰ったところで職員その他によるお別れの挨拶。短い間だったが、老家人は人気があったそうである。まあ年の割りに話は面白い方だった。享年九十三歳と六か月弱。それにしても施設に移って三ヶ月足らずである。もう少し元気なるかとは思っていたが、何だか最期はラストスパートに似た観がある。何しろ御金を使いたくない性分だったからだろう。介護費用も想定より少し余る計算。

 職員一同の見送りを受け、予め連絡してあった葬儀社に搬送。以後葬儀の予定を詰める。二年前も利用したところである。万代伯母の前例を踏襲するので話は早い。友引で火葬場が動かないので、日曜通夜、月曜が告別式と言うこととなる。間に二日あるから少し休息時間を設けることが出来た。御昼には打ち合わせも終了。見積もり凡そ200万円。万代伯母の時より参列者が若干増える予定なので、棺桶は十万円安いものにした。此れも故人の為である。

バスで地元に戻り、少し贅沢しようと「銀座アスタ―」に家人と入る。吾人など丸一日何も食べていなかった。2500円のランチコースにしたが大して旨いものでは無し。概ね場所代とサービス料だな。少し高めの中華なら「燕来香」にすれば佳かった。まるで頭が働かず思い浮かばなかった。一時半頃帰宅。猫を撫ぜた後は、只管午睡。起きた後は遺影候補探し。序でに此の日記を見直す。確かに急激な老衰である。直前まで頑張ってくれたと言うことなのだろう。

 

10/10・水

 三時間くらいの睡眠の後、再びに参る。針が入らないので点滴も中止。姪の優子さんも来たる。色色な親戚の近況話を枕元で聞かせた。夫の清二さんに薬を飲ませなくてはならないというので御昼には退席。其の際、駅前の「一仁」という蕎麦店で休憩。千歳船橋及び農大前グルメも此れが最後だな。

家人も一旦帰宅したので午後は吾人一人で見守る。見ていると段段呼吸が弱くなっている。此れは危ないと思った。急いで家人を呼び寄せる。午後六時着。以後ああでもないこうでもないと枕元で呼び掛けた。家人共共涙声になる。併し再び小康状態に。九時頃にも弱くなったが、結局其のまま二晩目に突入。例によって医療機関ではないので心電図なども無い。体温と血圧と脈と酸素濃度を測る以外は全て目視と触診である。昭和前半の医療水準だな。「もう少し頑張って」が「よく頑張った」になっても、状況は変わらず。睡眠不足と体調不良で家人などふらふらである。何だかもう少し掛かるような気がした。万代伯母の時はこんな状態が数日続いたから。

ただおむつ交換多し。色色な物が出るのだろう。脈拍、体温も高い。他は乱高下していてよく分からないという。氷枕をし、吾人が団扇であおぐ。胴体は熱いが手足は異様に冷たい。ハアハアと概ね苦しそう。何かのテレビで見たが老衰死は苦しくないのだというけどね。頭の中までは分からない。再び翌五時まで待って家人と一旦帰宅。看取るというのも頗る難しい。

 

10/9・火

 まあまあ晴れ。ぼんやりしている。すると昼過ぎに様子を見に行った家人から、もう危ない感じだと電話がある。吾人も急いで施設に参る。行って見ると、呼吸が荒く、意識は全く無し。手足も浮腫んでいる。此れは愈愈だと思った。緊急に家人と泊り込んで不寝番をすることとす。以後呼吸はまあまあ安定。但し脈拍は100前後、発熱もある。施設医によると、全身を守ろうと心臓だけが果敢に動いている状態だという。そして心臓が疲れた時が最期になると。

家人には簡易ベッドを出して貰い、吾人は椅子でまんじりともせず。手足を摩り、ふくらはぎを揉み、唇を濡らしても反応は無し。痰の吸引にも無抵抗。目の周りも一段とこけた感じである。昨日の今日だけど全く違う状態である。こういうものなのだな。人の最期と言うものは。

併しこうして三人が一間で過ごすというのも絶えてなかったことである。銘銘別別に旅行に行くことはあっても、全員で纏まって行くことなど数十年来無かったから。そんな感傷にも浸る。特に明け方が危ないと思った。厳重に警戒す。翌朝の五時まで待って、吾人は一旦帰宅す。

 

