2014年10月

10/31・金
 法曹界に特需をもたらした過払い金の返還請求が、間もなく時効を迎える。そうなると弁護士も司法書士も飯の食い上げであるが、次の仕事は既に決まっているという。次の対象は残業代払え訴訟。此れで少しは日本の酷い企業文化も改まってくれると有り難い。日銀は金融緩和を続けるとのこと。せめて株価だけは維持したいのだろうが、此れで益益撤退できなくなる。
 午後遅く千寿に出社。今日は半蔵門線に本ではなく携帯ラジオを持ち込んだが受信できず。都営地下鉄は再送信サービスを行っているが、メトロはやっていないと後でわかった。最近はネットでもラジオが聞けるそうだが、生憎何とかフォンがない。
退社後はセルフうどん店で麦酒を二杯飲んで帰る。ハロウィンということで、今年は子どもだけでなく、いい大人も魔法使いのような恰好をして歩いている。日本式ハロウィンは年年成長しているといったところか。会社も学校も詰まらないから、こういうイベントで燥ぎたくなるのだろうと思った。


10/30・木
 日朝交渉が再開されたようだが、やはり隠し玉は無いよう。何か隠しているというより、拉致問題に関しては、正直もう何もないのかもしれない。この点に関しては恐らく日本政府も薄薄認知しているのだろう。併し家族会の手前、返せ返せの一点張りにならざる得ないから交渉も進まない。一度沸騰した国内世論を収めるのが難しいのは、日比谷焼打ち事件以来のことである。午後出社。退社後月波君来たる。佐渡屋で今週末の伊那行について話し合った。


10/29・水
 三十五人学級で成果が上がってないから、小学校を今まで通りの四十人学級に戻せと財務官僚辺りが言ってきているらしい。成果が無いと言えば無いのだろうが、我儘な親と子を相手にしているのだから、それも仕方のないことである。日本の学校の先生は世界で最も働いている。更に労働強化をしようとするなら、どこぞの牛丼店のようにそれこそみんな怒って辞めてしまうかもしれない。成果が上がらない事業なら、他に幾らでもあるだろう。公平を期して、そちらからも予算を取り上げに行くべきであると思った。
 一日晴れ。午後出社。業務の多角化のためパソコン教室を始めると無責任社長が宣う。大方近所の年寄りにでも教えるつもりなのだろう。それにしても十年遅いと思った。給料の一部として金伍万円受け取る。漸くこれで今月の給料は鉢万円に達した。立ち飲みBに寄る。馴染みの店員に随分親切にして貰った。


10/28・火
 とうとう羽田空港でも何とか出血熱騒動。幸い精密検査の結果は陰性で済んだ。しかしそもそも伝染病を水際で防ぐことなど出来そうにない。検疫は英語でQUARANTINE、元はベネチア訛りのイタリア語の四十日間という意味だという。つまり別の大陸から来たような人は、それぐらい隔離された故事に由来する。帆掛け船の時代でも苦労したのだから、ジェット機時代の水際作戦など、どうにも望み薄である。となると世界全体の公衆衛生の問題になるのだろうが、世界の隅隅まで上水道と下水道と手洗い習慣を行き渡らせるには、途方も無い御金が必要である。ぽんと気前よく出してくれるような篤志家は居ないだろうか。
 朝は冷えたが、日中はかんかんの秋晴れ。六号室の工事始まる。まずは古い造作の撤去から。シンクや湯沸かし器や押し入れ棚が片づけられた。昼過ぎに不動産屋に書類を持って行く。不動産屋も近代的なビルに入っている。思えば此の業界もパパママでやっているような家族経営的な所はもはや少数派である。何処の駅前も明るい店舗で埋め尽くされている。何処にそんなにたくさん引っ越しする人がいるのか。実に不思議な光景である。
晩食は持ち帰り鮨。舎利が大きくて幾らも食べられないと老家人は宣う。年寄り向けの鮨という物はないのだろうか。夜家人が帰宅。此れで吾人の肩の荷も下りた。


