15年1月

1/31・土
 冬型の天気に戻り朝から快晴。但し北風強し。昼は北沢の回転寿司に参る。一応職人が握っているが、舎利が余りに大きく巧く握れていない感じ。あちこち米粒がこぼれている。コメの消費拡大には貢献するだろうが、此れでは寿司というより握り飯である。終戦直後ではあるまい。舎利を半分にするようにと注文を付ける。
夕方肉屋に牛肉を買いに行き、夜は鋤焼きにした。百グラム600円の割と贅沢な国産牛だったが、三百グラム買っても、吾人が立ち飲み屋に行くのと同程度の支出である。併しこれを外で食したら大変な金額を請求されるだろう。鋤焼きは日本の代表的な家庭料理であると思った。ちなみに拙宅のすきやきは、文字通りのすき焼きで、つまり関西風である。家人のルーツが四国にある為であろう。従って未だに割り下方式のそれは食べたことが無い。また色色な調理法と味付けがある点では、雑煮も同じである。家人の雑煮には焼いた餅と小松菜と蒲鉾しか入っていないから、此方は東京下町風である。雑煮も其れ以外の物を食べたことが無い。つまり結婚でもしなければ分からない世界というのもあるのだろうと思った。一月も今日で御仕舞。今月は随分沢山書いた。


1/30・金
 朝から降雪。2センチほど積もった。箒で軽く除雪す。御昼前には雨に変わって安心する。シロは喧嘩をしたようで、耳から血を出した跡がある。抗生物質入りの軟膏を刷り込んでおく。未明から朝までの数時間で何があったのか。猫の生態は全く分からない。
 午後は予算委員会を見る。辺野古の埋め立て工事に関しての海上保安官の行動が問題となる。何でも、抗議のおばさんに馬乗りになって抑え込んだという。海上保安官は真面目に海の安全を守って来た筈だから、民衆を叩いたり蹴ったりする任務は、恐らく初めての体験であろう。「こんなことをする為に、海上保安庁に入ったのではありません」とでも言い立てる保安官は居ないものだろうか。嘗てそういう決議をして、戦場から離脱した掃海艇があったと、藤田省三さんの本に書いてあった。(「離脱の精神」『精神史的考察』所収)
 夕方千寿に出校。風邪による欠席多し。退社後は東口の腹心で炒飯を食べて帰った。


1/29・木
 午前中は予算委員会を見る。特に面白いことは無し。午後出社。退社後は真っ先に中華立ち飲みに。関係諸氏が申し合せたようにやって来ては退散するのが面白かった。其の後バーIで飲み直し。久久に天屋先生にも合った。午後から曇ったが半月は辛うじて見えた。つい碑文谷島のラーメン屋に寄る。帰宅は一時前。シロを二時過ぎまであやす。部屋も布団も冷たいから、芋焼酎のお湯割りを煽って就寝。


1/28・水
 再び冬型の気候に戻る。午後出社。途中散髪す。此の時期、余り一度に髪を切ると寒くなって風邪を引く。だから小量に留めた。退社後は久久に佐渡屋に。漸く痛風が治まった鶴木さん暫らくぶりに会う。軽く飲み終えて、何時もの通り自転車を走らせる。すると目の前には半月が綺麗に見えた。職場から見て拙宅は真西に近いから、今夜は月を目指して走ることとなる。その横には大部傾いたオリオン座。三ツ星の先は大犬座の明るい恒星である。こうやって星星を確認しながら走っていると、丸で大昔の船乗りのようだと、暫し思った。
ところで、天文学は何万光年という距離を、また地質学や火山学は数万年という時間を相手にする。どちらもスケールの大きい学問である。其れ故、地球という星の、薄っぺらい地面にへばり付いている人人の生活に対して傲慢になってはいけないのだと思った。人の命は高が数十年などと奢ることなく、出来ればそういう人人の安寧に少しでも寄与する学問であって欲しいと切に願った。途中碑文谷島に寄港。柏屋で370円のカレーライスを補給して帰る。


