宿願の路(みち)

 わたくし貧乏卿は、貧乏ですので、旅をするといっても、たいてい青春18きっぷのお世話になり、ローカル線を中心に、主要幹線であっても普通列車を利用して移動します。また、高速バスもよく使います。奮発して新幹線や飛行機にもたまには乗ります。
 普通列車だと東京から名古屋までだいたい6時間、大阪まではさらに3時間といったところです。これでも戦前の急行列車並みの速さです。東海道線東北線といった幹線ですと、各駅停車でも最高速度は100キロ以上、平均で5-60キロはいきます。
 なかなかに快適なのですが、都市部の通勤路線や新幹線を別にすると、どこの鉄道もお客が乗っていないですよね。先日は九州の豊肥線や、新幹線の開業により三セク化された肥薩おれんじ鉄道に乗りましたが、新型のディーゼル車に乗客はわずか数人です。地方では、鉄道は交通の主役ではありません。
 この国の交通網は、戦後急激に発達してきました。今日では、既存の在来線から、新幹線やクルマや航空機へと比重を大きく移しています。ここで思い出すのは、以下の一節です。
「外は暑いが、高速バスの中は冷房がきいていて、涼しかった。冷房と言えば、今の日本では、バスだけではなくて、一般の住宅でも、装置を取り付けている。冷房だけではなく、日本の電化製品の普及は、たいしたものだ。それにしても、物があふれ、道路も鉄道も戦前とは段違いに整備された日本で、冷房のきいたバスに揺られていると、物と輸送力がないためにあんな悲惨な戦争をさせられた国の、戦後のこの大発展は、皮肉だな、と辰平は思った。戦争に必要なものが戦争中にはなく、だから負けて、負けたあとで手に入れているのだ。」(古山高麗雄『フーコン戦記』)
 新幹線も空港も道路もこの先まだまだ作られます。そこに、ゼネコンの利権や、道路族の暗躍を見ることは容易でしょう。
 でも、この国の道路や鉄道への並々ならぬ投資ぶりを考えると、戦中・戦後に移動で苦労したことへの、なにか怨念のようなものを感じます。
 道路や自動車の不備のため、戦時中は徒歩で行軍し、復員後は超満員の買い出し列車にぶらさがる。当時のあまりに悲惨だった輸送機関への不満というか、さらにいえば悲鳴のようなものが、戦後を生きたひとたちの脳みそに刷り込まれてしまったのではないでしょうか。だから、もっと速く、もっと便利に、もっと遠くへと、宿願を果たすように道路網や新幹線を拡大し続けてきたように見えるのです。
 土建国家と一口に言いますが、どうもその根は、日本人の精神構造というか、下意識のレベルにまで達しているように思えます。楽に移動したいという日本人の切実な願いは、すでに達成されました。でも、もっと便利に、もっと速く、という欲望だけはけっして満たされることなく残っている。そして当たり前のように次々とお金が使われていきます。
 この国の土建体質を変えてゆくには、速さと便利を求め続ける、私たちの精神構造を何とかしなくてはならないのだと思います。そしてそれは、ますます容易ならざることのように、私には思えるのです。