10/27・月
 今日も老家人と二人暮らし。昼食は昨夜の鍋の残りにうどんを入れて供す。夕飯用としてスーパーの弁当を置いて出社。夕方までは暖かかったが夜は北風が強まる。退社後も中華立ち飲みに留めて早目に帰った。


10/26・日
 家人が四国に行くというので、早朝から荷物を持ち、品川の新幹線駅まで見送りに行った。来た道を其のまま帰るも面白くないので、当てもなく大森に出る。駅前の甲斐路という食堂兼居酒屋のような店でモーニングビール。それに280円の天麩羅そばを食べる。蕎麦はふにゃふにゃの茹で麺を使用。ただ京浜線沿線にはこういう店があって良かった。其の後世田谷方面に行く数少ないバスに乗り、環七で下車。歩いて帰る。
朝が早いと一日が長い。少しの草取りと軽作業。老家人の晩食は吾人が用意する。適当な鍋料理を拵え二人で概ね黙って食べた。


10/25・土
 妊娠を理由に降格させられた人が、怒って裁判を起こした件で、原告勝訴との判決があった。つくづくこの面に関しては日本は地を這うような後進国だと思った。併し日本社会にも、一応離陸の機会はあることにはあったと思う。80年代中頃に漸く週休二日が定着し、さあ次は育児休暇か有給休暇かあるいは時短勤務といった局面に移動しようと思った矢先に、日本経済は鍋底不況に転落す。そしてもたもたしている内に、更に深い深いデフレーションという奈落の底に落ちることとなる。会社が儲からない以上、産休も有給もあったものではない。社員も給料も減らし放題の過労死社会である。こうなるとつくづく日本社会には運がなかったというべきか。それにしても万事経済の流れに任せて仕舞っては労働政策も社会政策もあったものではなかったということになるのだろう。併し90年代に巧いこと転換できていれば、もう少し休暇と内需、そしてまともな雇用の多い社会になっていただけに悉く残念である。
 一日概ね晴れ。自転車で近隣古本屋の定期巡回に行く。又幾つかの店が無くなっていた。馴染みの店に行くとシャッターが閉まっている。幸い此処は古書市に出動中との張り紙があった。結局五反田の古書会館まで自転車の足を延ばした。日に当たったところが早速痒い。


10/24・金
 閣僚に次から次へと御金にまつわる問題が浮上す。此処まで政権批判を控えて来たような感があるマスコミ各社も、こぞって酷い酷いと言い始めた。政治と金は分かりやすいテーマだから、こういうことになるのだと思った。出来ればもう少し早く批判して欲しかったと思う次第である。安倍の後は、総裁経験者のあの現幹事長あたりだろうか。緊縮政策で財政再建に取り組むことになるだろうから、国土強靭化などという馬鹿げた計画も強制終了であろう。そう思うと、ますます清清する。
 久久に晴れたが何だか日中もぼんやりと過ごす。漸く夕方重い腰を上げる。地元の本屋で、半蔵門線図書室で読む本を購入してから田園都市線に乗車す。どちらも新書で『思索の源泉としての鉄道』と『フランクフルト学派』。流石に読みごたえがあり、あっという間に千寿に到着す。授業にはまだ時間があるので、そのまま下り急行を乗り通す。折り返し乗車は不正だから座席は禅譲し、立って夕暮れの街並みを眺めた。草加で上り列車に乗り換え。偶然どちらの車両も東急8500系で爆音を轟かせて走る。東武線を全速で走る8500系というのも田園都市線とは違った感じがしてまた佳い。それに並走する緩行線の列車をそろりそろり追い抜かすのが、まるで他人の部屋を覗き見しているようで何だか面白かった。退社後は、中華の腹心に寄り直ぐに帰る。本日など授業の時間より電車に乗っている時間の方が長かった。


10/23・木
 昨日の雨は昼過ぎまで降り続いた。昏昏と寝る。どうも今週は鬱週間である。午後出社。退社後も二店に留めて早目に帰った。一応此れで、佐渡屋、立ち飲みB、立ち飲み中華、バーIと、一回ずつは挨拶をしたことにはなるが。


