近代を批判してすいません。

 私は高校現代文の授業も担当しているのですが、授業以外に本はおろか新聞すら読まないような生徒たちに、どうやって文章の読み方を教えるのか、毎回苦心しています。現代文は教えようがないとよく言われますが、大学に行けばやはり座学が中心ですし、社会人となって報告書を書く機会も多いと思います。したがって、現代文は一番実践的な科目であるともいえるのです。
 そんな私が最近手にしたのは『新釈現代文』(高田瑞穂)です。これは初版が1959年の大学受験用の参考書を先ごろ復刊したものです。
 まず驚いたのが、当時の入試問題の本文の短いこと、短いこと。今の半分もありません。なんでも当時は、戦前からの知識偏重の問題から読解中心の出題への転換期だったそうで、設問は今日のような形式なのですが、本文の短さは戦前の名残ということらしいです。
 次に気付いたのが、入試本文が鮮烈な啓蒙精神にあふれているということです。元々の出典は不明ですが、再引用してみますと、「我々は伝統や現実に盲目的に追従するものではなく、自由意志にもとづく一定の価値判断から、それらのものに対して取捨選択を行う」とか、「諸君が学校にはいるのは世間と隔離された温室の中でひ弱な花を開くためのものではない。他日大木となって社会の暴風雨と戦うべき不抜の根を確かに地中に張るためである」とか。格調高い名文ですよね。50年前の入試参考書ですから、引用されている文はそれ以上前に書かれたということになります。
 もちろん今日の入試問題には、こうした文章は出題されません。出典は最近の評論文ですから、圧倒的に近代批判の文章が多いです。だから、私も現代文を教えるうえでは、やれ〈近代はすでにマイナスイメージ〉だとか、〈啓蒙・進歩・科学・合理主義等々は、本文後半で必ず筆者に否定されるのでいわば捨石だよ〉などと説明してしまいます。
 でも、そもそもを思い起こせば、今日の若者の多くは、近代思想の意味はもちろん「日本国憲法」や「労働基準法」さえまともに知らされずに、社会の中に放り出されてしまいます。そしてそこは、戦前の『蟹工船』に例えられ、あるいは「(資本主義的な)新しい中世」(山口泉)とも言えるような超格差社会の出現が迫っています。
近代批判より、まずは近代の意味を定着させることから始めるべきなんですよね…。まことに、すいませんです。
殊に本書の解説(石原千秋による)も「なんとまっすぐに〈近代〉を信じられた時代だったろうか」「ポスト・モダン思想は〈近代〉を抑圧の装置として批判してやまなかった」としつつも、「ポスト・モダン思想のまっただ中にいる」私たちにとって、「〈近代〉批判によって失われたものも少なくはなかった」とありますから、復刊の目的の一つは「近代批判の批判」にあると言えるのではないでしょうか。
 すいませんでした。近代批判ばかりしてしまって!! けっして私の本意ではありません。反省の意味をこめて、本書を使って何回か授業してみます。そしてこのコーナーでは、以下の文を引用してお詫びにかえたいと思います。
「〈デモクラシー〉が高尚な理論やありがたい説教である間は、それは依然として舶来品であり」「それが達成されるためには、やや奇矯な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化が行われねばならぬ」(丸山真男
「これ民権論なり。しかりこれ理論としては陳腐なるも、実行としては新鮮なり」(中江兆民