1/27・火
 少し向学しようと思い、『動的平衡』を読む。冒頭「なぜ、バイオテクノロジーはうまくいかないのか。今日も明日も、メディアには「画期的な」新発見や新発明が報道される。・・・しかし、それはどこまでも一時のニュースであり、多くの場合、まもなく色褪せたものとなり、次のニュースによって塗り替えられる」とある。筆者は「バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものであるからで」「工学的な操作、産業上の規格、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして、生命があるからだ」としている。件の何とか細胞問題を考える上で、何だか貴重な箴言であると思った。
 未明は大雨だったが、午前中には綺麗に晴れた。日中大変暖かい。拙宅付近のガス管交換工事で、朝から騒騒しい。老朽化した管からガスが噴き出されては困るから、何とか我慢するしかない。それに幾ら落ちぶれたと言っても、まだ日本は日本だから、公共サービスはまだまだ質が高いと思った。足元や天井を始終心配しながら出歩かなければならない社会は、不幸な社会というものである。
夜は地学の勉強をしようと、『死都日本』を読む。南九州の火山噴火を扱った科学小説だが、余りに人死にが多い。三・一一以後こういう文章を読むのは正直辛い。結局途中で挫折す。十一時過ぎに、みたびイスラム国から要求が来る。交換期限は二十四時間後だという。全てはヨルダン頼みである。


1/26・月
 昨夜食した宅配ピザと赤ワインが胃の中で暴れ出し、未明に滔滔嘔吐す。先週の水曜に飲み過ぎて以来どうにも調子が悪い。日中割と暖かい。午後出社。退社後は中華立ち飲みに行くも、狭い店内は満員電車のよう。余りに忙しない。田舎の駅の待合室のようなバーIに少し避難してから帰った。夜から小雨。当然傘自転車。
 通常国会始まる。併しどういう訳だが首相の演説は無し。補正予算の審議から始めるから、財務大臣が何事か喋ったらしいが、中継もされなかった。どうにも締りが悪い。こういうことは形式が大事であると思った。昨年の貿易赤字12兆円余り。原油価格下落により今年は少しは減るだろう。


1/25・日
 と書き終わった傍から、昨夜遅くに犯行声明が出る。一人は助からなかった模様。それにしてもこういう残酷なメッセージが、次次とインターネット上に貼り付けられる時代である。吾人は報道機関を通じた物しか見ないことにしているが、若い人には刺激が強すぎるであろう。こういう物を見て育つと、どういう大人になるのか。少し心配である。また今度の要求は御金ではなく、ヨルダンに収監された同胞の解放だという。
 日中晴れて暖かい。昼は柿の木坂の方で回転寿司。其の後ぶらぶらと回遊し立ち飲みBに寄る。日曜だから実に多くの御客がお酒を飲んでいる。飲酒は大衆的な娯楽であると思った。


1/24・土
 一応当初の期限は過ぎたが、今のところ最悪の事態には至らず。ということは、何かしらの交渉が続いているのだろう。尤も交渉自体が漸く始まったところといった方が適切である。身代金目的の一般的な誘拐事件なら犯人側から交渉してくるのが筋というものだが、この手の事件の場合は、連れ去られた側が色色とアンテナを延ばして、犯人側と接触せねばならない。そういう常識的な事が海外事情に疎い日本政府には分からなかったのだろう。だから業を煮やしたイスラム国側から行き成り最後通牒を突きつけられる事態になったのだと思う。何はともあれ、あの朱色の囚人服が赤くなる映像だけは見たくないものである。
ちなみに巷間では、またまた例の自己責任論である。戦場ジャーナリストなどという存在自体、人人の羨望を受けるものだから、皆つい言い過ぎてしまうのだろう。彼らは個人事業主である。個人商店は少しは応援されるべきである。
日中大して晴れず寒いまま。こういう憂鬱な日は、こってりラーメンを食べたい。松陰神社横の店にまで自転車を走らせ、若い人に交じって太麺を啜った。それ以外は無為。家人軽く発熱す。晩食は吾人が用意す。といっても魚屋の刺身と肉屋の焼き鳥を並べただけである。


1/23・金
 朝方は曇っていたが御昼前には漸く晴れた。拙宅前でスマートフォンを拾う。待機画面には小さな子どもの姿が映っていたから、持ち主は若い母親であろう。画像を手掛かりに少し探偵の真似事でもしようと思ったが、やっぱり面倒臭いので近所の交番に持って行った。
夕方千寿に出社。退社後は、どの店に入ろうかと考えている内に駅に着く。結局小諸蕎麦に寄る。食後に缶麦酒でも飲みながら帰ろうと思ったが、構内の売店類は既に悉く閉店していた。結局一滴も飲まずに帰宅す。素面の半蔵門線はつくづく長かった。夕方から大変寒くなる。電車も随分空いていた。