10/22・水
 ところで香港では、怒った学生と行政当局が数週間対立している。今回、学生と対話集会と相成った。成果については定かではないが、学生が世論をリードするあたり日本では数十年みられない光景であり、大したものだと感心す。
 一日雨。小咳が出るなど午前中は体調優れず安静にす。午後バス出社。退社後も一杯だけ飲んで直ぐに帰った。寒気が強まり何だか物憂い秋雨である。三十分に一本のバスを環七で降り、スーパーで売れ残りの半額惣菜を買い、少し濡れて帰った。


10/21・火
 午前中は小雨模様。設備屋さんが来て六号室の下見。風呂の湯沸し器から台所に給湯線を引いて来られるとのこと。但し床を剥がす必要があり、そこそこの中工事にはなりそうである。つくづく一旦作ってしまった設備の改修は大変である。
家人が四国の親戚に会いに行きたいというので、渋谷駅まで切符を買いに行く。出札業務も自動化が進んでいるから、有人窓口に並んでいるのは概ね外国人と高齢者である。見たところその半分がジパング割引の利用客といったところだろうか。年寄りは万事が遅いし耄碌しているから、何組かが流れを堰き止めているようで、列はなかなか進まず。15分ほど待って今治までの乗車券と「ひかり」と「しおかぜ」の指定特急券を発券して貰う。
漸く買って帰った切符を家人に見せても字が小さいから、どの紙が、どこへ行く乗車券で何の特急券だかよく分からないという。上から太いマジックで大書きする訳にも往かず。近近切符もA5版ぐらいに大きくせねばならないと思った。そうなると改札機の改修が大変そうである。大体、子どもの頃のことはよくよく思い起こせば何とかなるが、年を取った後のことは、身近な年寄りをよく観察し、色色と想像しなければならない。年寄り向けのサアビスが今一つなのは、その観察力と想像力が足りないせいなのだと思った。


10/20・月
 件の女性閣僚辞任す。頭の中身は比較的まともな三世議員だが、古い後援会の体質に飲み込まれた格好となった。序に法務大臣も辞任したが、思想信条的に辞めてもらいたい女性閣僚はまだまだ沢山いる。後援会がらみだと裾野が広い。自殺者が出ないか心配す。
 内装屋さんが来て六号室の見積もりを取る。此の部屋の風呂は二年前に直した筈だが、台所には二十年物の瞬間湯沸かし器がガス管を剥き出しにして鎮座している。今の時代、室内焚きの湯沸かし器なぞ見ているだけで恐ろしい。早速室外方式に変更するようお願いした。午後出社。相変わらずの給料不払い万事不愉快学院である。仏頂面をして過ごす。退社後は佐渡屋に。久久に咲子さんがいた。而し土曜の飲み過ぎの後遺症からか幾らも飲めず。中程度に飲んで帰った。皮膚炎対策でぎりぎりまで薄着をしていたら喉が痛い。風邪を引いたよう。


10/19・日
 朝方はかなり気分が悪かった。百草丸を三十錠飲んで何とか治めた。一日晴れ。六号室に取り付ける換気扇を散歩がてら買いに行った以外の大きな外出はなし。


10/18・土
 とうとう95になった伯母が入る老人福祉施設が、秋の催し物をするというので、老家人と参る。併し二人で行ったのは却って不味かった。伯母は我らを見るなり、実弟が二人もいると大混乱に至って仕舞った。年齢は全く違うが、同じ顔に見えるのだろう。仕方なく吾人は後方待機す。年を取るというのはつくづく難しい。ところで施設としては、秋祭りと称して、女の介護士には浴衣まで着せて、色色と盛り上げてくれてはいるが、耄碌して仕舞えば、そもそも秋も祭りも分からない。結局保証人や後見人のためにやっているようなものであると思った。
 老家人とバス停で別れ、吾人は千歳船橋駅から小田急線に乗り、登戸で南武線に乗り換え、武蔵新城に回航す。今晩は鷺乃間君のお膝元で読書会兼飲み会である。同席は月波君と坪上君。まず「かとりや」で焼き鳥を摘まみながら丸山手帖を読む。結論としては、㊀丸山先生が格闘した天皇制の呪術的部分は大部後退したこと、㊁今上天皇開明的な人格者であること、㊂自民党改憲派が唯一気にしているのは天皇であること、㊃天皇を護憲の象徴に仕立て上げる(天皇の野党的政治利用)ことはある程度成功するだろう、㊄しかし成功すればするほど天皇は政治に関わり易くなり、それはより危険な時代の到来を招くことになるだろうから、やはり止めた方がいいということで、話しは概ね纏まった。其の後は、河岸を代えながら大量飲酒に至る。ふらふらになって帰宅。恐らく十一時ごろ。


