今さら職業訓練?

 明治・大正・昭和と生きた文明批評家の長谷川如是閑は、大の職人好きだったという。煮豆づくり一筋の「煮立て隠元のじいさんと呼ばれた煮豆売りの老人」を英雄視し、また「酔いどれの老ブリキ職人が、ふるえる手に鋏をとって、ブリキ板に煙突を通す穴をクルリとあけると、それがまるで機械であけたようにその煙突にしっくりと合っているのを見て、私は涙をこぼしそうになった」(『長谷川如是閑評論集』)とある。
もっとも懐かしがって書いているあたり、これらの文章が書かれたころには、市井に生きる職人は、すでに姿を消しつつある存在であったことが分かる。
それから数十年(というより百年近く)経た今日、失職したいわゆるハケン労働者や非正規労働者を救済する上で、様々な職業訓練を施そうという構想が持ち上がっている。つまり、もっと高度なスキルを身につければ、職業人としてもっと高い地位を得られるはずだというわけである。
 一見したところ、まっとうで、ありがたい施策の様に見えるが、この構想はそもそも今日の産業構造を無視している。はっきり言えば、現代のあらゆる職種・職業で、「熟練」や「技術」という概念自体が、ますます不要になってきている。
身の回りを見ればわかることだが、服も家具も家も大量生産品だし、流通や飲食やサービス業もチェーン化(いわゆる「マクドナルド化」)が進んでいる。そうした産業に従事する上では、技能や経験はむしろ不要である。まっさらで、体の丈夫な人が歓迎される。
今日、熟練や職人などという存在は、例えば伝統工芸のような分野に限られるだろう。誰もが伝統工芸職人になれるわけではないし、また苦労してなったところで、仕事はないのだ。
現実的には、大多数の人々がこれからも既製の量産品に囲まれ、また安価な外食をするのと同様、多くの労働者が、機械の前で単純作業を繰り返し、またコンビニのレジに立ち、ファストフードの厨房に入ることであろう。これは、仕方のないことなのである。
ならば、そうした非正規労働者であっても、自立した生活ができるように、賃金や社会の制度を整えなくてはならない。
具体的には、事業規模に応じて正社員の割合を一定以上にするとか、最低賃金の大幅な上昇などの施策が必要である。そして、そのコストは、最終的には消費者が負担すべきである。モノの値段が高くなるのは、つらいことかもしれないが、何事にも適正価格というものがある。「フェアトレード」は、なにも途上国との貿易に限る話ではない。
ちなみに冒頭の長谷川如是閑にとっては、「腕一本で、組織や人間関係や権威に依存することなく、自由に独立した生計を立てうる職人のあり方は、一貫して理想の生き方のモデル」であって、またギルド社会主義に最も共感を寄せていたという。(同書の解説より)
今日、それらは全く不可能になってしまったが、「最も多く苦痛を負担しているものが最も有力である社会は、さもあるべき社会」(同)なはずなのだから、生活が維持できないような賃金は是正されなくてはならないのだ。