1/22・木
 昨夜の中華立ち飲みの安い甲類焼酎に当たり、朝から朦朧とす。昼はうどんを一束のみ。午睡をしてもまだ胃の不快が取れず。まるで昨日と同じお天気。普段以上に重い体を揺すって傘自転車で出社。
過日作成した大学に提出するリポートの続きを書く。情報通信の分野は指数関数的に進化したが、人の移動速度は鉄道と航空機の発明により、当初こそ二次関数的に向上したが、今はすっかり逓減して、精精一次関数、而も傾きは殆どゼロに近づいていると、東京大阪間の移動を例にとって指摘する。此処で超音速旅客機同様、リニヤ新幹線も大きく失敗するだろうと書きたかったが、それは専門外だから止めておいた。大体情報伝達手段が幾ら進化したところで、肝心の伝えるべき中身が益益薄っぺらになっているのだから、どうにも仕様がないと思った。此方のグラフも直ぐに真っ平になるであろう。アルコールは見たくもないので退社後は直ぐに帰宅す。夜半にかけて再び雨。


1/21・水
 朝から曇り勝ち。午後から冷たい雨。傘自転車で出社。退社後は立ち飲み屋を連戦す。久久に花蓮さんとも出合った。ズボン下の下に下着を履くか履かないかで議論が盛り上がり、帰宅は十二時半。


1/20・火
 秋子叔母さんの様子を見に行くべく、老家人と狛江市に参る。昨夜散散な電話が掛かってきたからである。狛江行きの直通バスは何時の間にか殆ど無くなって仕舞ったが、運よく乗車出来た。すると姪の優子さんも偶偶来ていた。矢張り電話で呼び出されたようである。
以後叔母の進路を巡っての臨時親族会議となる。一応本人の同意を求めつつ、入居の施設を探すという方向で話しが纏まった。それにしても叔母ももう86である。伴侶である壱郎さんを十数年前に亡くして以来の一人暮らしである。その孤独は幾何であろうか。
再び老家人の手を取り、今度は成城経由で戻る。行って話して帰って全部で六時間。世田谷の隣だが狛江は案外遠い。優子さんと久久にお話しできたから有意義な一日であった。草臥れたので、肉屋でとんかつを揚げて貰って、五時過ぎから飲み始めた。
 首相の中東訪問に合わせてイスラム国から邦人の殺害予告。法外な金額の身代金の要求を突きつけられる。金額の余りの多さから考えると、そもそも交渉の意志すら疑わしい。期限は僅か三日後だが、誘拐されたのはずっと前。何らかの事前の接触はあったようだが、今まで一体何をしていたのだろうかと訝る。此れは決して抜き打ち試験では無い筈である。


1/19・月
 午後出社。授業見学あり。但し御本人は御用があるとかで母親だけ見学す。子どものためを思ってのことだろうが、どうにも変な参観日であった。最近新規の問い合わせが多い。長年大貧学院のライバルであった、尤も先方は此方を何と認識していたかは知らないが、線路の向こうの某個人塾が閉店したからであろう。
退社後は久久のバーIへ。出て来る品物は相変わらずの麻婆豆腐と叉焼しかないが、店の雰囲気が少し変わっていた。併し依然として紫煙が酷い。十二時頃には帰宅す。


1/18・日
 一日晴れ。そういえば今季は風邪を引かない。野菜の大量摂取の御蔭で体質が変わったと思いたいが、何時か一括払いを求められそうで何だか心配する。


1/17・土
 一日晴れ。併し北風強し。昼は地元の回転寿司屋へ入る。未踏の店である。入って吃驚、酢飯はべちゃべちゃ、握りも甘く、丸で寿司の体裁をしておらず。此れでは小学生が調理実習で作った手まり鮨であると思った。而も中年の職人は、割烹着の下は何も着ていないらしく、乳首まで透けて見えている。自動化寿司の方がマシであると後悔す。世の中には一旦決めた店にしか絶対行かないという人がいるが、そういう人の気持ちが分かった気がした。
阪神大震災から二十年。再開発ビルなどは、結局空き店舗だらけだという。当初から大風呂敷だと評判の悪かった復興計画であったが、其の後の日本社会のデフレ縮小までは想定外だったようである。商店街なぞ災害など無くても消滅傾向だから、復興など中中出来る筈もない。大都市の神戸でさえこの有り様だから、東北が益益心配である。