10/17・金
 昨年の六月頃から右膝が痛い。此の処特に痛い。今度は吾人が病院通いになるのかもしれないと思うと暗澹とす。室内に居ても日焼けがしそうなくらいの秋晴れ。ぼんやりしていると鎌倉の伯父さんが行方不明になったという報が入る。僅かな間に伯母と逸れたらしい。場合によっては吾人も捜索本部に加わらなければならないと思うと気もそぞろである。夕方千寿に出校。幸い宵の入りには見つかったそう。それにしても年を取るということは大変である。すっかり安心したので久久に品川に回航す。併し金曜会は既に解散状態で、結局ほぼ一人で飲んで帰った。タクシヰで帰宅。1720円。
韓国政府は、大統領の悪口を記事にした日本の新聞の特派員を、意地でも裁判にかけたいらしい。同様の記事はあちこちに出たらしいが、狙い撃ちになったのは此の特派員だけである。大人げないとは思うが、やはり韓国としては、三恵新聞だけは許せないのだろう。吾人が韓国大統領なら同じ行為をしたかもしれない。また週刊誌の報道で若手女性閣僚の杜撰な政治資金が明らかになる。こういうスクープを出すことこそ週刊誌の真髄である。これを機に本業に回帰して頂きたいものである。此れで支持率が益益低下するかと思うと二日続けて清清す。


10/16・木
 一日概ね晴れた。一気に冬型になった感じ。日が十分傾いてから出社。退社後も割と早く帰った。幾人かの不明者を残して御嶽山の捜索終了す。死者と行方不明者は六十名を超える大災害となった。アメリカの景気失速を受け、株価が益益下がる。愈愈此れで何とかミクスが御仕舞になると思うと清清す。


10/15・水
 北から寒気が入り、昨日とは一転して朝から冷たい小雨が降る。家人は東横病院に検査結果を聞きに行く。従って吾人は老家人に付き添って大橋病院へ。例によって大病院は高齢者で大混雑である。泌尿器科と眼科に短く挨拶して帰る。程なくして家人も帰宅。胃腸の検査結果は異状なしとのこと。何とか此れで秋の通院強化週間も終了の筈である。
 午後自転車出社。肌への刺激を逓減する為、先月に引き続き散髪す。行き先は、いつもの勿体ぶって大して切らない1080円床屋である。併し当方は非常事態ゆえ、特に短くするよう細かく注文を出した。退社後は珍しく仲田大将が回遊して来る。中華立ち飲みと佐渡屋に寄って帰った。気温が低い上、雨だから湿度も高い。理想的な気候である。肌の状態も好転す。ステロイド剤が殊の外、効いたのかもしれない。
読書会をしようと月波君から資料が送られてくる。「丸山眞男手帖」の休刊特別号。流石に読みごたえがある。夜更けまで読みこんだ。


10/14・火
 朝からかんかんに晴れた。日差しを避けながら、早速近所の皮膚科に行き診察を受ける。皮膚科は数年ぶりのことである。ありきたりのステロイド剤が処方されるが、此れがまたなかなか効かないのは周知の事実である。それでも診察料と薬代を足しても1700円なのだから、健康保険制度に感謝すべきであろう。
一方の老家人は間質性肺炎が疑われるとのこと。恐らくは血栓を溶かす薬の副作用であるとの見立て。何のことだが分からないが、自覚症状もないから、取り敢えず薬を代える以外の措置は無し。此れも広い意味で一昨年の脳梗塞の後遺症であろう。
刺すような痒みは急には治まらず。一日漫然と過ごす。今日も二缶のみ。楽しい筈の連休は滅茶苦茶となって仕舞った。


