両論併記は不要です・・・歴史修正主義に抗して

 両論併記といえば、公平そうで聞こえはいいが、もし、その一方がおよそ聞くに足らないような、とんでもない主張であったら、我々はどうすべきか?  公平を期して、併記するか、それとも無視するか? そもそも、そのとんでもない主張を、社会の表舞台に立たせ、議論させること自体が、彼らにとっての目的であるとしたら?…。
「たとえ敵対者同士であっても、その二人の人間の間に対話が成立するためには、共通の土俵が、今の場合、真理に対する共通の敬意が前提とされるものだ。しかし「歴史修正主義者たち」を相手とする場合、このような土俵は成立しない。月はロックフォールチーズで出来ているなどと断言する「研究者」がいると仮定して、一人の天体物理学者がその研究者と対話するような光景を想像できるだろうか。歴史修正主義者たちが位置しているのは、このようなレヴェルなのだ。」(P・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』)
 まあ、あの論文の発覚からの、定年退職にいたる過程は、今の政府の対応としたら、及第点が出せる水準ものだったと思う。懲戒手続きなどが長引けば、とんでもない主張が展開され、論が展開されればされるほど、問題が大きくなるからだ。政府としてはさっさと幕引きを果たしたかったのだろう。
しかし野党主導で行われたあの参考人招致は、よくなかった。第170回国会・外交防衛委員会において、参考人を呼ぶとしたら、あの元自衛官ではなかった。あのとんでもない主張が、国会の議事録に残ること自体、彼ら修正主義者にとっては「思うつぼ」なのであり、あの元自衛官は「名をあげる」ことになったのだから。
もし参考人として呼ぶとしたら、それは防衛省の人事担当者である。あのような発言を繰り返していたあのような人物を、今までどのように把握していて、さらには大出世させていたのかについて調べることは、文民統制という観点から有効であった。
一方、マスコミの側も、どのようなスタンスでこの問題を取り上げているのだろうか。比較的良識的とされるメディアですら、彼ら相手に「議論」をしてしまっているように見える。当然とても噛み合うようなものではない。しかし、彼らは、しゃべりたがっている。彼らは自らの陣営の主張を展開するだけで十分なわけである。
「一つのセクトが、極めて小さなセクトだが、とはいえ、執拗なまでにあらゆる努力を傾注し、あらゆる手段―ビラ、作り話、漫画、自称するところによれば学術的かつ批判的な研究、専門雑誌―を利用して真理をではなく、真理に対する自覚を打ち砕こうとしているのである。」(同上)
現在のマスコミには、彼らを議論の場に招待すること自体が、どれだけ彼らを利することになるかということへの自覚がまるでない。
「したがって、私は次のような自分なりの規則を立てることにした。すなわち「歴史修正主義者たち」について議論することはできるし、かつまた、そうしなければならない。嘘を解剖するように彼らのテクストを分析することができる。が、「歴史修正主義者たち」を相手に議論はしない。私には彼らに答えるべきことがなにもないし、彼らに答えるつもりもない。」(同上)