1/16・金
 朝からよく晴れた。痩せて小さな猫だったが、尻尾だけは立派な事から、家人との間ではチビ太と呼んでいた。始終腹が減っていただろうから、朝陽のよく当たる所に、猫餌と一緒に埋めてやった。以後猫小屋の全面建て替え作業に取り掛かる。
 午睡の後、千寿に出校。何だか今日も物憂い感じ。先日の回鍋肉の口直しがしたくて、退社後は飯田橋蝦夷松に一人で寄る。もの凄い量の回鍋肉定食を腹に収めて直ぐに帰った。卒業生用の小盛りサイズが欲しいと思った。


1/15・木
 朝方どうにも外猫の様子がおかしいので猫小屋を覗く。すると何時の間にか別の猫が入って寝ている。慌てて追い出すと、よろよろしながら逃げて行った。以前よく見た若い野良猫だが、相当弱っている。目ヤニで前が見えないらしい。結局庭先で動けなくなったので、ぼろきれを敷いた段ボールの箱に収容す。恐らくもう長くないだろうと思った。
御昼前から関東は冷たい雨。午後は本降り。何だか物憂いバス出社。過日の争議が利いたのか給料参萬円受け取る。授業の合間に家人に連絡すると、夕方には息を引き取ったとのこと。退社後は何処にも寄らず急いで帰宅す。
箱を開けると手足を綺麗に伸ばして穏やかな顔をしている。餌をよく強請りに来たから、此の猫のことは何となく知っていた。此処数か月は見かけなかったが、二三日前から急に姿を見るようになった。うちを死に場所に選んだということは、本当はうちの猫になりたかったのかもしれない。何だか不憫なことをしたと思った。だから庭の先に埋めてやろうと思った。また防疫と消毒作業の為、猫小屋は閉鎖。職場近くのペット用品の店で緊急調達した仮小屋を急ぎ建設す。


1/14・水
 午後出社。退社後は今年初めての中華立ち飲みに。割と早目に戻る。東北で鍛えられたせいか、余り寒さを感じず。来年度の予算案の閣議決定。総額九十六兆円。増税と見かけだけの好景気で税収もそれなりに増える見込みだが、それ以上に公共事業と防衛費に使っている。正しく国家的詐欺である。


1/13・火
 火曜不出社。太平洋側はずっと晴れ。十日振りの予定無しの日。終日日誌を認める。それにしても疲労消耗が著しい。あれだけ新幹線や特急列車を使っても、である。以前は普通列車で何百キロでも移動できた吾人が、である。此れが経年劣化ということなのだろうか。これからはグリーン車に乗るか、宿をビジネスからシティークラスに格上げせねばならないと思った。とてもじゃないが御金が足りない。