10/13・月
 昨夜は痒みでよく寝られず。朝から冷たい小雨。其の後、漸く落ち着いてきたので、昏昏と午睡。発熱や痛みも辛いが痒みも辛い。結局二日間殆ど寝込んだ状態となる。痒みで行動不能になったのは人生で初めてであろう。今日も二缶のみ。
台風19号は、朝方南九州に上陸し、四国、近畿、中部、関東を通る縦断コースとなる。都内も夕方から本降り。また京阪神地区のJRは新幹線以外早早と運転終了す。台風接近前に全面運休するのは初めてのケーズだという。あとは並行する私鉄各線に運んで貰おうという計画らしいが、此れでは慎重というより職務放棄である。夜半から翌未明にかけては結構風も吹いた。外猫は雨には弱いが風には案外平気そうであった。


10/12・日
 台風は九州に接近中だが、関東は概ね曇り。併し此れで折角の三連休も台無しである。体のあちこちが痒く何もできず。一日無為。夜は節税発泡酒二缶のみ。それでも疼いた。


10/11・土
 概ね晴れ。伊那に行けなくなったので、鶴木さんらと川崎みなと祭りに参る。午後一時過ぎに現地に入る。以後、結局延延とお酒を飲むのみである。みなと祭りは、隣の畜産フェアと同時開催であるが、川崎市側はゴミの分別が厳格なのに対して、道路を一本隔てた畜産側は、一切合財同じ箱に入れている。屋台を出して、御客に飲食物を提供しているなど、やっていることは同じだが、物の出口は丸で違うのが可笑しかった。其の後、川崎駅前まで戻り、飲み直しとなったたが、吾人はあちこち痒くて途中退散す。
八時過ぎに帰宅。右腕の日に当たったところが全部駄目である。恐ろしいほど痒くて堪らない。丸で火が点いたようである。中から治そうと花粉症用の抗ヒスタミン薬を飲み、保冷剤を腕に当てて何と痒みを誤魔化した。数年来で一番悪い、全身が非常事態である。連休明けは愈愈皮膚科に行くしかなさそうである。アルコールも少し停止しようと思う。


10/10・金
 昨夜は醸造酒しか飲んでいない筈だか、結局日中ふらふらとなる。漸く正気に戻って、夕方千寿に向けて出立。長い道中で読む物がないので地元の本屋に立ち寄る。下手な新書を買っても十分程度で目を通して仕舞うから御金が勿体ない。其の点一番読むところが多いのは月刊総合誌であろう。実に久方ぶりに『世界』を買って読んだ。目次欄には懐かしい名前が並んでいる。筆者も高齢なら読者も高齢であろう。こういう物を若い人にも読ませるにはどうすべきか。そんなことを考えている内に千寿に着いた。
 退社後は先日行った鰻都都へ。此の店の麦酒はずっと半額らしくて有難い。麦酒三に、名刺大の鰻が載っている五百円のうな丼を食す。他にもおでん二品に、焼き鳥二本も頼んだが、1520円で済んだ。恐らく何か勘定し忘れていたのだろう。 


10/9・木
 今度は老家人の肺に影があるとかで、区の保健センターで精密画像診断を受ける。結果次第でまた病院巡りである。再び台風接近とのことで、今週末の伊那行はキャンセルとなる。折角の連休なのにつくづく残念である。
午後出社。立ち飲みB、佐渡屋、バーIと連戦す。一時半帰宅。蒸留酒を飲むと体が熱くなって皮膚に悪いので麦酒だけを飲んだ。