10/8・月

セレベスと言うと里芋の一種を思い浮かべる人が多いかもしれないが、現在はスラウェシ島と言う。バリ島の上のバナナ型の島である。なかなか情報が入ってこないが相当な地震津波被害が出ているらしい。他島国家は統治が難しい。陸軍より海軍を強化しないと救援活動もままならない。

 日中曇り勝ちで二十五度程度。まず施設に参る。概ね昏睡状態に近く、此方の問い掛けにも無反応。何だか呼吸が苦しそうで大口を開けている。酸素濃度は二から三に容量アップ。唇をびしょびしょにしたら少し閉じた。手と足は動かしていたけどまた弱ったな。一時間ほどで退出。

浮かない顔で世田谷通りを戻る。「陸」は大行列。やむを得ず「ねこぜ」という店に入る。後にも先にも吾人一人。油そばが看板メニューらしい。初めて食べた。不味くはないが、汁がない分、全く腹が膨れない。其の上フーフーとやらない分、物凄く速く食べるから、満腹中枢も一杯にならない。麺は最低二倍は欲しいと思った。ほんの御口汚しで750円。此れでは陸に勝てる筈もない。そもそも農大生あっての飲食街だろう。ニーズを取り込めていない頓珍漢な店である。アルコールが絡む夜は兎も角、昼は腹いっぱい食べさせて上げなくちゃあ(みんな朝抜きだろうから)。結局牛丼を持ち帰って家人と食べた。

体育の日と言うこともあって往路復路とも駒留通りを全力運転す。運動はこうした日日の活動で十分である。植木屋さんに代金を支払う(7万円プラス消費税)。夜はスーパーの焼き秋刀魚。頗る小さいが一匹170円。今年は十匹は食べたな。阪神が勝手に落ちて来てくれて中日は最下位を脱出。併し今年も多くの選手が引退した。

 

10/7・日

 晴れて異様な暑さとなる。先ず施設に参る。概ね寝ている。一時間半滞在して発した言葉は「うるさい」の一言だけ。続いて小田急+メトロで神宮球場へ。大学野球の観戦。参加者は月波君と坪上君と鷺乃間君。例によって二階席で牛飲す。酎ハイ数缶、ワイン二本。相手投手のボークでサヨナラ勝ちと言う結果に。気分良く外に出て見ると人の海。今日はプロ併用日であった。阪神戦と言うことで消化試合ではあるが人が集まる。

 炎暑の中を店を探して延延と歩く。途中の国道ではスーパーカーが爆音を立てている。最近はああいう暴走行為が流行っているらしい。交通警察は何をやっているのだろう。這う這うの体で渋谷の外れの「澤乃井」と言ううどん店に入った。安くてつまみ類も豊富。奥多摩の酒造会社とは関係ないらしいが、表参道辺りにはない店である。苦労して歩いた甲斐があった。うどんは細目で大人しい感じ。藤松君も合流。吾人は適当に切り上げて帰る。店から出た途端大きな鼠と遭遇。あれはシロでも捕れないな。七時過ぎ着。

 

10/6・土

 25号は日本海を北上。暖気が入り夏のような気候。台風が来るぞ来るぞと大騒ぎしていたが、暑い以外の何の影響も無し。昼は池尻の「ホーチャン」でカレーセット(680円)。此処のカレーは千寿の「りんりん」を少し濃くしたよう。頗る旨い。今度は単品で頼もう。午後須見伯母から伊那の松茸を貰う。早速炊き込み御飯にして食べたが、急いで作ったので出汁が足りず、味は今一つ。まあ松茸は香りを楽しむ物だよな。

築地は本日限り。とうとう一度も行かなかった。遺棄された多数の鼠が心配なのだという。しかし魚食文化が衰退すれば、いちばも仲卸業者も要らなくなる。何しろ近所のスーパーには養殖魚と冷凍魚しか売っていない。

 

10/5・金

 京成線は塩害で全線運休。架線が次次ショートする。霧雨が降ったのが却って悪かったよう。今頃になって被害甚大である。京成は風には強かったのだけれど塩には勝てないな。見たところ、保線区員が竹梯子を掛け、一本一本碍子を拭いていた。御苦労な事である。夕方は総武快速(線路陥没)、更に東海道京浜東北も止まる(沿線火災)。関空に続いて成田空港は陸の孤島と化す。所謂厄日だね。