1/12・月
 飲みながら乗ってばかりではいけない。少しは見聞を広げなくてはならないと思い、瓢湖で白鳥を見ることにした。8時48分発の普通列車に乗車。115系という車両で、所謂湘南色に塗り替えられている。引退間近なのであろう。プレートを見ると昭和45年製の大ベテランであった。在来線は長命である。
併し瓢湖最寄り駅の水原という駅は、羽越線の末端のような所にあり、列車数が極めて少ない。新発田では思うように乗り換えられず。新潟と新津を経由して二時間かけて漸く到着す。而し千羽も来ているという白鳥は、昼間は大概外出中とのことである。留守番役の数少ない白鳥を見つけて餌を投げ付け、残りは大勢の鴨に食べさせた。
 其のまま帰るのも詰まらない。昨日早早に日が暮れて見えなくなった日本海の景色の続きを見ようと思った。新津から「くびきの2号」という快速列車に乗る。快速でありながら、特急の車両を使っており、車内は快適である。柏崎から先の日本海に見入った。窓外の海は荒れている。幾ら荒れていようが車内には一切関係がない。荒れた海を窓越しに見る分には、大変結構である。いっそ蟹でも飛び込んで来て欲しいものである。
終点は信越線の新井。一応新潟県である。もう少し頑張って足を延ばし長野県側まで入って欲しいところだが、此処で御仕舞。接続列車もない。新潟支社管轄の快速は長野支社の島までは入らないのだろう。何となく昔の国鉄管理局という感じである。止むを得ず途中下車する。特急型快速列車の始発駅だから、何かあるだろうと思ったが、駅前商店街には本当に何もなかった。駅の売店も閉店している。どうにも寂しいと思った。いっそ直江津に戻って寿司でも食べたかったが、後から来た普通列車で其のまま長野に向かう。流石に妙高辺りは大雪で、雪の塹壕のような所を三両編成で走り抜けた。18時過ぎに長野着。
回転寿司に少し寄った後、駅前の「千石屋」という食堂に入る。店内は昭和四十年代で止まっている。こういう古い店が煌煌と残っているから、地方都市は不思議である。あとは新幹線で帰るだけだから散散飲みたかったが、数日来の暴飲でもう胃がざらざらである。結局20時27分発の「あさま560号」で帰ることとす。
長野新幹線に乗るのは生涯二度目である。此の列車も北陸延伸に備えて12両の新型になっている。吾人の人生は一向に進歩発展しないのに、新幹線の車両だけはどんどん世代交代しているので毎回驚きが絶えない。
長野を滑り出て千曲川を渡ると、トンネルを出たり入ったり。ガタンゴトンではなく、しゃこんしゃこんと言っている内にあっという間の高崎である。麦酒は一本しか飲めず。長野から一時間ちょっとで着いて仕舞う。「あずさ」ならまだ甲府である。新幹線がこんなに速いとは思わなかった。其れに安心感が違う。目前に人や鹿や自動車が飛び出して来たり、雨や雪で列車に閉じ込められる心配も少ない。それに大型の車を十二両も繋いでいるから座席に溢れる心配もない。乗っていて此れほど詰まらない乗り物もないが、田舎の人が矢鱈新幹線を欲しがるのも無理もないと思った。
特急料金が勿体ないから大宮で下車。大船行きの湘南新宿線に乗車。座った途端に、汚いおじさんが靠れかかって来て閉口する。併しここで二等車に移って仕舞っては、節約効果もゼロであるから、神妙な顔をして黙って帰った。


1/11・日
 山田線の宮古と盛岡の間は超閑散区間として有名である。盛岡まで行くのは一日四本しかない。まして山田海線は廃線状態、岩泉線廃線されたから、案内板も寂しい限りである。九時半の快速の後は三時近くまで、JRの宮古駅を出る列車は一切ないのである。
三両編成の快速「リアス」は、座席がまばらに埋まる程度。此れでも連休中だからお客が乗っている方なのであろう。北上山地に深く分け入ると人家、人跡は何もなくなる。雪上に動物の足跡は付いているが、猿も鹿も見なかった。そんな山中でも時折有人駅があり、列車到着の際には、長靴を履いた駅員が直立不動の態勢で出迎え、そして送り出してくれる。まさにあの映画の世界である。こういう立派な姿を見せれば、駅員への暴力も大部減るだろうと思った。尤も、都会の人は駅員の態度に腹を立てている訳ではない。通勤電車に荷物のように詰め込まれることに対して腹を立てているのである。それに何も好き好んで都会の満員列車に乗っているわけでもないから、結局都会に住まざるを得ない自分自身に、自分で腹を立てているのだと思う。だからどうにも仕様がないと思った。結局東京に人が集まり過ぎているのである。
 盛岡の駅ビルでそばを食べ、秋田新幹線に乗車。新幹線と言っても実際は田沢湖線を走る在来線の特急である。しかし車両は新幹線なのでやっぱり新幹線である。つまり窓が小さい。小さな窓から雪景色を見た。峠の辺りは相当降っている。今年は雪が多くて大変そうである。一時間半で秋田に到着。
此処から羽越線で戻ることとす。秋田始発の特急いなほは一日三本しかない。その「いなほ」も新しくなっている。併し何処かで見たような顔をしている。常磐線を走っていた「フレッシュひたち」である。鳳生大学の合宿所が茨城の石岡に在った関係で、この車両には何かと縁があった。もし車両に御口が付いているなら、「いや旦那、お久しぶりです」なんて言って来るかもしれない。フレッシュなどという情けない苗字もなくなり、常磐線時代にはなかったグリーン車も付けて貰っているから、立派な栄転であると思った。
「いなほ14号」新潟行き16時36分の定刻発車。併しあっという間に日が暮れて、さながら夜汽車のような味わいとなる。酒田や鶴岡でも乗客はまばら。がらがらでは折角乗っている車販員も可哀想である。弁当と麦酒を購入すると、電子マネーカードはカラカラになった。
新潟は大きな町であるし割と最近行ったばかりであるから、少し手前の村上で降りることにした。村上定刻到着19時20分。近くのビジネスホテルに投宿す。路上は悉く融雪されているが、歩道は雪まみれである。村上は駅と中心街が離れているから、自転車でも無い限りとてもじゃないが辿り着けないと思った。仕方なく駅近くの中華料理屋に入る。色色と凝った感じの店だったが、出て来たものは大したことがない。ちっともピリッとしない回鍋肉と中華そばを食べて御仕舞とした。
それにしても旅先で出会った旨い物というのも中中無いと思った。握った箸が止まらないとして思い出すのは、西伊豆の鯵丼、小豆島の鯛刺し、天草の生鯖、足摺岬の鯖の漁師丼、気仙沼と網走の握り鮨ぐらいで、結局其れ等は元元の素材が良いから、そもそもが旨いのであろう。中華料理の様な料理人の腕次第という品目は、結局東京などの都会が一番結構ということになるのだと思った。十時就寝。