10/8・水
 今日も予算委員会。野党議員が、賭博は持統天皇の頃から禁止されているのに、なぜ今になって解禁するのかと質問していた。博徒や盗人などのいわゆるアウトローたちが、歴史に及ぼした面も大きいが(『博徒と自由民権』)、いざ賭博が解禁され国家と観光資本に囲い込まれるとなると、また違ったことになるだろうと思った。
 午後出社。今晩は皆既月食ということなので双眼鏡を持ち込んだが、肝心なところで曇って見えず。天体観測会とはならなかった。退社後は鶴木さんと佐渡屋に寄って帰った。


10/7・火
 午前中は参議院予算委員会を見る。やはり女性閣僚の立ち位置が問題になっているよう。第一次安倍内閣は御友達内閣と揶揄されたが、今度の改造内閣は女の御友達で足元を掬われそうである。
家人は今度は腸の検査とのことで、再び東横病院に行く。一方の吾人は家人の名代として、御茶ノ水の大学病院に参る。鎌倉の伯母に付き添った。昨日の台風の影響からか、振替診療が殺到していて、一般外来は重病人の大行列である。尤も待ち時間が長い分、付き添い甲斐があるというもので、伯母とはたっぷりと無駄話が出来た。伯父さんと伯母さんを丸ノ内線に乗っけて吾人は帰宅。其の後、例によってふらふらしながら家人も帰宅す。何というか、今月も病院巡りである。
 青色LEDの発明者がノーベル物理学賞に選ばれる。LED、一昔前は発光ダイオードと呼んでいた。発光ダイオードと聞いて最初に思い出すのは、「スーバーひたち」という特急電車のヘッドマークである。確か初めてLEDで拵えたとかで、相当脚光を浴びた筈である。民営化後に初めて作った車両なので、JRも気合いが入っていたのだろう。他のどの車両よりも格好良く見えたものである。
発光ダイオードといっても、当時は少し変わった豆電球といった程度の認識だったが、青色の発明により一般電灯からスマートフォンにまで何にでも使われるようになった。白熱灯と蛍光灯に代わる照明器具の大きな変革をもたらしたのだから、ノーベル賞に値する快挙である。ただまたこれで日本人は素晴らしい式の洪水報道があると思うと、今から閉口す。立派なのは永年の研究者たちで、日本人全般では無い筈である。全国民がLEDをいち早く購入して節電したというのならば話しは別であろうが。(ノーベル節電賞)
ところで「ひたち」には数えるほどしか乗ったことは無いが、一度仙台から上野まで乗ったことがある。新幹線に比べるまでもないが、海沿いの平坦な線路を在来線最高速度で走っていて、取り分け速い特急だと感心した気がする。其の鉄路もあの大事故で途絶えて仕舞ったままである。また当の651系も常磐線を引退し、最近は高崎線に再就職している。世界を太陽光発電で出来た電気とLEDで照らし出し、一方の原子力には早く隠居を願いたいものである。
夜はドラマ「聖女」最終回。女主人公は失明した挙句に入水す。何だか丸で救いのない内容で、公共放送の内容として大丈夫なのだろうかと少し心配した。最近此の種のドラマを二つ見たことになるが、概して言えることは、ドラマの中の偶然が幾らなんでも出来過ぎていること。起きている出来事の理不尽さにおいては、現実社会の方が大部先を行っていることの二点である。


10/6・月
 18号は早朝に浜松に上陸し午前中に関東南部、世田谷辺りを通過。雨は酷かったが、風は案外大したことは無かった。御昼には太陽も出る。それにしても先週は火山の噴火で今週は台風の上陸。儒教圏ならば為政者が悪いからだということになるのだろうが。土砂が崩れて東海道線は静岡の由比辺りで断線。貨物列車が通れないから物流が暫らく大変であろう。
 午後出社。四時から九時までずっと立って授業。毎度のことだが体験授業が入った時は特有に草臥れる。特に育ちが良さそうな女の子の時は尚更である。退社後も二軒ほど立って飲んだ。鶴木さんと適当に飲んでいると、飲み屋街の小道にスポーツカーが迷い込んで来て、立ち往生している。入ったからには出られるというものだろうが、結局珍客はあちこちぶつかりながら出て行った。何だか可哀想であった。