 午後はかなりの雨。バスで施設に参る。呼吸の状態も良くスヤスヤ寝ている。こうなると大してすることがない。持ち込んだラジオを聞きながら、時折唇を湿らしたり、眼を拭いたり、鼻のチューブを直したり。交代に来た夜勤専門の看護職にも挨拶して五時近くに退出。「帰っていいか」と聞いたら首を縦に振っていたから、一応此方の声は聞こえているのだろう。再びバスで戻る。平和賞も決まる。委員長と大統領だなどという馬鹿な予測が外れてよかった。

 

10/4・木

 消費増税まであと一年。食料品は8%のままとなるらしいが、振興を図るというのなら沖縄県も少し安くすべきであろう。日中やや重い曇り。午後通常出社。此の所週一勤務である。退社後は立ち飲みBとバーIで合計2500円。結構飲んで帰った。着いてからも風呂に入ったり、シロを弄ったりして三時頃就寝。

 

10/3・水

 最近はプラスチックのストローが目の敵にされている。まあ確かにこうしてゴミ拾いをしていて、結構落ちていることは落ちているが、此れが下水道から川へ出て、流れ流れて粉粉になって海を汚染しているとまでは考えられないな。要は形代にされたよう(ペットボトルやレジ袋の身代わりである)。其れより海辺の一斉清掃の方が遥かに効果的だと思う。運動と気分転換にもなるしね。

 概ね明るい曇り。今日は吾人が参る。途中公苑横の「くら」で寿司休憩。行って見ると九割方寝ていた。枕元に腰かけ、「寒い」と言われれば布団を掛け、「暑い」と言えば其の逆の事をする。また嚥下状態が悪いので食事提供は停止。時折味付き高カロリー輸液のようなものを飲ませることとなった。二時間弱滞在す。松陰神社横で焼き鳥を買って帰宅。水曜は当分の間不出社として貰った。

 仏頂面の巨人の監督も辞任。若いのだからもっと溌剌としていなくてはね。やりたくもない監督を押し付けられた感が溢れていた。此の人とは出身高校が同じなんだけどなぁー。一方中日の監督は誰がやるのだろう。兎に角、明るい人を頼みます。カラ元気でもないより増しなので。夜はアレルギー酷し。

 

10/2・火

 下らない組閣が、ノーベル賞受賞で霞んで良かった。抗生物質の発見が結核治療を根本的に変えたように、今後は癌治療も薬剤投与が基本となるのだろう。外科の仕事は少なくなるかもしれない(怪我と心臓疾患を除く)。後は早く認知症の薬が出来ますように。身近な範囲でも数名が罹患している。本人は兎も角、周りの人が大変である。

 日中秋晴れ。今日は家人が出動。映画「皇帝のいない八月」(1978年)。鉄道の日に合わせてケーブルテレビでやっていた。恐らく数十年振りに見た。今見るとあんまり質のいい作品とは思えないが、併し此処で出て来る政治家像は昭和の怪物其の物。若い人が見たら時代劇だろうな。戦後三十年と七十年の違いである。寝台特急も無くなったのだから、ああいう連中も少なくなる筈である。尤も改憲を唱えるネトウヨ首相がこんなに長く続くというのも想定外だが。静岡西部はまだ停電中。被害甚大である。

 

10/1・月

 未明も大変な風。此れでは計画運休もやむを得ないな。シロが怯えていたので一時収容す。四時頃には収まる。明るくなったので早速復旧作業。空き家の二階部分、外壁の一部が雨戸の戸袋ごと剥落し、使っていない電話線を切断。土壁が露出す。被害甚大である。

 朝から晴れたが、倒木等によりJRと京王はズタズタ。結局駅には人が溢れた。今朝も計画運休にすべきであった。人が多いこと自体が既に災害の一つである。家人体調不良の為、吾人が参る。例によって23系統なのだが、千歳通りが倒木の為、農大前から徒歩連絡。一キロ強は歩いた。今日は吾人で佳かった。

併し農大の木が続続倒れたよう。農業より林業をもっと勉強して欲しいと思った。また老家人は此方の問い掛けには応えるが、何だか声が弱弱しい。此の二日は絶食だという。痰吸引を見守り、一時間半ほどで退出。都民の日だが、小田急+千代田線で千寿校に回航。途中散髪す。退社後は町屋のBに行くもD店長は不在。軽く流して並びの「檜家」のラーメンで締める。断眠と不眠で何だか疲れた。十一時就寝。