1/10・土
 今日から三連休である。幸いにして連休中、東日本のJRが乗り放題になる三連休乗車券というのが発売されている。当然三日間有効で13390円。特急券は別購入だが、此れを使わない手は無いと思った。まずは釜石を目指そうと思う。新花巻までの新幹線特急券4960円を追加購入。勢い込んで東京駅に行って見ると、東北新幹線が何時の間にか緑色の新車になっていて驚く。ということは、グランクラスという一等車が付いている。しかし仙台以北各駅停車の「やまびこ」などで、どれだけ利用客がいるのか不思議である。ガラガラの一等と二等の御蔭で、割安な自由席が少なくなるようでは困る。案の定、実質的に二両半しかない自由席は、出たり入ったりを繰り返し相当混雑した。そんなお客も仙台で大半が降車す。
新花巻下車。快速「はまゆり3号」に乗り換え。プラスチック容器に入った矢鱈貧相な「釜飯」を食べながら釜石に向かう。強風徐行の為、釜石には少し遅れて着いた。ここから先は山田線の不通区間である。ところで釜石の駅横にはJR系の巨大なホテルが建設中である。併しホテルは作っても、JRは意地でも此の区間を手放したいらしく、代行バスすら走らせていない。全国版の時刻表でも当該区間は網がかけられているだけで何の案内もない。偶偶同じところを走っている民営バスに乗って下さいという扱いである。従ってJRのきっぷも使えず。途中の「道の駅の山田」まで700円支払って、岩手県バスに乗る。高校生などをまあまあ乗っけてバスは北上す。
すると山の上の方は全く何ともないが、海の近くは悉く駄目である。僅かな地形の差、標高の差が、天と地ほどの差を生むから、災害も戦災同様も常に理不尽である。被災家屋は全て片づけられている。其の上で、ニュータウンのように土地の嵩上げ工事が行われているから、二重の意味で旧市街地は跡形もなくなっている。それにしてももうあの災害から四年近く経って仕舞った。もう四年、まだ四年。もう、震災遺構の保存や語り部が必要とされる段階なのに、まだ、家すら建っていない。山田線の線路も手付かずである。どうにも不均衡であると思った。そんな中でもドラッグストアーやホームセンターはよく建っている。大型店舗が立ち並べば正にニュータウンである。
乗客が二人になったところで、道の駅に着く。わかめラーメンを食べながら、此処で四十分待つ。宮古側から来た県北バスに乗り換え。また高校生を集めながら宮古駅定刻着。運賃870円。駅前の居酒屋では色色と親切にして貰った。宮古駅前の大波というホテルに宿泊す。