10/5・日
 台風18号は九州の沖だというのに、関東付近の前線に東風を吹き込ませ、未明からずっと大雨。而も寒い。夜は雷も鳴った。此のまま行くと関東直撃だという。外猫も心配だが、丁度今週末は須見伯母を尋ねて、月波君が母君と伊那に行っていた。きちんと帰れたかと何だか色色と気になることが多い。基本的には一日無為。


10/4・土
 曇った分、昨日ほど暑くないが、基本的には台風接近中とのこと。一日無為。


10/3・金
 諸物価高騰中だというのに米価だけは下がっている。去年のコメが余っているので、古米より新米の方が安いという逆転現象も生じているという。吾人も何とか米食を増やしたいが、糖質も制限せねばならないから、大して協力できない。一日一膳食うのが精精である。もう一度吟醸酒ブームを起こすか、外国人に買って貰うかしないと、農家も馬鹿馬鹿しくなって耕作を放棄して仕舞うだろう。田んぼが荒れ地に変わる前に何とかしたいものである。
 遠くの台風が南風を吹き付け、日中三十度に達す。丸で真夏のよう。肌の状態が良くないので全身痒く閉口す。市販のステロイドも思ったより効かない。一病息災というが、午後ぐったりしながら千寿に出社。頭が悪い生徒に関数と相似を教えているだけで全身が疼く。退社後は、回転寿司のEにさっと寄って帰った。
 過日のSF展に触発されてか、此処数日、戦前の架空戦記物を取り寄せて読んでみる。戦前は架空戦記がよく読まれた時代である。当然仮想相手国はアメリカということになる。開戦緒戦で頼みの海軍は壊滅、東京も大空襲に遭うが、極秘開発中の新兵器で最後は撃ち勝つという展開が多い。その秘密兵器が、空飛ぶ大戦艦だとか一撃必殺の怪光線といった空想染みた物なので、日本SFの原点は戦前にあるということになるのである。
国威発揚の面もあるから、あまり悲惨な内容は描けない。しかし国民期待の連合艦隊が全滅させられ、東京が焼け野原になるなど、其の後の本物の歴史を鑑みると、一種予言の自己実現といった展開なので、読んでいても何だか恐ろしくなる。いっそ物語の前半で止めて貰えれば、其の後の歴史も違った展開になって、多くの人命が救われたかもしれないと思った。またそうなると刊行できたとは思えないけど。
それにしてもSFにしろ大衆向けの娯楽小説にしろ、時代の空気というか雰囲気を映し出す鏡のようなものである。歴史家や文学研究者は、こういう物にもう少し興味関心を払うべきであると思った。そして将来の研究者たちは、今日の週刊誌やベストセラー書の類をどう分析するだろうか。尤もそんな研究の必要の無い世の中にしたいものであるし、今からそんなことを言うのは一種の敗北主義というものに違いない。予言の自己不実現というのもあるだろうから。


10/2・木
 御嶽山の犠牲者は四十七人に及ぶ。まだ行方不明者がいるかもしれない。登山事故としても火山災害としても戦後最大の事故となった。
 日中曇りがち。家人が内視鏡の検査を受ける。行きはよいよい、帰りは麻酔が効いて酔い酔いなので武蔵小杉の東横病院に迎えに行く。十一時頃ふらふらの家人の手を取り、隣のヨーカの食堂に参る。武蔵小杉は東横線を境に新旧の落差が激しい。高層マンションに見下ろされる此方は、差し当たって旧市街ということになろう。確かに歩いている人も大半が中高年である。食事休憩の後、吾人のジャケットを序で買いして帰った。帰宅後は草取り。本日は休講とさせて頂いた。


10/1・水
 今日から某牛丼チェーンが大半の店の深夜営業をやめる。従業員不足ということだが、そもそも夜中まで騒いでいる若者自体が少ないのだから、牛丼も売れないだろう。当然の措置である。夜は御酒を飲んで大人しく寝るべきで、深夜の暴食など肥満の元である。他店も二十四時間営業を考え直したらどうだろう。午前中は小雨。午後出社。今月も万事不愉快。退社後は佐渡屋に寄って帰った。