150年前のワークライフバランス

 ワークライフバランスなどという言葉を聞くと、さも新しいことのように思えますが、要は働きすぎ・儲けすぎの生活から、一昔前の生活に戻ることのように思えます。もっとも、一昔と言っても150年!!ぐらいですが。
「19世紀の中葉までの前貸問屋(ヨーロッパにおける繊維工業の一部門)についてみると、その生活は今日のわれわれの観念からすればかなりゆったりしたものだった。営業時間は長くなく…おそらく一日5.6時間にすぎず、時にはそれよりはずっと少ないこともあり、繁忙期などはもっと長かった…儲けはともかくも相応の生活を維持して、好景気の時に小財産を残す程度にすぎなかった。同業者たちの営業方針が相互にだいたい一致していたから、折れ合いも比較的よく、日々クラブを訪れて、しばしば夜明けまで痛飲したり、気のあった仲間と集まったりして、生活のテンポは一般に悠長なものだった。」
 飲みに行く時間を多少削って、育児や介護に充てれば、絶妙のワークライフバランスではありませんか。なんだか、理想の生活のように見えませんか??
でも、「あるとき突如このなごやかな生活の攪乱される時がきた。問屋制前貸を営む家族出身の一青年が都市から農村に出かけ、織布工たちに対する支配と統制を強化し、農民的な彼らを労働者に育成する。顧客を自分で獲得し、製品を改良し、〈薄利多売〉の原則を実行し始めるのだった。(中略)つまり、向上しえないものは没落せねばならないのだ。激しい競争が始まるとともに牧歌的な生活は影をひそめ、巨額の財産は獲得されても、後から後から事業に投資され、のんびりとした、気楽な生活は失せはてて、厳しい冷静さがそれに代わった」。(マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から。多少要約あり)
 この青年は、いわゆる立志伝に乗るような大経営者になったことでしょうね。最近なら「カンブリア宮殿」(テレビ東京)に出るような…。その一方で多くの人たちが、激しい競争に巻き込まれ、働きすぎの状態に陥っていったというわけです。
 政府などはいろいろと策を練っているようですが、現実的には、ワークライフバランスを実現するには、この無限競争から「そこそこ降りる」ということでしかなしえないと思います。たとえば、上を目指さない勤め人や、社内半失業者である窓際族とか…。
 でも、今日この「そこそこ」という加減が、非常に難しくなっています。競争はますます激しくなっていますから、そういう人は、正社員の座から降ろされてしまう。あるいはちょっと正社員から降りたつもりが、完全な転落になり、ついにはハケン村に行くことになってしまうといった風です。(かくいう、わたくし貧乏卿も、「そこそこ」降りたつもりなのですが、実際には想定以上の低賃金にあえいでいます。)
 つくづく、「降り方」の難しい社会になったものだと思います。それは比喩的な言い方になりますが、資本主義のスピードがあまりに速くなってきたからではないでしょうか。みんな本当はついていくだけで必死なのに、みんなが走るから、つられて走り、結果としてますます速くなる…。
でも、この不況で仕事が減り、すこし遅くなってきた。となると、もうすこし別な降り方の可能性が出てくるのではないか。私は多少の期待を持っています。