1/9・金
 明日からの連休を利用して東北に行こうと思っている。而も被災地近辺を。場所が場所だけに、何だかお楽しみという感覚は無い。国民としての一種の義務のようなものを果たす為である。午前中は宿を取ったり、時刻表を引っくり返したりして過ごす。
すると老人施設から電話がある。伯母が転倒したので、今から検査に行くという。検査結果次第では、明日から旅程が大幅変更である。色色と考えながら千寿に出校。幸い大事には至らなかったとのこと。どうにもああいう施設は一種の事大主義に陥りやすいと思った。何だか気が疲れて仕舞い何処にも寄らずに帰宅す。


1/8・木
 昨夜の飲酒の破壊力は凄まじく、朝の四時に老家人に起こされる。どうも居間で寝込んで仕舞った模様。四十歳が八十九歳に怒られる事態となる。ふらふらで入浴し、以後自室で本格的に休む。吐き気は無いが、寝たり起きたりを繰り返す。時間が経てば経つほど却って具合が悪くなる。確か月波君とほぼ二人で金宮焼酎の五合瓶を空け、二軒目で更に日本酒も飲んだ。悪酔いしない筈の金宮ですらこの有様だから、他の安酒ならば大惨事になっていた筈である。
今日から通常授業なので四時頃漸く出社。うっかり携帯電話を家に置き忘れる。こういうことは今までなかった。授業をしようにも、簡単な計算は出来ないし、言葉も漢字も巧く出て来ない。さながら認知症であると思った。九時前退社。餃子の王将に寄ったが、流石に一滴も飲まずに帰宅す。本日完全休肝。今度はパリで銃乱射のテロ事件。


1/7・水
 数日来の疲労と絶望で午前中は寝た切り状態。午後出社。取り敢えず参万円が支給される。多少機嫌を戻して、中三の授業のみ執り行う。六時半過ぎ退社。
月波君がやって来るというので佐渡屋に向かう。生憎一階は満席で二階に案内される。すると店主の釣り仲間も入って来て、相席ならぬ相部屋状態となる。慣れない時間から飲み始めると予想外のことが起こるものである。其の後鶴木さんらも合流。釣り仲間は階下に移り、二階は貸し切り状態となる。以後少し落ち着いて飲んだ。吾人と月波君は更に喜多方ラーメンチェーン店に移って、誰も邪魔が入らないようにして大量飲酒。十二時ごろ帰宅。


1/6・火
 昨日以上の南風が吹き、午前中は三月の陽気となる。御昼に千寿校に出校。以後八時間以上も連続授業す。千寿校の生徒のことは良く知らないし、学力も下限に近い。助けてくれる生徒も居ないし、話し相手も居ない。丸で孤独である。而も働けば働くほど教えれば教えるほど実質賃金が下がるから、懲役労働と言ったところか。吾人は差し当たって何も悪いことをしていないのにも関わらずである。そんな毎度毎度馬鹿馬鹿しい講習も、本日でほぼ終了す。
服役中に前線が通過したらしく小雨とともに寒くなる。出所後は、麦酒にカツ丼にラーメンと行きたかったが、結局Eで寿司を食べて帰った。但し一時間も電車に乗っていると、胃に隙間が生じて来る。すると急にとんこつ醤油ラーメンが食べたくなり、地元の工藤という店に入る。諸物価高騰の折り、此処のラーメンも700円に値上がりす。而も麺が何となく細くなっていて丸で食べ応えがない。大体、麺が太くないとんこつ醤油ラーメンなど、積極的平和主義同様、酷い形容矛盾である。恐らく茹で時間を短くして御客の回転率を上げようという経営判断なのであろう。大変な判断ミスであると思った。十時半頃帰宅。


1/5・月
 南の空気が入り込み、比較的暖かい一日。御昼前に久久に本務校に出社。授業の合間合間に溜まった事務仕事を片付けつつ、無責任社長と労使交渉に入る。それにしても、毎度毎度給料が支払えなくて御免なさいの一言も無い。生徒が足りないから、万事万物の御金が足りないの一点張りである。結局払え払えないの下らぬ言い争いである。
新年早早吾人は悉く絶望に至る。折角生まれて来た取り返しの付かない一生の一部を、全く実に下らぬ大貧学院の職業生活で、全く無駄に浪費して仕舞ったかと思うと、何だか沸沸と怒りが湧いてくる。以後吾人の腹は益益立って来て、色色と準備した筈の中学三年の空間図形の授業も台無しとなる。余りに腹を立てた余り、急に腹が減って来たので六時で強制退社。魚屋で平目の刺身を買い、往来に出て来たものは全て轢き殺してやるというくらいの凄い勢いで自転車を運転して帰った。六時半から家でがぶがぶと御酒を飲み始めた。


1/4・日
 連日連夜酷使した胃腸を労わるべく、レトルトの朝粥を食べ、日曜だが千寿に出社。以後午後一時から九時までずっと授業。
余りに腹が減ったので急いで退社して回転寿司Eに行く。残念ながら、ネタも舎利も既に不足気味。熱燗を二合飲み、四皿ほど食べたが、どうにも食べたい物が無さそう。止むを得ず退出す。明らかに食べ足りず。千寿駅構内の小諸蕎麦に入る。かき揚げ蕎麦350円。此の店はプラットホーム上にある。狭い厨房でありながら、生蕎麦をぐつぐつと茹で上げ、天麩羅をごおごおと揚げているから、富士蕎麦より偉いと思った。腹は膨れたが今度は飲み足りない。駅の売店ウイスキーの水割りを買い求め、半蔵門線で飲み直しながら帰った。十時半帰宅。


1/3・土
 恒例の駅伝見物。併し吾人は前半を欠場し、新年会の部から途中参加。余りに寒いので今年は総持寺へは行かずに、京急川崎の中華料理屋「天龍」へ参る。其の後、品川方面にバス移動。結局正月営業中の佐渡屋の二階に陣取る。此処で轍田さんも合流す。
ちなみに轍田さんは年末から関西方面の実家に帰省していた。併し折角実家に帰っても佳いことは何もなかったと悲憤慷慨している。轍田さんの母君は兎に角変わった方らしく、実娘が里帰りしたにも関わらず、屋内にすら入れて貰えなかったという。結局ネットカフェに寝泊まりしたそうである。以後、幼少の頃からの両親の酷い仕打ちの数数を滔滔と語るに至る。轍田さんの不幸の源泉のかなりの部分は、親子関係ということになるのだろう。問題の全く無い家庭など皆無だろうが、吾人や月波君の二等車のような暮らしぶりとは随分違うと思った。
日中の冷気と店内の紫煙に上に加え、轍田さんの毎度毎度の不幸話に当たったせいか、くしゃみと鼻水が止まらない。数日来の大量飲酒で胃もざらざらして御酒も美味しくない。八時過ぎに漸くのお開きとなる。這う這うの体で帰途に就く。帰りがけの電車では無責任社長とも遭遇し、新年早早ロクなこと無し。目黒から鼻頭を押さえながらバスで帰宅。明日から千寿勤務。九時半頃には就寝す。


1/2・金
 御昼頃には漸く晴れた。少し運動しなくてはならないので自転車で出掛けた。すると拙宅から一番近い花屋に閉店の貼紙がしてある。確か年末に買ったばかりなので少し驚く。スーパー・コンビニ、インターネットが何でも売って仕舞うから、最近は花屋も楽ではないのだろう。稼ぎに追いつく貧乏神、若しくは、家賃に追いつく稼ぎ無しと言ったところか。別に、噂のピ博士の大著を持ち出すまでもない。その程度のことは商店街を歩けば誰にでも分ることだろうと思った。又其れは大貧学院とて同じことである。


1/1・木
 昨年の人口減26万人、出生数は100万人を割り込む寸前となる。GDPが上がらないのは消費増税のせいだけではないだろう。
政府は贈与税を減らして所得移転を進めたいらしい。しかし贈与するだけの余分な御金がある家系は、そもそも御金がある所であるから、格差を縮小させることにはならない。それに家計の把握は大抵困難であるから、贈与税に取りっぱぐれが多いことは、元首相の例を持ち出すまでもないだろう。相変わらず政府のやっていることは滅茶苦茶である。
 例によって朝酒と朝寝。朝は晴れたが、強力な寒気が入り御昼には曇る。時折小雪が舞った。吾人宛の年賀状は辛うじて二桁を維持。年賀状が三百枚ぐらい来る大人になりたかったものである。